セトゲヘドロサバ4

 ある程度大きくなった時、サワの身体は成長を止めた。

 体長五センチ。成体と比べてまだまだ小さな身体である。しかしサワがどれだけ餌である珪藻を食べても、その身が肥大化する事はない。

 何故なら食べ物から得たエネルギーは今、身体を『改造』するのに使われているからだ。

 まず、血管と血液の量が増加していく。元々身体中に行き渡っていた血管が、更にその身を侵食するように伸びていた。特に血管の量が増えたのが腸であり、成長が止まる前と比べて五倍ほど増えている。また太さも二〜三割ほど増しており、それでいて血圧は増大。血液の総量は成長停止前より二倍以上増えていた。

 身体の形も変わり始めた。泳ぐのに適していた流線型の体型が、どんどん三角形に変化していく。合わせて泳ぐスピードも遅くなる。目玉も萎むように小さくなり、口は下向きに。更に唇部分の神経が発達し、どんどん鋭敏になっていく。喉奥に繊維状の器官も生えてきた。びっちりと生えたそれは喉を埋め尽くし、水の流れを妨げる訳ではないが、通りを悪くする。

 筋肉にはミオグロビンと呼ばれる物質が蓄積され始めた。ミオグロビン自体は多くの動物に見られるもので、筋肉が赤いのは主にこの物質があるため。サナの筋肉にもいくらか含まれていたが、それが急速に増え始めた。成長が止まる寸前と比べた場合、十倍以上に増加している。

 そして体色。白かった身体の色合いは更に薄くなり、血管が見えるほど透き通る。血管が見える肌自体は珍しくないが、血液の流れが見えるほど透けるのは少々病的と言えるだろう。

 これらの変化は極めて急速に、日に日に進行していく。あまりに急な身体の変化に、サナ自身戸惑うように泳ぎ方が下手になっていた。天敵がいない状態だからこそ命に別条はないが、もしも狙われたら、逃げる事も儘ならないだろう。

 しかしそれらの変化以上に大きな影響を与えているのが、鰓の変化だ。

 鰓の内側にある鰓葉(水から酸素を取り込むための赤いヒダ状器官)がしているのだ。血管の量も減少していき、呼吸のための能力が刻々も失われていく。この変化は特に急激で、五十時間も経つと鰓としての機能はほぼ完全に失われた。

 魚が水中で生きていけるのは、当然ながら「魚だから」ではない。鰓呼吸という水中で呼吸するための器官があるからだ。それがなくなれば、魚であろうとも水の中で溺れる。


「コポ、コポッ。コポッ、コポポ……!」


 サワは正に今、溺れそうになっていた。

 いくら酸素が豊富な水面にいようとも、鰓の能力がなくなっては息など出来ない。サワは苦しむように口を激しく開閉し、たくさんの水を鰓に通すが、そもそも鰓の機能不全が原因。どれだけ息をしても苦しさは変わらない。

 その苦しさが限界に達した時、サワは水面から顔を出した。


「コポッ!」


 そして大きく口を開け、空気を直に取り込む。

 酸素を含む空気を飲み込んでも、鰓から酸素は取り込めない。鰓はあくまで、水から酸素を取り出すための器官なのだから。この行動は酸欠に陥った魚綱でよく見られるものだが、所詮は苦し紛れであり、あまり好ましい行動とは言えない。

 しかしセトゲヘドロサバの場合は別だ。

 大きな口を開け、飲み込んだ空気は鰓ではなく腸へと送られる。

 身体の変化により、今のサワの腸内には無数の血管が存在する。この血管から、腸に入り込んだ空気(正確にはそこに含まれる酸素)を吸収するのだ。

 このような呼吸法は腸呼吸と呼ばれ、地球の生物でもドジョウなど一部の魚綱が行っていた。とはいえセトゲヘドロサバの祖先であるマサバにこのような能力はない。これは彼女達の祖先が突然変異により、偶然会得した機能である。

 そしてこの呼吸法は、水中の酸素が欠乏するような環境で役立つ。仮に溶存酸素量がゼロだとしても、空気から酸素を取り込めば良いのだ。

 つまりサワは酸欠状態の環境で暮らせるようになったと言える。


「……………コポポ」


 空気から呼吸を行ったサワは、またしばらく水面で過ごす。鰓の機能喪失は変化から五十時間ほどで『完了』したが、彼女の身体の変化はまだ完全には終わっていない。更に血管と血液量を増やし、ヘモグロビンとミオグロビンを生産していく。

 一般的に成長停止から七十〜八十時間程度の時間を経て、体長五センチまで育ったセトゲヘドロサバの肉体は、その内側の変化を終える。

 変化が完了するのと共に、本能的衝動にも変化が起きる。脳もほんの少し変わっていたのだ。刺激に対する受容が今までと違い、光を嫌い、腹に何かが接している状態に『安心』を覚えるようになる。

 本能的な不快感と不安感からサワはうろうろと泳ぎ回るが、水面にいては何をどうしたところで環境は変わらない。精神的な安定を得るための方法はただ一つ。

 生活空間を水面から、水底へと変える事だ。


「コポッ! コポポポ……!」


 本能の衝動に従い、サワは水底へと泳ぎ出す。

 大量発生した植物プランクトンが(生死問わず)水中を漂っているため、ほんの数メートルも潜れば辺りは暗闇と化す。しかし大した問題ではない。サワの目は小さくなっており、今ではあまりハッキリとは物が見えないからだ。

 また少しでも潜れば、水に溶け込んだ酸素は殆どなくなってしまう。大量の植物プランクトンの死骸が微生物に分解される過程で酸素が消費され、それでいて光が届かないため光合成による酸素供給もないからだ。ここでどれだけ呼吸をしても酸素は得られず、また水面のようにちょっと顔を上げれば空気に触れるなんて事も出来ない。

 そのため深く潜ると如何に水生生物でも呼吸は出来ないが、今のサナには大した問題ではない。

 腸から吸収された酸素は、血中のヘモグロビンに取り込まれる。血管量や血圧の増加により、大きく増えた血液中には多量のヘモグロビンが含まれていた。また筋肉中に多く含まれるミオグロビンは、ヘモグロビンから酸素を受け取って備蓄する働きを持つ。二種のタンパク質がさながら『酸素ボンベ』のように働き、長時間の潜水を可能とするのだ。

 サワの身体に起きていた数々の変化は、潜水するためのものなのである。潜れば潜るほど居心地が良くなり、その『快』を求めてサワは更に深くに潜っていく。


「コポポポポ……」


 やがて水底……水槽の底に辿り着いたサワは、その底に腹を付ける。一番落ち着く体勢になったところで、一休みする事にした。

 小さくなったサワの目に、光のない世界は何も映らない。表皮の神経系なども然程発達してないため、外界の様子はろくに分からない。ヒトからすれば外の様子が分からないなんて、不安でしかないだろう。されどセトゲヘドロサバは不安など感じない。暗闇と腹への感触があればそれで十分。

 そもそも見えたところで、そこにあるのは大量のどろどろとしたもの……『ヘドロ』の層だけだ。

 水底には水面から落ちてきた、プランクトンの死骸や糞などの有機物が沈殿していた。通常であれば、こうした有機物は微生物の働きにより分解され、すぐに水中の生態系循環に戻っていく。高々水深百五十メートル、水温十五〜十八度を保っている環境ならば尚更だ。

 しかしこの水槽では、短期間であまりにも大量の植物プランクトンの死骸……有機物が沈殿していた。有り余る餌を糧にして増殖した微生物は、同時に大量の酸素を消費する。やがて周辺の酸素が枯渇すると微生物が死滅し、その微生物の死骸が新たな有機物として沈殿してしまう。泥の中に有機物が大量に混ざり込み、ねっとりと粘ついた泥へと変わっていく。

 これを『ヘドロ化』と呼ぶ。ヘドロそのものは自然界でも発生するものであり、嫌気性細菌の住処になるなど生物多様性の観点では一概に有害とは言えない。だが水底を覆い尽くすような状態となれば話は別だ。このヘドロ化した環境では酸素を必要としない嫌気性細菌を除き、繁殖どころか生存も出来ない。生物がいなければ有機物は分解されず、何時までもそこに残り続けるという悪循環を起こす。一応嫌気性細菌も有機物分解は行うが、酸素を使う微生物と比べ活性がかなり低く、分解速度はゆっくりだ。降り積もる有機物を処理しきるのは難しい。

 セトゲヘドロサバはこの劣悪な環境に適応した。酸欠に対する強い耐性も、この環境への適応の一環である。だが、ただ酸欠に強いだけでは、まだヘドロの中で暮らすのは難しい。


「コポポポポ……」


 疲れを癒やしたところで、サワは身体を左右に動かす。底に溜まったヘドロを掻き分け、身体を潜らせるため。

 これは天敵から身を守るため……ではなく単純に身体を泥で固定する、つまり楽な姿勢を取るための行為である。しかしそれが命に関わる事象を引き起こす。

 大量のアンモニアや硫化水素がヘドロから噴出したのだ。これらの物質はヘドロに生息する嫌気性細菌が、有機物を分解する過程で発生するもの。長期的にはこれらの物質も嫌気性細菌に分解されるのだが、有機物が豊富な状況では生成量と釣り合ってしまう。このためヘドロ内に大量に含まれている。

 嫌気性細菌にとっては食糧であるアンモニアや硫化水素は、好気性呼吸を行う多くの地球生命にとって有害だ。アンモニア濃度が高まると脳障害、硫化水素は呼吸中枢へのダメージなど、いずれも致命的な症状を引き起こす。このような毒物を吸い込めば、多くの水生生物が死に至るのは必然と言えよう。

 しかしセトゲヘドロサバは、これら毒物塗れの水を吸い込んでも平然としている。

 理由は喉に出来た繊維状の器官だ。この繊維の中には酸化カルシウムが多く含まれており、これが水中の硫化水素を吸着。硫酸イオンとして排泄する役割を持つ。硫酸イオンは極めて毒性の低いイオンであり、これにより硫化水素を無害化するのだ。

 そこを素通りしてきたアンモニアは、腸から血液中に入り込むが……硬骨魚綱はアンモニアをそのまま排泄する事が出来る。小腸で吸収されたアンモニアは大腸まで運ばれ、大腸から糞便へと移行。素早く体外に排泄される仕組みとなっていた。

 酸欠と毒性。二つの問題にセトゲヘドロサバは対応している。そしてこの劣悪な環境は、適応さえしてしまえば楽園だ。


「コポ、コポ、コポ」


 小腹が空いてきたところで、サナはヘドロを貪り始めた。ヘドロ内には未分解の有機物や嫌気性細菌が含まれており、『栄養』満点の食材である。それが水底一面に沈殿しているのだから、食べるのに苦労はない。精々未だ分解されていない『何か』の骨などをうっかり飲み込まないよう、敏感になった唇で選別するだけで十分。

 また劣悪な環境故に、セトゲヘドロサバ以外の動物は殆ど生息していない。全くいない訳ではないが、ヘドロの奥底で生息しているオヨギイトミミズ(体長〇・八七センチ)や、水中に潜って有機物を漁るコモリミズコガネ(体長一・一センチ)など、極めて小さな生物ばかりだ。まだ体長五センチしかないサワであるが、此処に彼女を襲えるほど大きな生物はいない。

 ヘドロだらけの死の水底は、見方を変えれば安全・快適な生活空間なのだ。

 ……とはいえ何時までもこの快適空間にいられる訳ではないが。


「……コポ、コポポポ。コポポポ」


 水底でじっとしていたサナは、不意に身体を捩る。潜っていたヘドロから抜け出し、不快な水面目指して泳ぎ出す。

 目的は息継ぎのため。彼女達の身体は水底の環境に適応したが、好気性生物なのは変わっていない。酸素を用いてエネルギーを作り出す性質は変わらず、酸素がなければ窒息してしまう。

 このため、定期的な息継ぎが必要なのだ。

 ただしこの息継ぎも楽に行うための工夫がある。わざわざ泳ぐから疲れるのだ。その労力を減らすため、息継ぎの前にセトゲヘドロサバは腸内に気体を溜め込む。この気体は呼吸で発生した二酸化炭素のガスであり、最終的に排泄するものだが……息継ぎの前には浮袋の代わりとして使う。浮力を得て、楽々と浮上するのだ。


「コポォ」


 水面まで浮上したサワは大きく口を開けて息継ぎ。たくさんの酸素を大気中から吸い込み、腸へと送り込む。

 この時、腸内に溜め込んだ二酸化炭素は『おなら』の形で排出。またついでに糞便もここで出す。糞を息継ぎ時に出すのは、殆ど移動もしない都合、水底で出すとまた自分が食べてしまう可能性があるため。水面でばら撒いてしまえば、自分の口に入る量は少なくなる。

 その分広範囲の環境が汚染される訳だが、生き物というのは基本的に利己的なもの。自分の生存条件が良くなれば、他の事などどうでも良いのだ。尤も、その形質が適応的で広まれば『みんな子孫』がする訳だから、優位に振る舞えるのはごく短い期間だけだが。


「コポー。コポォー」


 息継ぎをする時は、出来るだけたくさんの空気を血中に取り込めるよう、入念に行う。

 セトゲヘドロサバは身体が大きくなるほど血中ヘモグロビン量と筋肉のミオグロビン量が増加するため、一度の息継ぎで長く潜っている事が出来るようになる。成体になれば五時間程度は息が続くのだが、体長五センチである今のサワだと、息継ぎ一回で取り込める酸素は一時間半の潜水で消費してしまう。

 そしてこの息継ぎは、多ければ多いほどセトゲヘドロサバに多くの問題を引き起こす。

 天敵に見付かりやすくなる、ではない。体長五センチまで育った時点で、セトゲヘドロサバに襲い掛かる天敵はほぼいないのだ。水底では完全な『無敵』と言っても良い。

 しかし無敵であるがために、彼女達は向き合わねばならない。

 という、最大の脅威と――――

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