セトゲヘドロサバ5

 十分な息継ぎを終えてサワが再び水底へと潜った時、そこは彼女が最初に訪れた時から一つ大きな変化が起きていた。

 大きな動物の姿があったのだ。体長八センチとサワよりも大きい。そして酸素のないこの水底で、ここまで大きくなる生物は一種しかいない。

 セトゲヘドロサバだ。

 サワ以外の個体がやってきていたのである。尤も、セトゲヘドロサバは目が悪く、体表面の感覚もあまり優れていない。サワも相手も同種の存在に気付かず、そのまま水底まで降りる。

 両者に動きがあったのは、サワがその身を泥の中に潜らせた時だった。

 同種個体がぴくりと、身体を震わせたのである。そしてサワの方に振り返ると、今度はサワも同種個体の方へと振り向く。

 二体が反応したのは、泥を掻き分けた際に生じた振動だ。セトゲヘドロサバの体表面は然程敏感ではないが、全くの無神経でもない。泥を掻き分ける、食べるなどの動きがあれば流石に感じ取れる。

 ただし感じ取れた方向は、割と曖昧だ。サワ達も互いの方を見たが、微妙に頭の向きがズレている。それに相手の事も、正直よく分かっていない。この方角に、虫じゃない何かがいる、程度のものだ。

 サワは少しずつ、同種個体の方に近寄る。その近寄ってくるサワの振動を元にして、同種個体も動き出した。同種個体の動きからサワは向きを補正し、また同種個体も向きを調整……何度かこれを繰り返せば、サワと相手はきっちりと向き合う。

 やがて両者は肉薄した


「コボァッ!」


 瞬間、サワは大きく口を開けて相手に噛み付いた。

 何処に噛み付いたのか、サワには分からない。ただ勢いよく、開いた口が摘んだものを口の力で抑え込む。それがセトゲヘドロサバの本能だ。今回サワが噛み付いたのは同種個体の唇であり、同種個体はこれを受け、自身の唇を閉じた。互いに相手の唇を噛む形になる。

 噛まれたところでサワは身体を捻るように動かす。相手の唇を引き千切ってやると言わんばかりに、激しくその身をうねらせた。だが同種個体も大人しくやられはせず、同じく身体を左右に振り回す。身体が小さなサナは大きくその身を揺さぶられたが、自分の口は閉じたまま。闘争心は未だ引いていない。

 いきなりの噛み付き合い、そして争い。勿論友好的なコミュニケーションではない。これはセトゲヘドロサバの『縄張り争い』だ。

 セトゲヘドロサバは縄張り意識の強い生物なのである。縄張りを示す明確な行動はなく、正確には「自分の感じ取れる範囲内にいる同種は徹底的に追い払う」という性質なのだが……繁殖期以外で同種と隣り合う事を極端に嫌う。

 例え相手が自分より大きな存在であろうとも、だ。


「コボボボッ!」


「ゴボオッ!」


 振り回されたサワはついに噛み付きを離したが、間髪入れずにまた噛み付こうとする。だが相手は即座に次の攻撃を繰り出し、頭突きをお見舞いしてきた。決して泳ぐスピードは速くないが、それでも全力で突っ込めばそこそこの衝撃となる。サワは大きくその身を飛ばされた。

 しかしこれでもサワは逃げようとせず、体当たりで体勢が崩れた同種個体にまた噛み付く。相手の身体が傾いていた事もあり、此度噛み付いたのは胸ビレ部分だ。

 胸ビレを噛まれた相手は身体を激しく左右に振り、サワを振り解こうとする。なんとか堪らえようとするが、やはり身体の大きさが、ひいては力の大きさが違い過ぎた。サワの抵抗は叶わず、相手に振り飛ばされてしまう。


「コポポポポッ!」


 それでもサワはまた突撃し、相手に攻撃を行う。

 これだけ痛め付けられても、何故執拗に同種を攻撃するのか? 極端な縄張り意識の強さの理由は、セトゲヘドロサバが大いに繁栄した事に理由がある。

 豊富な有機物、天敵のいない環境、安定した水温……ヘドロの中は極めて住心地の良い場所であり、適応したセトゲヘドロサバはその数をどんどん増やした。

 最初は問題など起きなかった。養殖用の水槽はいくらでもあり、何処もヘドロに埋め尽くされていたのだから。天敵に食べられるのは小さな頃だけ。その数は指数関数的に増えていく。

 しかし数が増えれば、消費する資源も増えていく。豊富なヘドロは瞬く間に食べ尽くされて食糧不足に陥り、密集による圧迫などでストレスが溜まっていく。

 過密状態は病気の危険も高める。病気の個体と距離が近ければ、伝染病は瞬く間に広がっていくからだ。おまけに密集によるストレスで耐病性が低下しているため、感染が容易になり、治癒力の低下から毒性の弱い病気でも致命的になる。歴史を辿れば伝染病により何万という個体が死滅した事も一度や二度ではない。水槽という形でそれぞれの水場が区切られていなければ、今頃セトゲヘドロサバは病により絶滅していただろう。

 あまりにも増えたがために、繁殖に致命的な問題が生じてしまった。しかし問題があるという事は、それを解決する形質を獲得出来た個体がよく繁栄する事でもある。

 進化した形質は、周りから仲間を追い払うというものだった。

 攻撃性を露わにして仲間を遠ざければ、一定範囲内の有機物を独占出来る。また距離を取れば病原体の感染も起こり難い。密集環境で生じた問題なのだから、密集しなければ問題は全て解決するのだ。強いて欠点を挙げるなら攻撃し続けるためエネルギーの消耗が激しい事だが、周りに仲間がいなければ餌は独り占め可能だ。メリットのほうが大きい。

 かくして攻撃性を持った個体(これを過激派と呼ぼう)は生き延び、多くの子孫を残したが……そうなると今度は、過激派の子孫がどんどん増えていく。周り全てが攻撃的になれば、縄張り確保の行動は同種間闘争に早変わり。

 結果、今ではセトゲヘドロサバは同種を見付けるや、取りあえず攻撃するようになったのである。


「ゴポポボボボッ!」


「ゴポォオオッ!」


 どちらかが逃げ出すまで、戦いは終わらない。セトゲヘドロサバには牙など生えていないが、噛み付き引っ張る攻撃を幾度となく加えた事で、双方の身体は傷だらけだ。出血も起きている。

 このままではどちらかが死ぬ。

 闘争の過程で同種を殺すというのは、生物の中ではそう珍しくない話だ。繁殖相手でもない同種など、基本的に。自分の遺伝子を残す上で利点がない以上、殺してもなんら『損』はしないのだから。

 しかし相手も反撃してくると、少し事情が異なる。もしかすると自分が死ぬかも知れないからだ。仮に勝ったとしても、相手の死ぬ気の攻撃を受ければ無事とは限らない。その後また同種と戦えばそのまま嬲り殺されるかも知れない。

 周りの同種が穏健なタイプばかりなら、自分の攻撃性は高い方が良い。臆病者共相手に無双出来るのだから。しかし周り全てが攻撃的なら……方が得になる事がある。すると程々に攻撃的な個体が子孫を残しやすくなり、形質が広がっていく。

 同種間で殺し合いにならない闘争が進化するメカニズムがこれだ。では何故セトゲヘドロサバは程々のところで止めないのか? ましてやサワはまだ小さな個体だ。相手の方が大きいのに、攻撃性を露わにしても利点は少ない。

 その答えは、未だ彼女達が進化の途上にあるため。

 攻撃的な個体が優勢となってから、まだ二千年も経っていないのだ。そのため攻撃的な個体同士が接触した時の対処法が、進化してないのである。体表面の感覚が大して鋭くないのも、相手の攻撃性に対処するような進化が起きていないため。

 そして相手の大きさが分からないのも同じだ。今のセトゲヘドロサバの脳が考えるのは、たた一つ。

 相手が逃げるまで攻撃し続けろ、だ。


「ゴボボボボボッ!」


 攻撃されたから諦める、という言葉はセトゲヘドロサバの頭にはない。穏健な個体相手に情けや容赦を掛けても、得するどころか、戻ってくるという『損』があるから。相手が逃げるまで、死ぬまで、攻撃を続けるのが『最善』だと本能に刻まれている。

 しかしそれは同種個体も同じ事。このまま戦いを続ければ、やがてサワは相手に殺されていただろう。

 だが、ここで幸運が訪れた。


「コ、コポ、コポポ……!」


 戦っていた同種個体の攻撃が、段々とその勢いを失い始めたのだ。

 更に、苦しむように身体をくねらせている。パクパクと口を開閉して喘いでもいた。

 原因は酸欠だ。

 この個体は最後に息継ぎをしてから時間が経っており、更に戦いで多くの酸素を消費してしまった。その結果酸欠に陥ったのである。

 いくら戦いの途中とはいえ、酸欠は無視出来ない。同種個体は攻撃を中断し、海面目指して泳ぎ出す。

 だが、サワはそれを許さない。

 相手の尾ビレに噛み付き、引っ張ったのだ。目的は窒息させるため……ではない。そんな高等な作戦を思い付くほどの脳は、小さな頭の中には詰まっていない。

 サワは本能のまま、相手を攻撃していた。相手が『逃げた』という事が理解出来ていないのだ。過激派である彼女にとって、『逃げた』とは存在が感じ取れなくなる事以外の何物でもない。そこにいる相手が限り、攻撃を続ける。

 襲われた側としては堪ったものではない。必死に尾ビレを動かし、サワを振り解こうとする。だがサワはこれを攻撃と判断。ますます強く噛み付いた。

 サワの重みが掛かる分、泳ぐために力が必要になる。しかも激しく動けば更に酸素を消耗し、酸欠の状態では力が入らない。


「コ、ポ、ポ……」


 口から二酸化炭素の泡が溢れた時、勝負は決した。大柄な同種個体は酸欠により、失神状態に陥ったのである。


「コポォオッ! ゴボボボッ!」


 尤も、『降参』の仕組みが発達していないセトゲヘドロサバに、相手が失神したから攻撃を止めるなんて発想はない。逃げない相手を徹底的に攻撃する……失神が死亡に変わろうと、サワは相手を嬲り続ける。

 残虐なのではない。ただ本能に、攻撃を止める時についての反応が、敵がいなくなった時としか記されていないだけ。


「コポ、コポポポポボボ……」


 彼女が攻撃を止めたのは、自身が酸欠になってからだった。

 同種個体の亡骸を、捨てるように離す。底に沈んで動かない仲間には見向きもせず、浮上していく。百五十メートルの道のりを悠々と泳ぎ、血中にたっぷりと酸素が溶け込むまで息継ぎ。

 十分な酸素を得たら、すぐに水底へと向かう。浮上も潜水も基本的には最短距離で行い、寄り道はしない。そのため息継ぎの後、戻ってくるのは浮上を始めたその場所だ。

 今回のサワであれば、縄張り争いを繰り広げた場所……仲間の死骸の下へと戻ってくる。


「コポ……」


 しかし彼女はその事に反応も示さない。死骸のすぐ傍でヘドロの中に潜り始め、戦いの傷を癒すためじっとするだけだ。

 ――――仲間を溺死させ、そこに後悔も何もない姿は、ヒトには残忍に見えるかも知れない。

 しかし彼女は決して残虐非道な生物ではない。相手を殺したのも、殺意があった訳ではなく、何時止めれば良いのか分からなかっただけ。

 それでも結果的に相手を殺した事に変わりはないが、これとてサワにとって好ましい事ではない。確かに繁殖相手以外の個体が死のうと、彼女にとってはどうでも良い事であるが……しかし逃げる相手を攻撃しても、大した得にはならない。縄張りを守るという目的は既に果たしている以上、相手の反撃を誘発したり、攻撃に更なるエネルギーを投じたりするのは『無駄』だ。

 無駄なエネルギーがあるのは適応的ではない。より優秀な形質が現れた時、不適応な形質は淘汰されて滅びる。

 その優秀な形質の一端は、サワの遺伝子に宿っていた。


「コポ……」


 サワは再び振動を感じ取った。近くのヘドロの中に潜り込む、大きな振動。

 体長六センチ。サワよりもやや大型な、しかし先程争った個体よりはずっと小さなセトゲヘドロサバだ。サワの縄張りに入り込み、餌を食べ出している。

 縄張りを荒らす不埒者。一般的な個体であれば即座にその不埒者の方を見て、相手が穏健な個体ならば追い出し、闘争する個体同士ならば終わりなき戦いが始まるところだ。

 ところがサワは、動かなかった。

 餌も食べずにじっとしている。現れた個体はサワの近くを通ったが、セトゲヘドロサバの目は良くない。サワの横を通り過ぎていき、適当な……サワでは居場所を感じ取れない位置でヘドロの中に潜る。

 サワは戦いを挑まなかった。

 その理由は、今、サワの身体は傷付いていたから。先の縄張り争いで小さくない傷を負っており、戦いの回避を選択したのである。

 当然の事のように思えるかも知れないが、セトゲヘドロサバにとってこの行動は『異常』だ。何故なら殆どの攻撃的な個体は、傷だらけだろうがなんだろうが、縄張りの侵入者に攻撃を仕掛ける。それは相手が穏健派ばかりだった時代の名残り。どうせ相手は反撃してこないのだから、考えなしに攻撃して追い払う方が『合理的』だった。その合理的形質を得て生き延びた子孫が今のセトゲヘドロサバであり、故に大半の個体は怪我をしていようと構わず相手に襲い掛かる。

 しかしサワは違う。彼女の脳を司る遺伝子にはほんの小さな『変異』が生じていた。その変異は『怪我をしている時の攻撃性低下』。傷を負った時に分泌される発痛物質が脳に到達し、一定濃度に達した時、攻撃する意思がなくなる。

 より厳密に言えば痛みに関する受容体が敏感で、攻撃性を司る神経より優先されるという『体質』だ。端的に言えば、痛いから動きたくない、という極めて原始的な衝動。だが、それ故に効果は大きい。


「……………コポポ」


 傷が癒えるまで、サワは戦いを起こさないだろう。

 無論これは本能的な反射行動に過ぎず、理性的に戦いの無意味さを理解した訳ではない。だから傷が癒えれば、彼女は今まで通り闘争心を露わにして、誰彼構わず襲い掛かるだろう。相手を殺す事も厭わずに。

 しかし傷を負ったら戦いを止める形質がセトゲヘドロサバ達の間に広まれば、それは縄張り争いの『穏健化』に繋がる。互いに程々傷付いたところで戦いが終われば、殺し合いに発展しないからだ。

 そのためにはサワの形質が、生き残る上で有利でなければならない。果たしてそれがどうかと言えば……彼女の得た形質は、今の環境であれば極めて有効なものだった。

 確かに攻撃性の高さは、穏健な個体ばかりの時には極めて有利だった。しかし生存競争の果てに、今やセトゲヘドロサバは過激派個体ばかり。攻撃を仕掛ければほぼ確実に戦いとなり、殺し合い同然の争いとなる。

 激しい戦いをする時、怪我を負っている事は有利に働くだろうか? 言うまでもなく、否である。相手が同情ないし嘗めて手加減してくれるなら兎も角、本能のまま争う生物にとって怪我はただのハンデ。戦いになれば、敗北する可能性が極めて高い。

 痛い時に大人しくなるサワの形質は、不利な戦いを避ける上で役立つ。サワ自身の生き残りに有利に働くのだ。これならば形質は全体に広がっていく。誰もが過剰な戦いを避ければ、殺し合いはなくなる。

 ――――知的生命体の一部はよく語る。他者への思いやりによって平和は成ると。

 自然界で実在する平和の成立過程は逆だ。徹底的に『自分本位』な合理性が、平和を作り上げる。何故なら自分が得をしなければ、平和を維持する価値がないからだ。価値がないものは、合理的な個体により破壊される。維持をしたければ価値を持たねばならない。

 ヘドロの中に暮らすセトゲヘドロサバの進化は、平和の成り立ちを教えてくれるのだ。

 尤も、サワからすれば平和になどなんの興味もないのだが。関心があるのは自分の生存、そして子孫の繁栄。


「コポポ……コポポ……」


 、サワは身体を休める。

 成体となり、卵を産むその時まで、彼女自身は戦いを続けるのだ。

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