セトゲヘドロサバ3

「コポポポ……」


 食事をしていた幼体達の一体が、ふとその動きを止めた。

 止まったのはその一体だけではなかったが、彼女は特に反応が素早かった。ここで彼女にサワという名を付け、詳細に観察してみるとしよう。

 動きを止めたサワは、頭に嵌った目玉をキョロキョロと動かして辺りの様子を窺う。自分が何に違和感を覚えたのかもよく分かっておらず、まずは何かを探そうとしていた。

 しかし彼女の視界内に映るものはない。

 水が汚いから、近付いてくる天敵に気付かないのだろうか? その可能性はない。十万年前、まだヒトが管理していた頃は様々な魚がこの養殖区画で飼育されていた。だがその管理がなくなり、植物プランクトンの大発生という水質汚染を生き延びたのは……偶々その環境に適応出来る変異を起こしたマサバの子孫だけ。よって水槽内に、セトゲヘドロサバ以外の魚は生息していない。

 ならばサワは何を感じ取ったのか? その答えは、水槽の『外』にあった。

 サワ達幼体には見えていない、水面の外側……ヒトが道として使っていた水槽の『区切り』部分に一体の鳥がいた。

 ミズスズメだ。体長十センチと小柄で、祖先であるイエスズメ(公園区画などで観察する『野生動物』として持ち込まれた)によく似た、丸みのある体躯をしている。羽根の色は茶色一色とより地味さを増しており、特徴的なのは長さ二センチもある細長い嘴ぐらいなものか。

 この細長い嘴がミズスズメの武器である。

 ミズスズメは名前が示すように、水場に適応した生物だ。とはいえ普段から水の上で暮らしているのではない。彼等が水に入るのは狩りの時だけ。水面を泳ぐ小さな生き物を、細長い嘴で捕まえて食べるのである。

 細長い嘴は強度が低く、節足動物などの硬い殻を砕くのには不向きだが、柔らかな魚の幼体を磨り潰すには十分。また長さがある分逃げた獲物を捕まえやすい。

 そしてこの水槽区画に棲む魚は、セトゲヘドロサバ一種のみ。

 実質、ミズスズメはセトゲヘドロサバを狩る事に特化した天敵なのだ。成体は水槽の底で生活しており、そもそも身体の大きさ的に襲われる心配もないのだが、生まれたばかりの幼体はそうもいかない。


「――――ピッ!」


 水上から様子を窺っていたミズスズメが、サワ達がいる場所目掛けて飛んできた。

 サワはちらりと目に入ったミズスズメの影に反応し、全速力で泳ぎ出す。ミズスズメほどの速さはないが、他の幼体達より早く逃げ出す事が肝心だ。

 ミズスズメは一足先に逃げたサワは無視して、未だ夢中で珪藻を食べている幼体に狙いを定める。狙われた幼体達も影が見えた瞬間逃げ出すが、ミズスズメは既に十分距離を詰めた。ここから逃れる事は出来ない。


「ゴポッ」


 一体の幼体が嘴で捕まった。ミズスズメは兎に角捕まえようとするだけで、頭や内臓など致命的な部位を潰そうとしている訳ではないが……嘴で胴体を圧迫し、心臓が潰れてしまえば大抵の生物は即死する。

 一瞬で絶命したセトゲヘドロサバの幼体を、ミズスズメは丸飲みにしてしまう。とはいえ体長四ミリしかない生まれたての幼体一体だけでは、いくら小柄な鳥であるミズスズメといえども到底足りない。

 ミズスズメは再び足場へ戻ると、また水をじっと見つめた。ミズスズメは知っている。セトゲヘドロサバの幼体は水面近くに戻ってくる事を。流石にその理由(酸素や餌を求めて)は分からないが、結果的に獲物が得られるのならミズスズメとしては問題ない。

 一体のミズスズメが一日に食べるセトゲヘドロサバの幼体は、ざっと二百ほど。繁殖期などで子育てをしている時はもっと増える。そしてミズスズメは希少な種ではなく、この養殖区画だけで六千羽が生息しているほどあり触れた存在だ。

 更にこの捕食は、セトゲヘドロサバの幼体に大きな『ストレス』を与える。


「コポ、コポポ……」


 一度は逃げたサワであるが、ゆっくりと、慎重に水面近くまで戻る。他の逃げたセトゲヘドロサバの幼体も水面に戻ってきたが、その動きから警戒心の強さが窺える。


「ピィッ!」


 そして何処かから別のミズスズメが襲撃してくれば、その度に深い場所へと逃げ込む。

 この逃げ込むという行為だが、実のところセトゲヘドロサバにとっては『コスト』が大きい。潜るという行為によりエネルギーを消費するのもあるが、何より酸素濃度の低い深みへと潜らねばならない点が重要だ。安全圏にいる間、息が出来ないと言っても過言ではない。

 酸素不足は生物にとって非常に危険だ。活動のためのエネルギーが不足すれば、細胞は徐々に死んでいく。それが皮膚や筋肉など再生する、或いは最悪失ってもどうとでもなる部分ならば問題はないが……脳や心臓がダメージを受けると、取り返しが付かない。

 勿論セトゲヘドロサバ達も息苦しさは感じるので、危険な状態まで我慢しようとはしない。だが自然界というのは、それを常に許してくれるものではない。息継ぎしようと上がった直後、ミズスズメが襲い掛かってくる事もあるだろう。ミズスズメの個体数を思えばそこそこ頻繁に。

 息継ぎが上手く出来ず、脳や内臓に低酸素症のダメージを負う個体は珍しくない。そのまま成体まで育つ個体もいるが、大半はその障害が原因で命を落とす。この数は決して無視出来るものではなく、全体の三〜四割に達するほどだ。また食事も妨害されるため、飢え死にする事は流石にないが、成長速度が低下する程度の被害はある。小さな幼体の時期が長くなればその分天敵の襲撃を受ける回数が増え、様々な要因による死亡率が上がる。

 捕食者の生態系に対する役割というのは、専ら『捕食』する事のみだと考えられがちだ。実際それも大きな効果ではある。だがそれ以外の効果……獲物に対するの影響は、時として単純な捕食以上の効果があるのだ。


「コポ、コポポポ。コポポ……」


 サワも天敵達から与えられる直接的な危害のみならず、様々なストレスにも耐えなければならない。三千と産み落とされた卵のうち、この過酷な試練を生き抜けるのはごく一部だけ。

 酸欠と天敵の板挟みに遭いながら、彼女達は豊富な珪藻を食べて少しずつ成長していくのだ。

 ……………

 ………

 …

 セトゲヘドロサバの幼体の成長速度は早い。

 何しろ豊富を通り越して有害の域に達しているほど、莫大な量が存在する珪藻を餌にしているのだ。飢餓を想定しなくて良い身体は、得られた栄養を片っ端から成長に費やす。


「コポ、コポ……」


 生後二十日が経った頃。サワは生まれた時の十二倍以上ある体長五センチまで成長していた。

 身体が育ち、白い皮膚が分厚くなったためもう腹の中が透けて見える事はない。しかし肛門から出てくる糞便が緑色である事から、未だ珪藻を食べていると分かる。身体は稚魚の時よりも寸胴なものになり、栄養状態の極めて良好な身体と言えよう。もしもその身を捌いて食べたなら、豊富な脂身を堪能出来る筈だ……尤も肉に染み付いたドブ臭さにより、ヒトの味覚では到底美味には思えないだろうが。

 そんなサワの周りにはたくさんのセトゲヘドロサバの幼体が泳いでいる。しかしその大きさはどれもサワの半分もない、或いは生まれたばかりの四ミリ程度の個体ばかり。これらはサワが生まれた後に産み落とされた卵から孵化した幼体達だ。サワと同じぐらいの体躯、つまり同い年であろう個体の姿は見られない。

 それもその筈。ミズスズメの脅威と酸欠から生き延びたのは、サワと同じ親から生まれた卵では他にいないのだから。他の幼体達の半分はミズスズメに喰われ、もう半分は積み重なった酸欠のダメージで死んだ。

 サワが生き延びる事が出来たのは、少なからず幸運に恵まれていた面もある。ミズスズメの襲撃を全て躱す事が出来、尚且つ酸欠によるダメージが生じるほど長く潜る必要がなかったのだから。しかし彼女が誰よりもこの環境に適応していたから、というのも大きな要素だ。彼女の血液に含まれる赤血球数は他の兄弟姉妹より多く、血中に酸素を多く溜め込む事で酸欠に強い耐性を持っていた。赤血球が多いというのはセトゲヘドロサバ全体の特徴であるが、彼女は同世代と比べても少し多い。誤差程度の(平均より〇・三パーセント多い)ものだが、こうした形質と変異の積み重ねが進化である。


「コポ、コポポポ」


 大きく育ってからも、サワは幼い頃と同じく水面近くを泳いでいる。珪藻と酸素が豊富な場所で生育するためだ。

 しかしその振る舞いには、一つの変化が起きている。


「コポッ!」


「コポポッ!」


 周りにいる小さなセトゲヘドロサバの幼体達が、唐突に深い場所に潜っていく。天敵であるミズスズメの存在を察知したからだ。

 サワも同じく天敵の気配は察知した。ところが彼女は深い場所に逃げていかない。水面に留まり、関係ないとばかりに珪藻を食べ続けている。

 逃げない理由は、本能的に、自分は天敵の狩猟対象にならない事を知っているため。

 天敵であるミズスズメの嘴は小さな生き物を捕まえるのには適しているが、大物を咥えるのには向いていない。細いために強度が足りないのが理由である。鳥綱の嘴は再生するものではないため、少し欠ける程度なら兎も角、万が一にも折れたら生存に関わる。そのためミズスズメは嘴と同じ大きさの体長までは積極的に襲うが、それより大きくなると途端に避けるようになるのだ。尤も、やたらと勇ましい個体が襲い掛かってくる事もなくはないので、絶対に安全とは言い難いが。

 しかしそんな『レアケース』を想定するよりも、一般的な状況に則って行動するのが合理的だ。万一狙いを付けられたとしても、普段襲ってこない以上勝率はある。何より、大きな身体には大量の酸素が必要だ。幼体の時よりも酸欠になりやすく、襲撃の度に潜っていては身が持たない。

 その合理的な選択の結果が、大きな幼体が見せる水面に留まり食べ続けるという行動なのである。

 ただしこの行動が観察出来るのも、サワの身体がもう少し大きくなるまでの間。

 サワの身体で成長したのは大きさだけではない。その中身にも、成体となるための変化が起き始めていたのだ……

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