第14話
※
ヘリは高度五百メートルを保って飛行した。向かう先、真正面にあるのは十字架、もといモノリスだ。
霧香たちが向かっているのは、そこからそう遠くない旧東京湾沿岸部。ポート・トーキョーとはいくつかの橋で結ばれているが、今回は華山救出の緊急性の高さからしてヘリでの移動になった。
「霧香、大丈夫か?」
「だから大丈夫だよ」
再度尋ねてきた山路に、軽く笑みを浮かべて返す霧香。だが、山路の胸中は穏やかでなかった。
霧香はまさに、今眼下にある旧東京湾の埠頭で溺れ、命を失いかけた。そして今でも水場を恐れるようになってしまっているのだ。
山路に言わせれば、地雷を喰らったのと同じ平野をもう一度歩け、とでも言われているような感覚であり、自分にはとても耐えられまいと想像できてしまう。
克服はできていないにしても、どうして冷静でいることが(少なくともそれを装うことが)できるのだろう? 雨宮兼嗣少佐の娘だから? だが、父親である少佐はもういない。
まあ、泳いで渡れと言われたわけでもないし、安全ではあるのか。
山路がどうにか自らを納得させようとした、その時だった。耳をつんざくアラートが、ヘリのキャビンに響き渡った。
山路はすぐさま、操縦席背後の機内通信機に手をかける。
「どうした!?」
《地対空ミサイルを捕捉しました! 本機は狙われています!》
「なっ!」
これには山路も驚愕し、同時に大いに危機感を煽られた。
「発射場所は?」
《対岸、旧東京湾のビル屋上です! これから本機は回避運動に移ります、お二人共シートベルトを!》
了解、と口にすることで、山路は自らを落ち着かせた。と同時に、ヘリの両側からぱぱぱぱっ、と閃光が走るのが見えた。チャフだ。細かいアルミニウム片をばら撒くことで、敵の誘導兵器を一時的に無力化する。
本機のパイロットの技量は大したもので、第一陣――ミサイル四発は防ぎ切った。
だがそれが本命でなかったことを、三人は思い知らされる。
回避運動先を、完全に読まれていたのだ。どうしてそれが分かったのか。高射砲が下方で唸りを上げ、ヘリを蜂の巣にせんと迫ってきたからだ。
チャフは、熱線追尾兵器にしか通用しない。一般の銃弾や高射砲の弾丸で精確に狙われたらひとたまりもないのだ。
もちろん、それらの弾丸の一発ごとの威力は大したことはない。だが、ヘリとて精密機材の塊だ。本来なら、すぐさま引き返すべきだった。
しかし、そんな提案をする権利も余裕も、霧香や山路には託されていない。階級がどうあれ、ヘリでの移動中はパイロットの判断が絶対だ。
《お二人共、酸素ボンベと吸引機は?》
「大丈夫、装備した!」
《本機はできるだけ降下します。飛び降りてください!》
「ま、待て! そうしたらお前はどうなる?」
《華山警視の救出が最優先です、せめてあなた方だけでも!》
ぐうの音も出ないとはこのことか。
「山路さん、早く撤退しないと!」
「分かってるよ、霧香! だがパイロットの命令は絶対だ、お前だって分かってるだろう!」
山路が怒鳴り声を上げる間にも、ヘリはぐんぐん高度を落としていく。しかし、目標降下地点上空に達した時には、既に回転尾翼は吹っ飛ばされていた。
《早く! 今のうちに飛び降りてください!》
「仕方ない、行くぞ、霧香!」
「りょ、了解!」
山路は目測で、高さ三百メートルはあることに気づいた。こんな高さから飛び降りては、霧香はもちろん、自分だって脚部の人工フレームが歪んでしまうかもしれない。
せめて霧香だけでも現場に届けなければ。山路は、ちょっと待ってろ、と言って、いきなり霧香をお姫様抱っこした。
「えっ? な、なになに山路さん!?」
「お前は動くな。飛び降りは俺に任せろ。それからパイロット、俺はあんたの顔も名前も知らないが、あんたから預かったこの命、大切に使わせてもらう」
ザザッ、とノイズが入る。もしかしたらパイロットが笑ったのかもしれない。
《了解です、山路警部。雨宮警部補も、どうかご無事で!》
「了解!」
と復唱するや否や、山路は勢いよく飛び降りた。
その直後、ヘリは一気に高度を落とし、くるくると回転し始めた。数秒後、放置された高層ビルの壁面に衝突、大爆発を起こした。
宙に躍り出た二人は、たちまち速度を増していった。自由落下において、霧香の最高落下高度はせいぜい二百メートル。山路とて三百メートルがいいところだろう。今落着を試みている山路の脚部がもつかどうか。
仕方ねえな、という山路の言葉は、あっという間に宙を流れていく。
「霧香、身体を丸めろ!」
疑問を挟まず霧香は指示に従った。
山路に抱き込まれる格好になった霧香には、山路が何を考えているかはすぐに分かった。落着直前にバーニアを噴出し、落下の衝撃を相殺する気なのだ。
それがいかに危険な行為か、霧香にも分かっている。だが今は、自分よりも経験豊富な山路の判断を信じるべきだ。
それと同時に、霧香はヘリのパイロットの技量に舌を巻いていた。山路と自分の落着予想地点は、元々の着陸予定ポイントから百メートルとズレていないのだ。あれだけの対空砲火に晒されながら、よくぞここまで自分たちを運んでくれたものだ。
すると頭上から、山路の声が掠れ掠れに聞こえてきた。
「落着三秒前! 二、一!」
零、とカウントする直前、二人の身体はふわり、と浮き上がった。
ゴオッ、という排気音が響き渡り、青白い炎が山路のふくらはぎと背中から噴出される。
「うわっ!」
「おっと!」
霧香は山路から投げ出され、ごろごろと地面を転がった。どうやら空き倉庫の天井を破って落着してきたらしい。自らも身体を丸め、壁にぶつかったところで山路は停止した。
「霧香、無事か!」
「山路さんこそ、大丈夫?」
「いや、そうでもねえな」
山路は振り返る。そこには、背負われていたのは、僅かに亀裂の入った酸素ボンベだった。
「ちょっ、大丈夫じゃないじゃんか!」
「だから大丈夫じゃねえって」
今の二人は酸素ボンベを背負い、口元に人工呼吸器を宛がっている。理由は単純で、旧東京湾沿岸は廃工場の集積地店であり、有害なガスが未だに生成されている可能性があったからだ。
霧香が腕時計型の測定器を見下ろすと、確かに生身では死の危険に直結するような有害なガスが測定された。まともに呼吸してしまったら、二十秒とはもつまい。
「山路さん、救急ヘリを要請しよう。作戦は私と特殊急襲部隊で遂行を――」
「駄目だ」
「なっ、なんでだよ? その装備では山路さんは戦えないじゃんか!」
「この地下に敵の拠点があるなら、清浄な空気も確保されているはずだ。俺の酸素ボンベはあと十五分もつ。その間に乗り込んじまった方が、むしろ安全だ」
そう言われてしまったら、霧香には言い返す根拠がない。
「作戦会議にあった通り、この地下にはバリアに関する研究施設がある。華山課長もそこにいるはずだ。さっさと行くぞ」
「でも、本当なのかな? 地下で十年近くも籠って生活しているなんて……」
これはヘリの中で行われていた作戦会議での話題でもあった。
今の日本で最も隠れ家に相応しいのは、有毒ガスに満ちた東京湾沿岸の地下だ。幸い華山のバイタルサインが目印になったため、霧香たちは見込みをつけることができた。
しかし、機密保持ということを考えれば、地下に籠りっぱなしになる必要がある。水も空気も食料も、はたまた電力や通信システムなども、地下で賄ったり、操作できるようにしたりする必要がある。
山路曰く、それらを管理できるような広大な地下空間が密かに建造されていたのではないか、とのことだ。
だが現在、そのアイディアに辿り着いた山路が、どれほど戦えるか分からない状況にある。
基本的に、刑事は二人一組での行動を行う。それゆえ、霧香は今までにない緊張感を強いられていた。急いで山路を地下の施設内に連れて行き、酸素ボンベがなくとも呼吸できるようにしてやらねば。
「山路さん、確かこの倉庫だったんだよね? 地下施設の入り口」
「ああ、そうだ」
互いにややくぐもった声で言葉を交わす。
すると霧香はひざまずき、耳を地面に当てた。それからコツコツと叩いてみる。
「おっ、ちょうどいいじゃん」
そう呟くや否や、霧香は修繕されたばかりの右腕を思いっきり振りかぶり、ドン! と拳を床にめり込ませた。
そこを中心にひび割れが生じ、霧香がバックステップする頃には、暗い大穴が開いていた。
いつぞやの下水管を思い出させるような暗い通路が左右に走っている。華山を人質に取った時点で、敵も自分たちの居所が霧香たちにバレることを知っているはず。待ち伏せには警戒しなければ。
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