第8話

「そもそもさあ霧香、どうして普通のシャワーやバスタブがないの? ミストシャワーだけじゃ、身体を洗えた気がしないよ!」

「そう? 背中流してあげよっか?」

「そういう問題じゃない!」


 寝袋を必死によじりながら、廻は霧香に抗議する。

 だが、霧香が返した言葉は意外なものだった。


「私、怖いんだよね。水って」

「え?」


 突然鋭く、細い声になった霧香に、廻は少なからず動揺した。


「話、聞く?」

「聞いてもいいの?」

「あれ? 聞きたくないの?」


 質問を質問で返されてしまい、言葉を見失う廻。そんな彼から目を逸らし、霧香はベッドで横になった。手元のスイッチで照明を落とす。

 窓から差し込む屈折したネオンの中で、霧香は語り出した。


「あれは十五年前になるかな。私が五歳の頃だから、たぶんそうだね」


         ※


 十五年前、東京湾品川埠頭。


「霧香、大丈夫か!」

「お、お父さん!」


 父親に背負われながら、霧香はその太い首にぎゅっと腕を回した。二人は今、埠頭に停泊した国防陸・海軍のホバークラフトに乗り込むべく、避難民の列に並んでいる。


「ようし、いい子だ。そのままお父さんに掴まっているんだぞ」


 首を捻ると、真っ赤に染まった夜空が目に入った。この付近、あたり一面が燃えている。

 しかし、一部分だけ焼失を免れている部分がある。いや、違う。あれはモノリスだ。モノリスの黒い、やや紫がかった外皮の部分だけ、炎が見えづらくなっているのだ。


「雨宮少佐!」

「おう、山路中尉。ちょうどよかった、この子を頼む」


 さっとコンクリートの地面に下ろされる霧香。え? という間抜けな声が、自分の意志に反して飛び出した。


 お父さん、一緒に逃げてくれるんじゃなかったの?

 そんな言葉が口から出かかったが、辛うじて胸中で呟くに留めた。母親から常日頃聞かされていたからだ。

 自分の父親、雨宮兼嗣少佐は国防陸軍の特殊部隊の所属であり、常に危険と隣り合わせの任務に従事しているのだと。だから、危険に立ち向かう邪魔をしてはならないと。


 だが、これだけは訊いておかなければ。


「お、お父さん! お母さんはどこ?」

「もう避難したよ。心配するな」


 そう言って、父親は白い歯を見せて笑った。いつも家で見せてくれる、愛嬌があって優しさに満ちた笑顔だ。

 しかし、それも一瞬のこと。逃げ遅れた人々を捜索すべく、父親は避難民とは逆方向に駆け出した。


 お父さん、死なないで。

 そう叫ぶことができたらどれほど楽だっただろう。だが、それは軍人を親に持つ子供には許されざる行為だった。


 ぎゅっと唇を噛み締める霧香の肩に、そっと誰かの手が載せられた。


「さあ、霧香ちゃん。俺と一緒に逃げるんだ」

「……」

「お父さんなら大丈夫だ。俺が、山路幸雄が一番尊敬する上官だからな。絶対に無事追いついてくれるさ」

「……」

「俺と一緒に列に並ぶんだ」


 その言葉に、ようやく霧香は意識を山路へと向けた。彼もまた愛想のいい笑みを浮かべている。

 当時の霧香には、その笑顔を振りまくのにどれほど山路が苦労したか、分かったものではなかったが。


 その時、ヒュンッ、と空を切る音が連続した。国防空軍の対地攻撃戦闘機が、倒壊したビルの屋上を掠めながら飛んでいく。

 直後に爆発が起こった。ミサイルがモノリスを直撃したのだ。

 速すぎて霧香にはミサイル自体は見えなかった。だが、やや間を置いてドゥン、という爆音が連続し、その小さな身体を震わせる。


「きゃあっ!」

「おっと!」


 自らの背中を爆光に向けながら、山路は霧香を庇うように抱きしめた。

 すると、一斉に避難民の足が速まった。爆発が危機感を煽ったのだ。


「民間人の皆さん! 押さないで、冷静に進んでください! ホバークラフトはまだ来ます! 沖合の艦船にも乗員の余裕があります! だから落ち着いて!」


 そっと霧香を背負いながら、山路が呼びかける。が、その声に耳を貸す余裕のある人間はいない。

 

 ぎりっ、と奥歯を噛み締める山路。だが、状況は更に悪化することになった。

 太平洋上の空母から発進した戦闘機の第二陣が、霧香たちの頭上で大爆発を起こしたのだ。


 モノリスはこの攻撃を予期していたように向きを変え、前面と思しき部分――魔法陣が描かれている――から金色の光線を発した。

 音もなく照射されたそれは、戦闘機の編隊がミサイルを放つ前に全機を薙ぎ払い、僅かに焼け残った残骸が避難民たちの頭上から降り注いだ。


「皆、伏せろ!!」


 山路が叫ぶ。しかし、パニックの度は増すばかりだ。

 その時の山路が何を思ったのか、それは分からない。しかし霧香にとって確かなのは、山路が一つの決意を持って行動に移ったということだ。


「霧香、息を吸って止めろ!」


 そう叫ぶや否や、山路は埠頭を横切り、霧香を抱いて海に飛び込んだ。

 心身共に準備が整わず、霧香は思いっきり水を飲み込んだ。


 苦しいとか、肺が痛むとか、そういった感覚は後付けに過ぎない。ただ霧香の眼前にあったもの。それは死だ。死神が霧香の足を引いて、地獄へ引き摺り下ろそうとしているのだ。


 視線の先には、必死の形相で目を閉じる山路。それに、海面を撫でるように広がっていく爆炎。

 爆風に巻き込まれるのは避けられたらしい。だが、これでは自分は溺死する。

 

 どっちにしろ、自分は死ぬんじゃないか。

 霧香が絶望に駆られながら思い起こしたのは、炎と瓦礫に突撃していく父親の背中。それに、陸軍の輸送ヘリでどこかへ連れられて行く母親の寂しげな笑顔だった。


         ※


「お母さんはどうしたの? 山路ってあのおっさんは? それにお父さんは帰って来たのかよ?」


 ふうっ、と霧香は溜息をついた。


「母さんは、モノリスが東京に現れた時点で私からは引き離された。父さんとの会話を盗み聞きしたところだと、母さんにしかでいない重要な務めがある、なんてことらしいけど」

「重要な、務め……?」

「十五年経っても、一体何があったのかは分からない。行方不明者扱いだ」

「じゃ、じゃあお父さんは? 無事帰って来たんだろ?」


 霧香は首を曲げて、廻と目を合わせた。


「瓦礫の中に閉じ込められた子供を救おうとして、墜落した戦闘機の爆発に巻き込まれたらしい」

「で、でも!」


 廻はずるずると上半身を寝袋から出し、尋ねた。


「霧香と山路は助かったんだろ? だよな? 幽霊じゃないもんな?」

「ま、代償はいろいろとね」


 代償、という言葉に、きょとんとする廻。


「何があったんだ?」

「私と山路さんは、辛うじて陸に上がった。でも、それだってギリギリだったんだ。特に山路さんは、溺れた私を抱えてたからね。さっきの代償ってのは、こういうことさ」


 すると霧香は照明を点けベッドの上で立ち上がった。寝間着姿だが、その下に防弾ベストを着ているのが廻には分かる。

 流石に霧香が寝巻を脱ぎだすとは思わなかったが。


「ちょっ、待てよ霧香! 突然脱ぎだすなんて……」

「大丈夫。下着はつけてるから」


 その言葉に安心できたわけではない。だが、このまま掌で目を覆っているわけにもいかない。

 廻はゆっくりと手を下げ、そっと瞼を開いた。


 ベッドの上で仁王立ちになっていたのは、確かに下着姿の霧香だった。が、問題は下着の有無ではない。四肢が変形していることだ。


「な、あ……」


 言葉を失う廻の前で、霧香は大の字に四肢を広げる。するとすぐさまふくらはぎが展開し、バーニアが見えた。鎌使いと戦った時に使用したものだ。

 両腕もまた展開される。骨格は最新鋭の強化素材で形成され、人工筋肉の隙間に単発式の大口径ライフルが格納されていた。


「ちょっと外側からは見づらいけど、一応全身の骨格は強化素材に交換してあるんだ。念のためにね」

「ね、念のため……?」


 そう、念のため。そう言って、霧香はさっさと防弾ベストと寝巻を纏い始めた。


「ああ、首から上は大体本物だから」

「でも、どうしてそんな身体に……?」

「実験台に立候補した。サイボーグのね。そうそう、話を戻すけど」


 霧香によれば、山路が海中で霧香を庇っている間に、モノリスはグランド・テックの投擲した剣で弱点、すなわち魔法陣の中心を貫通され、活動を停止したのだという。


「私を守ってくれたぶん、山路さんはずっと酷い怪我を負ったんだ。具体的に訊いたことはないけど、臓器もほとんど機械化したんじゃないかな。私と違って」


 霧香が高度二百メートルの高層ビルから飛び降りることができたのは、彼女がサイボーグとしての利点を知り、うまく活用できたから。何ができて何ができないのかは、容易に生死を分ける。


 ショッキングな事実を見聞きして、廻はぽかんと馬鹿みたいに口を開け、霧香の次の言葉を待つしかなかった。

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