第6話【第二章】

【第二章】


「はあ、はあ、はあ、はあ……」


 少年は、息を切らして走っていた。雨が止んだばかりで、スニーカーがばしゃばしゃと音を立てている。

 振り返る余裕はない。振り返ったところで、敵との距離が遠ざかるわけではない。


 周囲は薄暗く、四角形の背の高い影が少年を囲んでいる。廃ビル群だ。このあたりはスラム街の近くだが、遠くの繁華街の明かりが反射され、僅かに残ったビルの窓ガラスが派手なネオンを帯びて輝いている。


 少年にそれを見上げる余裕はない。

 殺されないであろうことは分かっている。しかし、電磁パルスガンを撃ち込まれ、気絶したところを引き戻される可能性は捨てきれない。


 敵のものと思しき足音はしなくなっているが、油断は禁物だ。先回りされているかもしれない。そこで、少年の脳裏を疑問がよぎる。


 待てよ? 僕は何故追われているんだ? 僕が何か罪を犯したか? それとも、犯罪に巻き込まれつつあるのか? 考えれば考えるほど、少年は混乱してしまう。


 僅かに走行速度が鈍る、まさにその瞬間だった。


「うあ!?」


 窪んだ地面に足を取られた。はっとして振り返ると、しかし敵の姿はない。立ち上がって再び駆けだそうとする、その時だった。


「ッ!」


 今度は悲鳴も上げられなかった。視線を前に戻した時。

 敵はそこに、音も立てずに佇んでいた。防弾バイザーの付いたヘルメットに、防刃・防弾ベスト。夏だというのに長袖で、ゆっくりと大きめの拳銃――電磁パルスガンを持ち上げる。

 その狙いが自分の心臓に向けられているのが、少年には確かに感じられた。


 何が何だか分からないが、逃げ出せたというのにこのザマか。少年は、その齢には不相応な、自嘲的な笑みを浮かべた。

 そのままゆっくりと目を閉じて、ばしゃり、と地面に膝をつく。両手を掲げる気力もない。


 だが、妙だ。いつまで経っても、パルスガンによる痺れや痛みがやってこない。

 恐る恐る目を開ける。よく見ると、男の背後にもう一人の人物がいた。密着する距離だ。


 その人物がすっ、と腕を引くと、まるで勢いよく振ったボトルの炭酸飲料のように、ぷしゅっと鮮血が噴き出した。


「う、うわあああっ!」


 これには流石の少年も腰を抜かした。ばったりと倒れ込む敵。

 彼と共に少年を挟撃する予定だったのだろう、背後からも足音がようやく響いてきた。だが、それもすぐ乱れて止んでしまう。

 

 頭上からダンダンダンダン、と鈍い銃声が轟いたからだ。薬莢がすぐそばに落ちてきて、かつん、かつんと音を立てた。


 今度こそ、恐る恐る振り返る。

 そこには、自分を追ってきたと思しき戦闘態勢の男たちが四、五人、頭頂部を撃ち抜かれて倒れ込んでいた。

 生の死体など見たことはないが、少年にはこう言われているように思われた。

 さあ、これが本物の死体ですよ、と。


 首を斬られた敵が横に突き飛ばされ、その背後からラフな格好の女性が現れた。かなり若いが、纏っている雰囲気は殺人行為に慣れた者のそれだ。


「大丈夫か、坊主?」


 頭上から声をかけてきたのは、対照的に大柄な男性だった。地上二十メートルの高さから悠々と飛び降りる。肩には背負うようにして、大口径のライフルを所持している。


「山路さん、その子で間違いないの?」

「ああ。だよな、幹也廻くん?」

「え、あ、僕は……」

「おっと、敵の第二陣が来る。お喋りはまた今度な」


 すると、軽い鈍痛が後頭部に走った。どうやら自分が手刀を喰らったらしい。

 こうして少年、幹也廻は、雨宮霧香と山路幸雄によって警視庁へと連行された。


         ※


 警視庁警備部SCB課課長室。


「ひっどいよハナちゃ~ん! 一晩で強襲して、殺されかけて、挙句子供の救出任務だなんて!」

「まあまあ、人生そう上手くはいかないもんよ、キリちゃん」

「でもさあ……」


 キンキン声で言い争う女性の声に、廻は意識を取り戻した。自分は座っているようだが、ここまで自力で歩いてきた記憶がない。

 ああ、そうか。今自分は、車椅子に載せられているのだ。ということは、僕を運んでくれたのは――。


「おう、気がついたか、坊主」

「ぼっ、坊主じゃない!」

「ほほう、気を取り戻して第一声がそれとは、なかなか根性が据わっているな」


 褒められているのか侮蔑されているのか分からないまま、廻は周囲を見渡した

 随分広い。コの字型にデスクとディスプレイが配されていることから、誰かの執務室なのだろう。

 

 するとちょうど、ディスプレイの隙間からある人物と目が合った。確かハナちゃん、と呼ばれていた女性だ。

 すっと視線をずらすと、デスクの前に立って腕組みをしている二人目の女性が目に入った。キリちゃん、だったか。どうやらこの部屋にいるのは、自分を含めて四人だけらしい。


 かちり、と音がして、車椅子が固定されたのが分かった。そして、車椅子を押していた人物が、ぬっと視界に入ってくる。

 廻は思わず唾を飲んだ。人間で喩えるならプロレスラーなのだろうが、実際はまるで大きな熊のようだ。闘志と暴力性を、冷静さと見事に同居させている。


 三人は廻の前方に回り込み、じっと彼を見つめた。こちらも負けじと、三人を観察する。

 きっとさっき自分を助けてくれた人物のうち、ナイフ使いが二十歳くらいの女性。廃ビルの窓から銃撃してくれたのは男性だろう。

 ではもう一人は、と視線を向けて、廻は目を丸くした。


 三人の中では一番幼く、自分と歳が近いように見える。だが、あれほど大きな胸は戦闘員向きではあるまい。きっと諜報員か何かだろう。


 しばしの沈黙を挟んで声を上げたのは、年上の戦闘員らしき女性の方だった。


「あー、幹也廻くん、だよね?」

「……」

「私たちは、えーっと……その、君を悪の組織から救いに来た正義のヒーローなのだよっ!」


 すると、ぽかん、と空になったサイダーのボトルが彼女の側頭部に命中。


「何すんのよ、ハナちゃん!」

「猿芝居は結構。廻くんには現実を知ってもらわなきゃならないんだから、ちゃっちゃと話を進めるわよ」


 とは言ってもねえ、と続ける通称ハナちゃん。

 

「立ち話ってのもなんだし、そこのテーブルでも使いますかね」

「最初っからそう言えばいいのに」

「うるさい」


 女性二人組に続き、大男がソファに腰を下ろす。あまり凹まないところを見ると、随分頑丈なつくりをしているらしい。

 もう車椅子は不要だ。そう判断した廻は立ち上がり、僅かによろめいたものの、無事に山路の隣に腰を下ろした。


 直後、早速説明を始めたのはハナちゃん、すなわち華山だった。


「幹也廻くん、君には最重要保護対象というレッテルが貼られている。分かるかい?」

「だから僕を守るために……?」

「そうそう、そゆこと」


 言葉を続けたのはキリちゃん、つまり霧香だ。上腕から手先をソファの背もたれに載せ、ぐったりと首を上に向けている。


「俺も少しは協力したがな」


 と、わざと不機嫌そうな様子を装っているのが山路幸雄。誰が誰なのかは、廻が会話の中から拾い上げた情報だ。


「で、廻よ。どうして自分が追われているのかはもう知ってるよな? 十歳にもなればそのくらいは――」

「分かんないよ」

「は?」

「それが、分からないんだ」


 山路の言葉に困惑したのは、この二人だけではない。霧香も華山も、何事かと目を瞠っている。


「廻、お前まさか記憶喪失なんじゃ……?」

「きおく、そうしつ?」

「えっとね、記憶喪失っていうのは、今までのことを覚えてないってことなの。一部でも全部でも、いろんなパターンがあるけど」


 解説を試みる霧香の隣で、華山が何かを取り出した。


「これ、使ってみて」


 それは一本のボールペンと一冊のメモ帳だった。


「これを使って、何を……?」

「適当に何か書いてみて。って、お題がないと書きづらいか。じゃあ、新しいゆるキャラ!」

「華山課長、流石にそれはハードルが高いのでは?」


 と山路がツッコむ前に、既に廻はイラストを一枚書き上げていた。


「こんなもん、かな」

「あ、そうそう! こんな感じ」


 横から覗き込んだ霧香には、それが足が四本しかない、その代わりにその先端がドリルになったタコに見えた。というか、それ以外に見ようがない。

 

 しかし、重要なのは『何を描いたか』ではない。

 ボールペンの使い方を知っていること。描きたいものはメモ帳に描くということ。そして今は死後になりつつある『ゆるキャラ』という言葉を知っていること。


「どう、ハナちゃん?」

「そうだね、どうやら廻くんは、日常生活には支障はないけれど、肝心の『自分の立場』というものに関することは忘れてしまっているらしい。まあ、しばらくはここで保護することになるかな」

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