Rosen Cross -破滅の十字架-
岩井喬
第1話【第一章】
【第一章】
「いらっしゃいませ」
カウンターの反対側で、バーテンダーが声をかけた。
仕立てのいい黒のベストに、白黒のストライプの入ったシャツを着用。濃紺のネクタイ。貫録はあるものの、ぱっと見はまだ三十代前半くらい。
なるほど、情報通には見えない情報通、か。入店したばかりの雨宮霧香は、一人で納得した。
すると不意に、バーテンダーが顔を上げた。目の端で異常を捉えたようだ。霧香のことで間違いない。
バーテンダーは磨いていたグラスを置き、何に致しましょうか、と朗らかに声をかけてきた。飽くまでも、自分と霧香以外の人間には二人の関係性が露見しないように。
霧香の格好はと言えば、黒いシャツに肩までの短い赤のジャケット、黒の短めのスカート。髪型はそれよりも黒い、漆黒の短髪だった。
顔立ちはいかにも日本人、という具合だったが、西洋人形のそれよりもずっと整って見える。美しいというより、鋭さゆえに光り輝いて見える容貌だ。
霧香は身を乗り出し、バーテンダーの耳元に形のいい唇を寄せ、囁いた。
「テキーラをダブルで」
合言葉はこれだけで十分だった。
かしこまりました、と言いながらバーテンダーは身を引き、メモ帳にボールペンで筆談を始めた。なんとも原始的手法だな、と霧香は思う。
《あんたみたいなのが新任の警部補だとは聞いてなかったぞ》
こちらに寄越された紙とペンを手に、霧香は書き返した。
《あなた、年上が好みなの?》
それを読んだバーテンダーは、やれやれとかぶりを振った。どうやら霧香なりのジョークはお気に召さなかったらしい。
女性にしてはやや長身だが、高校生だと言っても通用しそうな外見の霧香。
まあ、今までは山路さんみたいな人がここに来てたんだから、ギャップはあるよね。
そんなことを思いながらも、霧香はバーテンダーの動きに気を配る。注視していると言ってもいい。
落ち着いた照明と、ほぼ全面ガラス張りで夜景を見渡せるロケーション。霧香たちに注意を払う客はいない。
きっちり十秒を数えたところで、バーテンダーが取り出したのは一枚の電子データファイルだった。
面倒事を嫌ってか、彼は眉根に皺を寄せながら出入口の方を顎でしゃくった。そんな彼に、つれないわね、と一言告げながら霧香は紙の最後にこう書いた。
《今後も警視庁SCB課をよろしく》
バーテンダーの渋い顔にウィンクを決め込み、霧香はバーを出た。
滞在時間、約四十秒。早業と言っていい。だが、霧香は『さらに速いこと』を考えついていた。
エレベーターは、上ってくる時に使って顔がバレている。かといって、階段でここ、地上六十階分を下りるのも芸がない。
「ま、早く退散しろって態度だったもんね、バーテンダーさんも」
言うが早いか、霧香は右肘をそっと向かいの壁に押し当てた。機械部品の駆動するキュルッ、という音を僅かに立てて、右肘を引き、再度押し当てる。今度は高速で。
がぼっ、とビルの外壁が崩れるのと、霧香が宙に飛び出すのは同時。
霧香が考えていたのは、まさに自由落下という名の高速移動現象だった。
地上二百メートルの高みから、霧香は四肢を広げて降下する。顔を上げると、明るい工業地帯のランプ群や、半ばから倒壊した横浜ベイブリッジが見える。僅かに皮膚を打つ水滴は雨粒だろう。ただし酸性雨だ。
もし口を開くことができたなら、お肌によくないんだよね、とでも愚痴りたい。
高層ビル群の明かりやネオンが、音もなく下から上へと流れ去っていく。そろそろ着地体勢を取らなければ。
霧香は重心を巧みに移動し、ぐるぐると縦回転を始める。こんな荒っぽい戻り方をしたら、きっと山路は怒るだろう。このビルの外壁も破損させてしまったし。
ま、その辺はハナちゃんが上手く処理してくれるんだろうけど。
自分の所属する課の長をあだ名で呼んでいるのは、変人ばかりの集まったこのSCB班でも霧香くらいのものだ。
山路はその点、大変律儀というか、真面目過ぎる。勝手に真面目腐っているだけならいいのだが、霧香にまで、上官には敬意を払え、とうるさく言うのはいい加減勘弁してほしい。
さて、そろそろ落着か。
せっかく高みにいるのだからと、霧香はもう一度顔を上げた。すると、今度は見えた。真ん中からひしゃげた東京タワーから五十メートルほど南方、つまりこちら側に、巨大な十字架が立っている。
厳密には、それは十字架ではない。だが、偶然にしてはあのシルエットは出来すぎている。
十五年前の『作戦』に参加して命を落とした国軍の兵士たちへの弔いだろうか。もしかしたら、母への?
そこまで考えて、霧香は意識を迫りくるアスファルトへと向けた。
霧香の身体は、無事地面の上で停止していた。ただし、クレーターの中央で。
両手の拳と左膝、それに右の足の裏の四点で身体を固定する。それでも身体は五十センチほどめり込んだ。
霧香を中心に半径五メートルほどのアスファルトが窪み、半径二メートル以内に至っては弾け飛んでいた。
付近の車が一斉に浮き上がり、がたん、と落下してタイヤがパンクを起こす。マンホールの蓋も吹っ飛んで、破損した水道管からは勢いよく水が湧き出ている。
「確かこのあたりだ、って山路さんは言ってたけど……。あ、いた」
周囲の車が防犯アラームを鳴らし続ける中、振り返った霧香は、唯一微動だにしていない車を見つけた。かつて高級車の代名詞として知られたロールスロイスという会社の車らしい。
まあ、ところどころチューンアップされているので、外観がそう見えるだけなのだが。
霧香は自分の身体に異常がないことを確認してから、ゆっくりとその高級車に歩み寄った。
※
「はあ~、まったく……」
躊躇いなく助手席に乗り込む霧香。隣席には、ハンドルに手をかけ、その甲に額を押しつけている人物がいる。
「あー、山路さん? 迅速に済ませろって言うから帰りはだいぶ省略したんだけど……。マズかった、かな?」
「そうだな、流石の俺にとっても想定外だったよ」
「私とバディを組まされたこと、気に食わない?」
「いや、そういうわけじゃねえんだが」
山路幸雄は、筋肉ではちきれそうになった身体で、しかし蚊の鳴くような声で嘆いた。
「一つだけ言わせてもらえば、俺はお前より二回りは年上で、しかも上司なんだ」
「うん、私が警部補で山路さんは警部だね」
「だからだよ、お前が何かやらかすと、必ず俺に非難の目が向けられる」
「それは困ったねえ」
再び長い溜息をつきながら、山路はずるずると頭部を下ろした。シンプルに金色に染めた角刈り頭が沈んでいく。
山路さん、やっぱり気にしてるのかな? そう思った霧香は、早速胸ポケットから拾得物を取り出した。バーテンダーから頂戴したデータファイルだ。
「はい。ちゃんと仕事はしてきたよ」
「今度からは予算に見合った規模でやってくれ」
「りょーかい。運転、私がしようか?」
「いや、俺が」
短く答える山路。素直に交差点の赤信号で停車しながら、言葉を続ける。
「後部座席に防弾ベストがある。今のうちに着ておけ」
「あれ? でもこっちは発砲許可出てないんだよね? 丸腰で銃相手に立ち向かうわけ?」
「俺だって納得しちゃいない。ただ、その場で拾得した武器は流用していいそうだ」
「ふうん」
ま、実際現場に行って、敵さんと顔を合わせて見ないと分かんないけどね。
そう思っている間に、SCB課の情報係からのデータ解析の結果が届いた。
「どれどれ」
「霧香、読んでくれ」
「自分の端末で読めば?」
「馬鹿、俺は運転中だ」
「山路さん、なんか本当に刑事みたいだね」
「それ以外の何なんだよ、まったく」
解析されたデータの中に書かれていることを、霧香は口頭で読み上げた。
今回自分たちが潰すのは、違法な『何か』の闇取引。場所は、今は使われていない旧下水道管の中で、座標はOX-9813。時刻は今日の午前二時きっかり。
「なるほど。華山課長の読み通りだったってわけか。あの年で課長になっただけのことはあるな」
「私だって一端の刑事だよ? 二十歳で刑事って凄くない?」
「十三歳で課長、というか警視の方がよっぽどすげえよ。どんな脳内構造してるんだか……」
そう言い合っている間に、車はどんどん暗い路地へと入っていく。
「ここだな」
そう言って山路が車を停車させたのは、あるマンホールのすぐそばだった。
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