オオトラネコ5

「ン、ンクァァァ……」


 翌日の夜。ぐっすりと眠っていたムギは大きな欠伸と共に目を覚ました。

 同種個体との戦いで付いた傷は、今も身体中に刻まれている。しかしすでに塞がってもいて、大きなかさぶたが出来ていた。かさぶたの下では今も細胞分裂が行われ、新しい皮膚や毛根が作られている。かさぶたが自然と取れた時、傷はすっかり綺麗になっている事だろう。

 疲れも残っていない。一日中眠っていた事で体力はすっかり回復した。涼やかな夜風を感じながら、ムギは元気な身体をぐっと伸ばす。

 何時もならここで欠伸の一つもするだろう。

 ところがどうした事か、今日の彼は少しそわそわしていた。辺りをキョロキョロと見回し、身体を微妙に揺れ動かす。尻尾を意味なく揺らしたり、毛繕いを念入りにしたり。


「……フゥゥゥゥ」


 そして甲高い、甘えたような鳴き声がムギの口から漏れ出る。

 これは興奮を示すもの。ただし天敵や獲物を前にした時の興奮ではない。

 性的な興奮である。

 ムギは感じ取っていたのだ。近くに自分の子孫を残せる相手……雌個体がいるのだと。

 オオトラネコの中で縄張りを持つのは雄だけ。雌は雄よりも更に広い範囲を、縄張りに拘る事なく歩き回る。狩りの効率を上げるためにある一定範囲に留まろうとする(土地柄を理解しようとする)性質はあるものの、獲物が減るなどすれば簡単に居場所を変えてしまう。ライバルに追われない限り、自分の縄張りを死守しようとする雄とはまるで違う。

 そうして歩き回りながら、雌は身体から性フェロモンを分泌。フェロモンを感知した雄は、その香りに引き寄せられるように動く。

 今のムギのように。


「フゥ。フウゥ。フゥ」


 頻繁に臭いを嗅ぎながら、ムギは歩き出す。獲物を探す時なら慎重に歩くが、雌を求めている時にその必要はない。むしろ堂々と、自分の存在を示すよう派手に動く。

 ちなみに雌の方は、雄と違って必死に繁殖相手を探したりなんてしない。雄が来るのを待つだけ。

 勿論雌も子孫を残したがっている。ただし、その子孫は『強い』ものでなければならない。雌を見付ける事も出来ないような雄とは、子を残す価値もないのだ。

 ムギは必死になって雌を探す。近くを獲物が通っても見向きもしない。獲物に出会うよりも、雌に出会う方が確率的に低いのだ。ここで雌を逃せば、次にまた雌が訪れるのは何時になるか分かったものではない。故に今の最優先事項は雌である。

 嗅覚を研ぎ澄まし、音に意識を集中させ、ひたするに辺りを練り歩く。

 そうして動き回る事十二分。ついにムギは雌の傍まで近付く事に成功した。

 雌の体長は一・九メートル。ムギよりも一回り以上小さいが、これでも立派な成体だ。身体付きも華奢であるが腰回りと腹部は雄よりも(体長に対する比率で見た場合)やや太い。身体付きの違いは体内に子宮がある点と、子を産むため骨盤が雄よりも幅広い形になっているからだ。

 身体の大きさや華奢ぶりからも分かるように、雌の戦う力は雄よりも遥かに下だ。無理やり組み伏せようとすれば、雄にとってそれは難しい行いではない。


「フ、ニィヤゴオォオォォ」


 しかしムギが選んだのは、甘えた声を出す事だった。

 何故なら無理やり雌と交尾をしても意味がないから。オオトラネコの雌はある程度発情した状態でなければ排卵しない。それどころか膣口の圧力が極めて強く、雄の生殖器を事さえも出来る。

 いくら怪我の治りが早いオオトラネコとはいえ、生殖器を破壊されてはどうにもならない。無駄な交尾によって二度と子孫を残せなくなるなど、あまりにも割に合わない展開だ。故に雄は無理やり交尾しようとはせず、雌をその気にさせようと努力する性質があった。

 されど雌は、早々簡単には交尾を受け入れてくれない。

 雌は雄の吟味を行う。具体的には身体付きのチェックだ。体長は小さ過ぎないか、四肢や胴体は太いものか……身体を見れば栄養状態が分かる。

 栄養状態が良いという事は、狩りの腕前が良いという事。その遺伝子を引き継げば、生き残る力の強い子孫が生まれると期待出来る。期待通りにいけば自分の子孫は生存競争を生き延び、より多くの子孫を残してくれる可能性が高いと言えるだろう。

 雌としても自分の子孫を残したいのだ。そして雌の『戦略』があるなら、それを利用した戦術を雄は組み立てる。

 その戦術こそが縄張りだ。縄張りにより安定的に獲物を手に入れれば、強く逞しい、雌好みの身体になれる。逆に縄張りを持てないと身体は貧相なまま。雌からは見向きもされず、子孫を残せない。あくまでも身体の立派さが判断基準なので、餌が豊富だったり、狩りが飛び抜けて上手くて獲物を十分取れたりして、身体がしっかりしていれば交尾してもらえるが……そんな個体は滅多にいない。縄張りを持つのが王道である。

 そして生物進化にとって重要なのは、どれだけ多くの子孫を残せるのか、という点だ。百年生きて子孫が一体しかいない個体と、一年で死んだが百体の子孫を残せた個体では、後者の方が適者となる。個体がどれだけ長生きしようが、子孫を残せないのなら滅びるだけ。

 故にオオトラネコの雄達は命を賭して縄張りを奪い合う。縄張り争いの果てに死んだとしても、なんら問題はない――――死ぬまでに子孫を残せれば良いのだし、交尾する前に死んだとしても


「フニャオオォォォォ……ンニャオォ……」


 ムギは必死にアピールを続ける。この雌を逃した次の日、強力なライバルとの戦いに負けて死ぬかも知れない。何がなんでも、今この雌との間に子孫を残したいのだ。雄のプライド等というものはない。それを持てばのであれば、話は別だが。

 さて。ムギのアピールを受けながら、雌はしっかりムギを観察。自分が子孫を残す相手として相応しいか、身体に障害などを持っていないか、誤魔化されていないか……様々な特徴を見ていく。

 雌は雄と違って縄張り争いはしない。雌同士が出会っても基本的には見向きもせず、お互い素通りするだけ。故に仲間同士の争いで死亡する事はそう多くない。

 しかし出産は大きな負担が掛かる行為だ。それなりに優れた医療技術を持っていたヒト文明でも、出産時には十万分の三程度は死亡している。技術が未発達な時代では百人に四人程度が死亡するという、無視出来ない水準に達していた。

 オオトラネコは野生動物だ。医療なんて未熟どころか皆無。小さな子供を産むのであれば負担も軽いが、オオトラネコは大きく、丈夫な子供を産む。多少母体が危険になろうとも、子供の生存率が上がるのならばそちらの方が適応的だからだ。しかしリスクを負うのであれば、より良い子孫を残した方が合理的というもの。雄の子を産んでいる余裕はない。


「……フゥグゥー、ゴロロロロ」


 やがて雌は低く不気味な声を鳴らした。

 しかしこれは敵対の声ではない。むしろ雄にとっては待ち望んでいたもの。

 交尾を受け入れるという答えだ。


「ンニィアアァ。ゴロロォ」


 声を聞いたムギはすぐに雌の後ろに回り、その上に乗る。

 それから雌の首をしっかりと噛んでから、ペニスを雌の生殖器に挿し込んで交尾を行う。

 雌の首を噛むのは、交尾が完全に終わる前に雌が逃げないよう押さえるため。特にオオトラネコの交尾は最後が肝心だ。雄のペニスの先には鋭い棘が無数に生えており、この棘が雌の膣道を引っ掻く事で排卵が誘発される。これにより交尾直後には確実に卵子があるため、妊娠確率がほぼ百パーセントというメリットがあるのだが……引き抜く時にとても痛い。そのため雌が暴れるのだ。大事な最後の仕上げなので、ここを怠る訳にはいかない。


「フシャアアッ!」


 ムギが交尾した雌も、終わりに大きな声で鳴いた。次いで反射的に繰り出した拳をムギの顔面に喰らわせる。体格では勝っているとはいえ、同じ種からの一撃は強力だ。もろに受けたムギの鼻から血が垂れる。

 そうして不機嫌になりながら、雌はムギの下から立ち去っていった。

 ムギはその後を追う事はしない。オオトラネコの子育ては雌が単身で行う。雄は子育てには一切関わらない。

 それどころか雄は、子連れの雌を見付けたらその子供を殺そうとする。

 理由はそうすれば自分の子孫を残しやすいため。将来自分の子孫にとって驚異となり得る存在を排除出来るだけでなく、子を失った雌と交尾して自分の子孫を作れるからだ。子を殺そうとすれば雌も抵抗するが、殺された後は普通に交尾を受け入れる。何故なら自分の子孫を残す事だけを考えた場合、方が得策だからだ。野生の世界に、仇や恨みなんてものはない。

 もしもその子供が自分の子供だったら? そんな疑問もあるかも知れないが、確率的に考えれば。仮に自分の子供でも、。大きな損はしていないため、発見した子供は手当り次第に殺す方が合理的なのだ。

 雌の方も雄の習性を、本能で理解している。交尾後の雌は雄を忌避する性質があり、これにより生んだ子供に危害が加わらないよう守っている。ムギが交尾した雌がそそくさと立ち去ったのも、本能的にムギを嫌ったのが理由だ。


「……フシュウゥゥゥ」


 置いていかれたムギであるが、彼は離れた雌の事などもう興味もなかった。子育てを行わないオオトラネコの雄にとって、交尾は「気持ちいいもの」以上の行為ではない。自分が父親になったという自覚がなくとも、子孫を残すのに不都合はないのである。

 それよりも、次の子孫を残さねばならない。

 生まれた子供が必ず生き延びるとは限らない。獲物が足りなくて餓死をするかも知れないし、風邪をこじらせて死ぬ事も、他の雄に殺される事もあるだろう。仮に成体まで育っても、縄張りを獲得出来るとは限らない。

 だからたくさんの子孫を作る。それが自分の遺伝子を残す一番確実な方法だとムギは知っているのだ。

 何故なら彼は、そうして血筋を繋いできたモノ達の末裔なのだから。


「シャゥッ!」


 宵闇の中、ムギは走り出す。交尾運動で空かせた腹を満たすため、本能のままこの日も獲物探しを始める。

 彼の子供達も、彼と同じように生きていく事だろう。

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