セトゲヘドロサバ2

 キューブ内に持ち込まれた動物は、基本的には人間の生活を支えるためという『用途』がある。

 これまで紹介してきた生物達の祖先……シジミチョウやイエネコは、ヒトの精神的安定を目的に導入された。そこで生きているだけで役立つというタイプだ。とはいえ動物の用途には、もっと直接的なものがある。

 即ち、食用だ。

 キューブを建造するほどの技術力を持ったヒト達にとって、空気などから食物を人工的に作り出す事は不可能ではない。しかし空気分子を連結して複雑なタンパク質を作り上げるよりも、動物に餌を与えて育てる方が安全かつ効率的だ。ヒトの『精神的嫌悪感』も小さい。よってキューブ内でも家畜産業は存在していた。

 持ち込まれた家畜は多種多様。乳牛、肉牛、ブタ、ニワトリ……そして何種かの魚も含まれている。

 その持ち込まれた魚の一種がマサバだ。

 キューブを建造したヒト文明では養殖技術の進歩により、宇宙空間でもマサバの完全養殖(卵から成魚まで育て、成魚から採卵を行える)が可能になっていた。魚は家畜の肉と食味が大きく違い、これを利用すれば食の多様性が大きく増す。ヒトは飽きる生き物であり、いくら栄養価が十分でも同じ食を続けるのは精神上好ましくない。キューブという閉鎖空間での生活を豊かにするために、魚という存在は欠かせない。ヒトによる手厚い保護を受け、いくか食べられる運命ながらも、種として安定して存続していた。

 しかし事故によりキューブ内の環境は変わった。

 事故後の混乱により、家畜達の世話は放棄された。ブタなどの陸生家畜は自力で飼育場を脱出し、何種かは絶滅しつつも新たな環境に適応・生活を始めたが……マサバ達養殖魚は少し事情が異なる。

 家畜達と違い、魚であるマサバ達は水の外に出られない。つまりヒトが用意した水槽の外には出られないのだ。狭い水槽の中にはろくな餌もなく、次々と飢え死にしていった。

 それでも僅かにだが生き残りがいた。食べ慣れないものを食べ、時には仲間の死骸も餌にし、どうにか育ったら自力で世代を交代し、少しずつ水槽内の環境に適応していき……

 かくして巨大水槽がずらりと並ぶ此処、養殖区画に誕生したのがセトゲヘドロサバである。他の養殖魚は絶滅しており、巨大な水場である養殖区画に生息している魚綱は本種だけだ。


「コポポ……」


「コポォ……コポポポ……」


 かつて養殖水槽の底を見れば、セトゲヘドロサバの姿は簡単に見付かる。それほどまでに、彼女達は放置された水槽に適応したのだ。

 では、その生涯はどのように始まるのか。まずはそこから見てみよう。


「コポポ……コポポ……」


「コポ……」


 この日、二匹のセトゲヘドロサバが水面に向かって泳いでいた。小さなヒレを必死に動かし、口の動きも激しくしている。

 本来セトゲヘドロサバは水槽の底で、じっとしながら生きている生き物だ。泳ぎは得意ではない、というより極めて下手。水槽の底から水面まで百五十メートルほどと魚にとっては短い距離だが、これを移動するだけでも体力を大きく使う。ならば何故この二匹は水面に向けて泳いでいるかといえば、それはある目的を果たすため。

 その目的とは繁殖だ。

 今回水面に向かっている二匹も繁殖を行おうとしていた。雄が先導するように前に出て、雌がその後を追っていく。


「コポ! コポボポッ!」


 先に水面に到着した雄は、後からやってきた雌の身体に巻き付く。雌の方はその巻き付きに反応して産卵を開始。雄は放精を行う。

 セトゲヘドロサバの受精方法は多くの魚綱と同じく、体外受精によって行われる。水中に撒き散らされた卵と精子が出会う事で、受精卵へと生まれ変わるのだ。

 卵の直径は約三ミリ。産卵数は三千ほどと莫大なものであるが、祖先であるマサバは十〜百万ほど産んでいた事を考慮すれば、かなり数が減っている。これは祖先との生息環境の違いが生んだ進化だ。マサバが生息する大海原には天敵となる大型魚が数多く生息しており、大量に生まねば卵は全て食べ尽くされてしまう。対してセトゲヘドロサバの生息環境は狭い水槽内。水中に天敵は殆どおらず、少ない卵でも十分生き残る個体が現れる。むしろ卵を大きくし、健康的で強い幼体を生み出す方が後々合理的となる。具体的にどうメリットがあるかは、後の観察で語ろう。

 受精卵となれば後は放置しても卵は勝手に発育していく。しかしセトゲヘドロサバはここで一つ、『手間』を掛ける。

 それは尻尾を激しく動かし、水面で飛沫を上げる事だ。


「コポポポポッ!」


「コポォオッ! コポッ!」


 この飛沫を上げる行為は、雄も雌も行う。全身をうねるように動かし、鞭の如く勢いで水を飛び散らせる。二匹の動きは極めて雑で、あらゆる方角に大量の飛沫を飛び散らせていた。

 そうする事で何が起きるかと言えば……飛沫の中に混ざった卵が、遠くへと飛んでいく。

 つまり、卵の拡散を狙っているのだ。此処はヒトが魚の養殖を行うため、無数の水槽を設置している場所。一つの水槽の大きさは僅か百五十メートル程度しかない。巨大な水槽を一つだけ置くと、定期的な点検や清掃を行うのに水槽内の水を全部抜くと養殖業が完全に止まってしまう。安定した魚の供給を行うためには、水槽を小分けにした方が合理的だ。ヒトからすれば極めて利便性の高い作りであるが……飼われる生物からすれば、狭い環境に閉じ込められているようなものである。

 ヒトの管理があれば、水槽間の移動はヒトが手助けしてくれた。しかし事故後、キューブ内でヒトによる作業は停止。魚達は狭苦しい水槽内に閉じ込められた。

 狭い環境に閉じ込められる事は、極めて危険な状態だ。小さな場所は些細な切っ掛けにより、大きく環境を変化させる。そして環境変化による全滅など自然界では珍しくない。そのため出来るだけ広い範囲に、何処かの環境が変化しても他の場所で生き抜く個体が出るように、子孫は拡散させるのが適応的だ。加えて大海原に適応したマサバの産卵数では、百五十メートル程度の水槽など簡単に過密となってしまう。過密となれば餌が不足し、大半の子孫が餓死……無駄となる。少しでも散らして、より多くの子孫が残るように工夫するのがやはり適応的と言えよう。

 このような条件下で進化した結果、セトゲヘドロサバの祖先種(マサバとセトゲヘドロサバの中間種)は産卵時に水面で飛沫を上げるという形質を得た。飛沫を飛ばす方角はランダムなものであるが、水槽の縁近くで行えば、外に向かって飛ぶものも少なくない。

 隣の水槽との間には、水槽の区切り兼ヒトの『足場』という陸地がある。この上に卵が乗ってしまうと、残念ながら乾燥により死んでしまう。しかし足場の幅はほんの二十センチ。全身を使った動きにより生じた飛沫は、九十センチ先まで余裕で飛んでいく。上手くいけば数百個程度の卵は、隣の水槽への移動に成功するだろう。

 二十万年が経った今でこそ一部が崩落するなどして複数の水槽が連結しているが、それでも未だ無事な仕切りにより何十と区切られている。この雌雄が産んだ卵も水飛沫がなければ、隣の水槽に辿り着く事は出来なかった。

 今度は卵に視点を移そう。

 無事隣の水槽に移った卵であるが、どの卵も水面近くをぷかぷかと浮いていた。非常に浅い場所を漂っており、その姿は水上から目視確認出来る。

 何故卵は水面を漂うのかといえば、酸欠環境に対応するためだ。長年放置された水槽内には大量の植物プランクトンが発生しており、またその死骸が水槽の底に沈殿している。この死骸は微生物により分解されるが、同時に酸素を消費する。

 死骸が少量であれば、大して酸素は消費されず、分解された物質は再び植物プランクトンの栄養となる。植物プランクトンは光合成により酸素を供給するため、酸欠は起こらない。しかし大量の死骸が一気に積み上がると、微生物は死骸を分解しながら大量増殖。光合成による供給以上の早さで酸素を使い果たし、その領域を無酸素状態に変えてしまう。

 水中は大気中と違い、極めて容易に酸欠となる環境だ。植物の光合成が行われるのは水面のごく浅い領域であり、水に溶けた酸素は中々深くまでは届かない。川や海などの自然界、そしてヒトが管理していた頃の水槽であれば、水流により酸素が豊富な水が底へと流れ込んだが……現在キューブ内の水槽に水流を生み出す仕組みは、故障により停止している。水槽の底に酸素は届き難く、水面で作られた酸素は届かない。

 活発な細胞分裂を行い、エネルギーを大量に消費している卵には豊富な酸素が必要だ。そのため水深が深くなるほど、酸素濃度が低くなるほど、卵の孵化率が低下していく。水面近くに浮かぶ卵だけが生き延びたのだ。

 卵の発育に掛かる時間は凡そ二百時間。祖先が生息していた大海原であれば、酸素とプランクトンが豊富な海面は生物が豊富であり、故に無防備な卵にとって危険な環境だった。こんなに長い時間を掛けて発育したら、ほぼ全ての卵が食べ尽くされてしまうだろう。しかしこの水槽内であれば、そのような生物は全くいない。安全に育つ事が出来る。

 安全な環境で卵は十分な発育を行う。孵化する時には、卵の中にいる幼体は既に立派な体躯の持ち主だ。体長は四ミリに達し、腹に卵黄は残っていない。消化器官なども完成している。

 とはいえその姿は成体とはあまり似ていない。身体は非常に細く、胸ビレが大きく発達している。正面から見た体型は成体が下側に底面がある三角形に対し、幼体は真ん丸とした流線形だ。これは泳ぎに適した形態であり、水底で暮らすためのものではない。また目も大きく、直径〇・四ミリと体長の十分の一にも達する。


「コ、ポッ!」


 やがて生まれた幼体達は、いずれも水槽の底に沈んでいく事はしない。水面近くを泳ぎ回るだけ。

 生まれたばかりのセトゲヘドロサバは、成体と違って水面付近を生活環境とする。これもまた酸素量の問題だ。成体となるためたくさんの餌を食べ、どんどん成長していく幼体は酸素消費量が多い。無酸素状態に近い水槽の底に潜れば、たちまち酸欠により命を落とす。そのため深くに潜る事は出来ない。幼体は身体を一生懸命動かし、本能的に水面に留まろうとする。

 また水面付近は餌が豊富だ。水槽内の水は緑色に染まっているが、これは大量の植物プランクトンが発生している証。また植物プランクトンを餌にして、動物プランクトンも大発生している。特に体長〇・〇二ミリ(二十マイクロメートル)しかない珪藻は重要な餌だ。手頃な大きさに加え、水中を文字通り満たすほどに生息している。口を開ければ勝手に入ってくるぐらいだ。


「コポ、ポポポ」


「コポポ。コポ」


 溢れんばかりの餌を食べ、幼体達は成長していく。小さな身体は皮膚が薄く、食べたものが透けて見える。幼体の腹はどんどん緑に染まり、その食欲を周りに示す。

 食欲旺盛な幼体達が本能で目指すは、大きな成体。たくさんの卵や精子を持ち、誰よりも大きな卵を作り、誰よりもたくさん子孫を残すために。

 しかし自然界はそれを許すほど甘くない。大量の餌を食べ、ぶくぶくと太る幼体達。大きな卵から生まれた事で多少身体付きはしっかりしているが、まだまだ泳ぎは上手くない。こんな貴重な『食糧』を放置するなんて、それこそ不適応というもの。適応的な条件があるならば、生物はいずれそこに進出してくる。

 誕生間もないセトゲヘドロサバの幼体達に、初めての危険が迫ろうとしていた。

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