第2話
「こっから突入すんの?」
「ああ。情報と、お前の読み上げた座標が合っていればな」
「なにそれ。私が読み間違えたみたいじゃん」
「そこまでは言ってねえだろうが。よっと」
霧香と軽い口論を交わしながら、山路はマンホールの蓋に手をかける。引き開けると、やや湾曲した壁面や床面が見えてくる。
山路は慎重に懐中電灯を握らせた腕を入れ、左右を照らし出した。それから手信号で、自分が突入すると霧香に告げた。
「いや、私が行くよ」
小声で告げる霧香に、顔を顰める山路。
「なーんかすっきりしないんだよね。山路さんに迷惑かけちゃったし」
ここが霧香の性格上、分かりづらいところではあった。好き勝手やっておきつつも、恩は恩で返すというか、そのあたりがきっちりしている。
かといって、だったら最初から無茶はするな、という話は通用しない。我がままなんだか律儀なんだか――それは霧香本人にも分からない。
「それより、私の目だって赤外線対応だよ? 狙撃できるほどじゃないけどね」
「ああ、そう言えばこの前手術を受けたって言ってたな。でもまだ四肢の運動神経に馴染んでるかどうか」
「馴染んでるって。さっきの私のダイブ、見てなかったの?」
「まあ、それもそうか」
納得半分、諦め半分で山路は頷いた。
「じゃあ、先鋒頼む。ここから先は入り組んでるから、曲がり角に注意しろよ」
「了解」
さっきの間の抜けた調子とは違う、臨戦態勢のキレのある復唱。それからするり、と霧香は細身の身体をマンホールに通した。
※
ぴしゃり、と音を立てて、霧香は下水溝の底に下り立った。
僅かに汚水が飛沫となる。思わず霧香は顔を歪めたが、それは着替えたコンバットスーツが汚れたからではない。
(水、か……)
じっと足元を見つめていると、水という無形の物体に吸い込まれていきそうになる。
パチン、と軽く指を鳴らす音が響いた。見上げると山路が片眉を上げて、大丈夫か? と表情で尋ねてくるところだった。
微かに口の端を上げ、親指を立てて見せてから霧香は前進を開始する。
大丈夫、私は今までの私じゃない。
そう内心で呟きながら、瞬きを素早く繰り返す。すると、唐突に視界が緑色になった。目が赤外線センサーに切り替わったのだ。
「おっと」
小さく声を上げた。山路が指摘した通り、赤外線の目には慣れきっていない。だが、だったらやれるところまで緑色の視界で我慢し、敵が光源を使いだしたら通常センサーの視界に戻せばいい。
霧香は慎重かつ大胆に歩を進めていく。水音を立てないよう、下水道管の端の水のないところを歩きながらも、その足取りは素早い。
視覚と聴覚、それに嗅覚(危険物質の検出のための能力が付与されている)を総動員して、大股で歩いていく。
しばらく進み、何度目かの分岐路を折れた、その時だった。
「ブツの確認は済んだかい?」
「ああ、確かに」
声がする。男が二人、取引の終盤に差し掛かったところのようだ。
二人が取引に当たっているということは、ボディガードはせいぜい三、四人といったところか。
「しかしいいのか? こんなどこの誰とも分からんガキのデータ一つで取引だなんて」
「そのガキのデータがどれほど重要かは上層部が決める。我々は、その手足となって動くだけだ」
まったく変わり映えのしない会話だな。
そう思いながら、霧香は音響閃光手榴弾のピンを抜いた。素早く瞬きを繰り返し、光学センサー、すなわち普通の目に戻す。それから腕で目元を覆い、声の位置から判断した場所へと手榴弾を放り投げた。
「ん? 何――」
取引中の男がそう言い終える前に、手榴弾は炸裂した。キィン、と甲高い空気の振動が鼓膜を震わせる。
だが、発光現象は一瞬だ。無事視野を確保していた霧香は、目を眩ませた男たちに向かって猛ダッシュで飛び込んだ。護衛にいたのは三人。予想通りだ。
「うわっ! 警察の特殊部隊だ! 構わん、撃ち殺せ!」
顔を押さえながら、取引中の首領と思しき男が声を上げる。だが、そう簡単に聞こえるものでもあるまい。
と、思ったのは霧香の甘さだった。護衛は全員小振りの自動小銃で武装していたが、ちゃっかり一人だけフルフェイスのヘルメットを装備していたのだ。恐らく視覚も聴覚も無事だろう。
その大柄な男は、他の護衛を押し退け、真っ先に霧香の前に立ち塞がった。
「チッ!」
舌打ちを一つ立てて、霧香は体勢を床面すれすれまで下げる。同時に開始される、フルフェイスの銃撃。
霧香は真っ直ぐそちらに向かう。と見せかけて、自分の腕が相手に届く直前にサイドステップ。かぶりを振っている別な護衛の背後に回り込み、その首に腕を回して柔道技で落とした。
フルフェイスが銃撃を躊躇った隙を突き、霧香は気を失わせた敵を盾にして再度接近。
今度こそフルフェイスを潰しにかかる。盾に使った男を前方に突き飛ばし、フルフェイスに思いっきりぶつける。
霧香はその場で縦に一回転。頭部を下に向けながら、回転の勢いそのままに爪先をフルフェイスの頭頂部にめり込ませた。
びしり、と嫌な音がして、ヘルメットにひびが入る。ぱっくりと割れたヘルメットが落下するタイミングを見計らい、霧香は体勢を立て直して正拳突きを繰り出した。
「ぐはっ!」
額から派手に出血しながら、大男は後ろ向きに倒れ込む。
護衛はもう一人いるはずだが、さっさと自動小銃を捨てて逃げ出していた。
最早身を隠す必要のない霧香は、大声で山路を呼んだ。すると下水管の曲がり角から、ぬっと山路が姿を現し、逃げ出した護衛の頭部を片手でがっしりと掴み込んだ。
そのまま壁面にぶつけると、三人目の護衛はばったりと大の字に倒れ込んだ。
「後は……」
「う、うわっ!」
取引を主導していた首領が二人、取り残されている。
「うわああああああっ!」
「ひいいいいいいいっ!」
二人そろって拳銃を連射するが、霧香には掠りもしない。なんて下手くそな射撃だ。
悠々と歩み寄った霧香は、まずはアタッシュケースを受け取った首領の前で自動小銃を拾い上げ、そのまま銃把でぶん殴った。
「さて、お仲間は皆伸びちゃったけど、あんたはどうする?」
すると残る一人、貨物の渡した方の首領は、ホルスターから二丁目の拳銃を抜いた。
その意図に気づいた霧香は叫んだ。
「よせ、止めろ!」
しかし、パン、という軽い音が響く方が早かった。首領は銃口を咥え込み、引き金を引いたのだ。
あれだけ射撃が下手だったのだ。自殺を試みたところで、まだ一命をとりとめるかもしれない。
しかし、向こう側に倒れ込む首領の身体は、支えられることなくばったりと倒れ込んでしまった。正確には、ばしゃりと。
気づいた時には、霧香は微かに足の震えを覚えていた。
汚水に背中から倒れ込んだ首領。今度こそ死んでいる。だが、霧香はその遺体を回収するどころか、身動き一つ取れない状態でいた。
「おい大丈夫か、霧香!」
山路の野太い声が響く。霧香に配慮したのか、懐中電灯の明かりが周囲を照らし出す。
「霧香、心配したぞ! お前の身に何かあったら、お前の親父さんに申し訳が――」
と言いかけて、ようやく山路は悟った。どうやら手遅れだったようだと。
霧香は、両足を脛の中ほどまでが汚水に浸されていたのだ。と言っても、ここの汚染水が人体に影響を及ぼすほど危険、というわけではない。
液体そのものが、霧香にとっては危険だったのだ。
山路はそっと霧香の肩に手を載せ、半回転させた。彼女の顔面は蒼白で、唇は既に紫色になっている。今は真夏だというのにだ。
霧香の手を引いて、山路は彼女を汚水に触れずに済むあたりにまで連れてきた。
それから視覚センサーを高倍率に設定し、何が今回の取引のブツだったのかを捜索する。
「これか」
拾い上げたのは、自分たちもよく使うデータファイルだった。これは直接、上司の華山に差し出した方がいいだろう。
それを胸ポケットに差し込んでから、山路は再び屈み込み、そっとお姫様抱っこの要領で霧香の身体を抱え上げた。
「すまんな、霧香。ここまで浸水しているとは思わなかった」
山路が来た道を戻ろうとすると、ようやく増援の機動隊員たちが突入してくるところだった。多くの足音や金属の擦れ合う音が下水道管内に反響する。
ちょうど二つ目の曲がり角で、機動隊の最前列の隊員と遭遇した。
「動くな! こちらは警視庁機動隊……って山路警部!」
おう、と不愛想に応じる山路。
「全員武装解除して、怪我人の救護と搬送にあたれ。反政府組織の連中が五人。四人は気絶、一人は死んでる。念のため鑑識を呼んでおけ。早い方がいい」
「は、はッ!」
こうして山路は霧香を連れ、下水道管を抜けてロールスロイスに戻った。
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