命の筆

ひるま奈津

命の筆

「先生、先生、そこにいらっしゃるんですよね、お願いします、どうか、どうか絵を描いてください」

「またお前か。顔を見なくても分かる。絵は描かないと言っただろう。何度来たって同じだ。ほら帰った帰った」

「お願いします、お願いします、代わりに何だってしますから、お願いします、もう時間がないんです」

「だからどうして俺なんだ。画家なんて他にもいるだろう。そっちを当たれ」

「いいえ、先生でないとダメなんです、先生の絵でないとダメなんです」

「だからどうして」

「先生はお気づきでないかもしれませんが、先生の絵は生きています、生きているんです、ですから先生の絵でないとダメなんです」

「わけの分からないことを。いいか。よく聞け。俺は他人から頼まれたものを描かない。代わりに何を与えられようともだ。絶対にだ」

「お願いします、お願いします、もう時間がないんです、どうか、どうか絵を描いてください」

「うるさい。帰れ」

「先生、では、先生はどのようなものなら描いてくださるのですか」

「俺が描きたいと思ったものだ。俺がふいと筆を取ったものだ」

「そうですか、分かりました、先生の御心が動いたものですね、それなら、描いてくださるのですね」

「妙な小細工をしてもすぐに分かるからな。俺が描きたいと思うものなんかもうどこにもないんだ」




「あぁまったく。まったくうるさい女だ。来る日も来る日も同じことばかり言いやがる。今度来たら石でも投げて追い払ってやろうか」


「あぁ早く、早くしなければ。描いてもらわなければ、命が、命が消えてしまう」




「朝も晩も冷えるようになってきたな。火鉢を出すか。まだ早いか。そういや女はめっきり来なくなった。どうりで前よりよく眠れる」


「もう少し、もう少しの辛抱だから、あの人が筆を取ってくださるまでの辛抱だから」




「あぁもう炭を買うのも億劫だな」

「…先生、先生、ご無沙汰いたしております、先生、そちらにいらっしゃいますか」

「その声はお前か。まだ忘れていなかったのか。今は忙しいんだ。絵を描いているからな。お前の絵なんか描いている暇はないんだ。さぁ帰った帰った」

「…何の絵を描いておられるのですか?」

「蝶だよ。1匹の美しい蝶だ」

「…それは白くて、どこにでもいる、小さな蝶ですか」

「あぁそうだ。だがお前の目は使い物にならないな。あれはどこにでもいる蝶じゃない。命を燃やして飛ぶ儚い蝶だ。なによりも美しい蝶だ」

「…そうですか、それは大層美しい蝶なんでしょう」

「あぁそうだ。だからお前の絵なんか描いている暇はない」

「…えぇ、そうですね、でも、もう良いんです」

「何?」

「…もう、私の願いはかないました」

「願いがかなった?どういうことだ」

「…」

「おい。返事をしろ。俺が尋ねているだろう。お前の願いは、俺がお前の絵を描くことじゃないのか。俺が、俺の描きたい絵を描いていったい何の願いがかなうと言うんだ」

「…蝶を描いてくださった、美しいと言ってくださった、それだけで、もう、十分でございます」

「様子がおかしいな。腹でもくだしたか」

「…いいえ、私は生きています、生きてここにおりますとも、あぁ、あなたの絵を初めて見たときを、私は今でも鮮明に覚えています、うれしくてうれしくて、全身が震えた、あなたの絵では、草花が、朝露が、そこにある空気でさえ、たしかに息づいていました生きていたんです」

「俺の絵をどこで見た」

「見えますよ、だって私はいつも先生のお側におりましたから」

「…お前は誰だ」

「先生の絵の中なら短い私の命にも意味ができると思ったんです、あなたの絵の中で生きられるなら、あなたのその手で描いてもらえるなら…」

「待て。今は手が離せないんだ。蝶の羽を描いている。もうすぐで描き終わる。そうしたらそっちへ行く。お前の顔が見たくなった」

「…先生、どうか、どうかその手を離さないでください、私はあなたの絵の中で、美しく舞う蝶でありたい」

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命の筆 ひるま奈津 @hiruma_natsu

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