オオトラネコ4

「……グルルルルル……」


 ムギは感覚を研ぎ澄まし、周囲の気配を探る。同時に歯を剥き出しにして、何時でも噛み付ける体勢を取った。

 オオトラネコの感覚の鋭さは、先程観察した獲物を探す時の動きからも明らかだ。されど相手が同じオオトラネコとなると、その感覚の鋭さも頼れる武器とは言い難い。

 しなやかな身体運びを可能とする柔軟で屈強な筋力、足音を出さない柔らかな肉球、風に合わせて進む技術……獲物に気取られないための種としての能力が、尽く自分自身を追い詰める。ムギが自分以外のオオトラネコに気付けたのも、風と共にやってきた臭いのお陰だ。もしも臭いがなければ、相当近くまで接近を許しただろう。

 何故そこまで同種の存在を気にするのか? そのような疑問を抱くかも知れない。ヒトからすれば同種との遭遇に、神経を尖らせる事など滅多にないのだから。だが、オオトラネコの場合は違う。

 オオトラネコはこのキューブ内環境、その中でも居住区の生態系の頂点捕食者である。しかし巨大な身体、優れた身体能力を維持するためには大量の食物……生きた動物が必要だ。この生きた動物達が生存するにも餌が必要であり、最終的には植物の数に依存する。つまりオオトラネコが生きていくには莫大な量の植物が必要であり、その植物を養うだけの『面積』が必要だ。

 この生きていくために必要な面積を確保しておく事が、所謂縄張りである(正確には縄張りを持つ理由の一つ)。そして大型肉食獣の場合、縄張りの面積はかなり広くなる傾向がある。例えば地球に生息する大型肉食獣トラの場合、雄の縄張りは六十〜百平方キロメートル、雌は二十平方キロメートルと言われている。オオトラネコの縄張りは十キロ四方である約百平方キロメートル以上。この広さは生きていくのに最低限必要な規模で、実際にはもう少し大きい事が多い。

 ところが居住区におけるオオトラネコの生息密度は、百平方キロに一・一匹。縄張り内に一匹以上存在しているのだ。しかしそれは当然の事。オオトラネコには天敵がいない。生まれた子供は、病気や障害以外ではほぼ死なず、大抵は独り立ちするまで育つ。故にどうしても数は飽和状態……その『世界』では養えない数まで増える。

 養えないという事は、そのままでは餓死するという事だ。生きていくためには縄張りを持ち、獲物の数を確保しなければならない。だが、数が飽和している以上(寿命などで縄張りの持ち主が死んだ場合などを除けば)空いているスペースなど存在しない。

 生きるためには、誰かの縄張りを奪わねばならない。ムギもかつて老いた個体から縄張りを奪い取った。そしてその戦いで、老個体を殺している。

 奪う側からすれば縄張りの持ち主が死のうと関係ない。奪われる側からすれば挑戦者が死のうとどうでも良い。双方共に相手が死んで良いと考えている上に、縄張りを得られなければ自分が餓死するかも知れないのだ。

 だからこそ、ムギは怒りと闘争心を露わにしている。隙を見せれば、相手はその一瞬で縄張りの主を殺そうとするのだから――――ムギがそうしたように。


「グルル……グルルルルル……!」


 唸り声を上げ、辺りを注意深く見渡すムギ。

 先程感じ取った同種の気配は、今はすっかり消えている。臭いは未だ漂っているが、足音や草の動きはなくなっていた。

 だが、それは同種が傍からいなくなった事を意味しない。

 相手は草むらの奥で息を潜め、チャンスを待っているのだ。ムギが警戒を解くその瞬間を。同種との戦いとなれば、基本的に戦力は五分五分と考えるのが妥当。仮に相手の方が弱いとしても、爪や牙の一撃を受ければ大怪我を負う可能性はゼロではない。可能な限り優位な状態で戦おうとするのが普通だ。先手を取るために今頃同種個体は息を潜め、ムギをじっと観察しているだろう。

 しかしながら、ムギがあまりにも隙を見せない、或いは強そうだから諦めたという可能性もある。縄張りを奪うのは生きるための行動なのだから、勝ち目のない戦いをしたって仕方ない。力の差があると感じれば、戦わないという選択もまた普通にあり得る。もしも同種がもう逃げているとすれば、警戒を続ける事はエネルギーの無駄遣いだ。体力を消耗し、新たな同種が現れた時に疲弊した状態での戦いを強いられてしまう。無駄な警戒は解かねばならない。

 相手は隠れているのか、それとも退いたのか。その見極めを正しく出来るものだけが、縄張りを持ち続けられる。

 警戒を続けたムギの選択は、正解だった。


「フシャアアオオオオオッ!」


 痺れを切らしたのか、草むらの中から同種個体が跳び出してきたのだから。

 予想は当たっていた。しかしムギが喜ぶ事はない。最大の強敵との戦いがこれから始まるのだ。


「フシャアアアアアッ!」


 ムギも素早く跳び出し、現れた同種個体目掛け襲い掛かる。

 まず伸ばすのは前足。

 ヒト程度の身体ならば簡単に押し潰す腕を振るい、鋭い爪でその身を切り裂こうとする。同種個体も狙いは同じだ。爪を剥き出しにしたまま、腕を振り下ろす。

 先に動き出したのは同種個体の方。爪が届くのも同種個体の方が早く、ムギの肩の肉に食い込もうとする。

 ヒト相手であれば、その身体を容易く切断する爪。

 しかしオオトラネコの皮膚は分厚く、そして丈夫だ。また体表面を覆う毛も非常に硬く、鎧のように機能している。この二つの防御によりオオトラネコは強力な、それこそ自分達オオトラネコの攻撃にも耐えるほど頑強な身体を有していた。

 爪の一撃を受けたところで、ムギの身体に大きな傷は付かない。無論、それはムギの攻撃を受けた同種個体も同じだ。二体は組み付くようにぶつかり合い、そしてムギが相手を押し倒す。

 ぶつかり合いのパワーではムギが上だったのだ。何しろムギは縄張りを持ち、十分な獲物を食べている。身体にエネルギーは満ちており筋肉も痩せ衰えていない。縄張りを持たない個体に、縄張りを持つムギが身体能力で負ける事など早々ない。

 しかし縄張りを持たない同種個体には、ムギにはない力がある。

 絶対に、何がなんでも縄張りを得ようというハングリーさだ。例え力と体格で負けようとも、一切退くつもりがないという闘争心。勿論精神論は勝敗を決するものではない。だが実力がある程度拮抗しているならば、その『立ち振る舞い』が勝敗を大きく左右する。

 後がないという状態であれば、後の事など考えずに全力を出せる。対して縄張りを持ち、身体にエネルギーが満ちているムギは、。どうしても力の全てを出し切るような、『本気』の戦いをする訳にはいかない。

 メンタル面では相手に分がある。故に力で勝ろうとも、ムギは決して油断しない。


「フゥ、シャフゥウッ!」


 組み付き押し倒した同種個体の首目掛け、ムギは大口を開けて噛み付いた。鋭い牙の一撃はオオトラネコの毛と皮膚の守りを突破し、その肉に刺し傷を作り出す。

 首には脳と心臓を繋ぐ太い血管がある。此処を傷付ければ多量の出血を引き起こし、上手くいけば失血死、そこまでいかずとも貧血による体調不良を引き起こす。戦いを有利に進められる一撃だ。

 しかしこの攻撃も、オオトラネコという種にとっては想定内のもの。彼等の首は皮が分厚く、オオトラネコ自慢の牙でも簡単には深く貫けない。また生命に関わる血管は脊椎側に位置し、首の骨によって守られていた。首の骨が砕ければ同時にダメージを受けるという弱点もあるが、どの道首の骨が折れたら大概死んでしまうもの。実質、大した問題ではない。

 獲物の息の根を確実に止めるムギの攻撃も、同種個体に対してはちょっと顔を顰めるのが限度。同種個体は大きく頭を振ってムギを突き飛ばした後、四肢に力を込め……

 一気に跳んで、ムギの腹に頭突きを喰らわせた。


「フギィオオッ!?」


 腹への一撃にムギが呻く。身体もよろめいてしまう。

 その隙を同種個体は見逃さない。


「フシャゥオオオオオオオッ!」


 猛々しい雄叫びを上げ、同種個体は両前足を突き出しながらムギに迫る。

 何をするつもりなのか、ムギは直感的に理解した。体勢を崩した今、更に追撃を加える事で押し倒そうという魂胆なのだ。

 オオトラネコの身体は、オオトラネコの攻撃を耐えるのに十分な強度を持つ。しかし唯一、腹だけは別だ。胃袋を膨らませるため肋骨が退化しており、他の部位と比べて守りが薄い。此処に牙を突き立てられては臓器が傷付き、致命傷になるだろう。

 押し倒されるのだけは不味い。

 そこでムギは力いっぱい踏ん張る、ではなく

 どれだけ踏ん張ったところで、『下』方向に掛かる力は自らの体重分だけ。持ち上げ、ひっくり返そうとしている同種個体の動きに耐えられるものではない。

 しかし跳んで距離を取れば、追撃を躱し、体勢を立て直せる。前に出続けるモノは強いモノではない。真の強者は引き際も弁えているのだ。


「フシャウゥゥゥ……!」


 同種個体から距離を取ったムギは、鋭い眼差しを向けた。

 まだこちらはやる気満々。逃げるなら今のうちだぞ……威嚇により同種個体を追い払おうとする。

 しかしこの程度で逃げるなら、最初から戦いなど挑みはしない。同種個体も大地を踏み締め、次の争いに備えた。

 今度は両者同時に跳び出し、真正面からぶつかり合う。爪を立てて毛皮を切り裂き、牙を突き立て肉を抉る。血だけでなく肉片も飛び散り、二匹に生傷を増やしていく。

 実力が拮抗しているモノ同士が戦った場合、オオトラネコの死闘は三時間以上続く事も珍しくない。

 ムギと同種個体の場合も、噛み付き、引っ掻く戦いは二時間ほど続いた。どちらも怪我により弱ってきたが、動きには違いが現れてきている。

 同種個体の方がぎこちない動きになっていた。息も単に荒いだけでなく、不規則なものになっている。目も虚ろで焦点が定まっていない。

 若い同種個体は戦いの経験に乏しい。故に怪我をした経験も少なく、身体に走る痛みの耐え方もよく分からない。それだけでなく攻撃を受けた時の対処法……突き飛ばされた際の受け身の取り方、噛まれた際身体を痛めない暴れ方など……も知らないのだ。同じ威力の攻撃を受けても、ダメージはほんの少しだけ経験豊富なムギよりも多い。

 このままでは勝てそうにない。同種個体もそれを理解した筈だ。


「フウゥゥゥゥゥ……!」


 だからこそ今になって、苦し紛れに威嚇の声を発する。


「フシャアウウウウゥゥゥッ!」


 その悪足掻きにムギは、より大きな声で応えた。自分の力と体力を誇示するように。

 苦し紛れは通じず、実力差を突き付けられた形だ。ヒトのように高度な情緒を身に着けた知的生命体ならば、プライドが傷付いたと感じ、より一層激しく怒りを燃え上がらせるかも知れない。

 しかしオオトラネコは、確かにそこそこ優れた知能を持つが、本質的には野生動物だ。『現実』に反抗するような、無謀な真似はしない。負ける可能性が高くなった状況で戦いを続けるのは、全くメリットがないのだ。


「……ゥゥウゥゥ、ゥゥ」


 同種個体はゆっくりと後退り。ムギから離れ始めた。

 同種個体が離れていっても、ムギは気を抜かない。油断していると判断すれば、同種個体はまた襲い掛かってくるに決まっているからだ。

 しかし逃げる同種個体に追い討ちを掛けようとはしない。ムギの目的はライバルの殺害ではなく、あくまでも縄張りを守る事。同種個体が逃げていくのなら、それで目的は達せられるのだ。むしろ下手に追って苦し紛れの攻撃をされ、よりダメージを受ける方が問題である。縄張りを狙うライバルは目の前の同種個体だけでなく、すぐ傍にもいるかも知れない。負傷した身体では次のライバルとの戦いに対処出来ないだろう。邪魔者は一体残らず殺しておく……のだ。


「……フシュゥゥー」


 同種個体の気配がすっかりなくなってから、ムギは身体から力を抜いた。息を荒らげ、少しでも多くの酸素を取り込もうとする。

 肉が抉れ、血も多く流れた。オオトラネコの表皮は細胞分裂が活発で、かなり深い傷でも一晩も経てば大抵塞がる。しかし新しい細胞の材料としてアミノ酸や脂質、それと大量のエネルギーが必要だ。

 同種個体と出会う前に平らげたノラニワトリから得た栄養分は、大部分が傷の回復に使われるだろう。

 オオトラネコが食欲旺盛なもう一つの理由は、生傷の絶えない暮らし方をしているため。使うエネルギーが多ければ、その分食べなければいけないものだ。

 同種個体の方も、今頃何処かの誰かの縄張りに忍び込み、こっそりと狩りを行っているだろう。傷を癒やし、次こそは自分の縄張りを得るために。

 ……それを聞くと、こう思うかも知れない。誰かの縄張り内にこっそり忍び込んで狩りが出来るのであれば、わざわざ縄張りを持たなくても良いのではないか、と。

 実際オオトラネコの縄張り警備は、お世辞にもちゃんとしているとは言い難い。何しろ百平方キロメートルにもなる広範囲を、たった一体で見回っているのだ。一日で縄張り全域を巡回する事は出来ず、また縄張り全てを把握するような『超能力』も持ち合わせていない。こっそり忍び寄れば、意外と縄張り内に入り込める。

 あくまでも「意外と」という程度の話なので、実際にはそれなりに見付かり、追い立てられる。また縄張りを持つ事で良い狩り場などを知れるため、うろうろと歩き回るより効率的な狩りが可能だ。特に獲物が少ない時期は、がむしゃらに歩き回るより、水場などの特定のポイントで待ち伏せする方が遥かに効率的である。縄張りを持てばほぼ餓死はないのに対し、縄張りを持たない個体が頻繁に餓死している事からも縄張りのメリットは明らかだ。

 しかし命を賭してまで守る価値があるかと言えば、また微妙なところ。食べるためだけなら、ここまで必死になるのは適応的な行動とは言い難い。

 彼等が縄張りを持つのには、もう一つの理由がある。とても大事な、命を賭けてでも縄張りを確保する理由が。

 ムギがそのもう一つの理由を実行に移すのは、この死闘から一晩経ってからの事だった。

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