ウサギシジミ4

 リカナの孵化から六十三日が経過した。

 葉の上で休むリカナの体長は、今や二十センチにもなっていた。体重は三百グラムほど。祖先であるベニシジミどころか、故郷である地球の何処にもいない巨大イモムシに成長している。

 メガギシの豊富な葉、そして天敵やライバルを蹴散らすパワー。二つを兼ね備えたウサギシジミには、食事の邪魔をするような存在はいない。彼女達は食事に専念する事が出来、それ故に非常に成長速度が早いのである。また昆虫綱であるウサギシジミは変温動物であり、体温維持に殆どエネルギーを使っていない。このため食べたものの多くを成長に使う事が出来るのも、急激な成長を可能としている一因だ。

 さて。これだけ大きくなったからには、またも脱皮が必要である。今のリカナの身体は体表面がぱつぱつで、弾けそうなぐらいだ。身体中からホルモンが分泌され、脱皮の準備を始めようとしている。

 同時に分泌されたホルモンにより、リカナは脱皮場所探しを始めた。


「……キュー。キュ、キュー」


 皮が張っていて動きにくい身体を、ゆっくりと前に進めていくリカナ。

 彼女は頭を左右に振り、六本の胸脚で忙しなくものを触りながら周辺の環境を確かめていく。小さな虫などと偶然にも遭遇したら、今まで以上の獰猛さで襲い、追い払うか殺すかした。かなり神経質な振る舞いをしている。

 そして彼女が向かう場所は、メガギシの葉の根元付近。メガギシは地面付近の成長点から葉を生やしている形でのため、葉の根元には別の葉も生えている。密集した葉と葉の間に身体を捩じ込み、身体の上下を葉で挟むような体勢になった。葉が身体を包んでいる状態なので、外からも見え難い。

 身を守る、という意味では正しい行動だ。しかしこれは奇妙な行いである。生まれたばかりで今より力の弱い時期のリカナは、脱皮前でも葉の隙間に身を隠したりしていない。強くなってからの方が臆病になっているのだ。

 奇妙な行いはまだ続く。


「キュ……キュ……」


 一度葉の奥に身を隠したリカナだが、それから何度も前進と後退を繰り返す。進み方も同じではなく、ちょっと身体を斜めにしたり、捩ったり、色々な動きを起こした。

 まるで、何かの予行練習であるかのように。

 実際、それは練習だった。なんの練習かといえば、『脱皮』の、である。どのように動けばちゃんと皮を脱ぎ捨てられるのか、その予行を行っていた。ウサギシジミの神経系に知能を生むほどの機能はないが、予行練習の経験は蓄積され、脱皮時に少なからず活かされるだろう。

 しかしここまで大きくなるのに、リカナは既にニ回の脱皮を行っている。当然そのニ回とも脱皮は成功し、こうして大きくなった。そしてそのニ回の脱皮時は練習などしていない。

 今までらしからぬ行動を何度かしたら、ようやくリカナは落ち着いたように、動かなくなった。外骨格である丈夫な皮膚の下に新たな表皮を作り、より大きくなるための準備を進めていく。

 ところがこの準備もまた、過去二回と少々異なる。

 時間を掛けているのだ。丸一日経っても動かず、二日目を迎えても微動だにしない。三日目を迎えてようやく皮膚が透けてきたがまだ脱皮は行わず。

 四日目の朝。ようやくリカナは脱皮後の身体を作り上げた。これは過去二回と比べ、倍近い時間だ。確かに身体が大きくなったので表皮の面積は広くなったが、新しい表皮を作るのは古い表皮の下にある細胞。つまり皮が大きくなれば、その分新しい皮を作る細胞も増えている。時間が掛かったのは、過去二回と比べ細胞分裂自体が倍近い遅さで進んでいたからに他ならない。

 ともあれ新しい表皮が出来た事で、ようやく脱皮が起きる。頭の付け根に切れ目が入り、そこから新たな頭と身体が出てきた。

 されどここでも慎重さを露わにする。前へと進む動きはとてもゆっくりで、一歩一歩を踏み締めるようだ。これまで脱皮に掛けていた時間よりも、三倍は長く費やしている。


「キュゥー……キュ、キュー」


 脱皮が終わる時には、既に昼間を迎えていた。疲労も溜まったようで、リカナは身体を横に膨らませたり縮ませたり……気門から新鮮な酸素を取り込むため、呼吸の動きを頻繁に繰り返す。

 確かに、脱皮は体力を多く消費する。しかしここまで疲れ切った状態に陥ったのは、今回が初めてだ。

 長い時間を掛けた準備、大きく消費した体力。過去二回の脱皮とあまりにも苦労が違う。

 それも当然で、三度目の脱皮は難易度が極めて高くなっているからだ。そしてその理由は、彼女達の巨大な身体……これを支える『仕組み』が原因である。

 かつて地球には、ウサギシジミ以上の大きさを誇る昆虫もいた。

 その時代は石炭紀。哺乳綱も鳥綱も誕生していない、いるのは動きが鈍くて水辺から離れられない両生綱ぐらいという時代だ。昆虫達からすれば恐ろしい外敵が殆どいない、仮に襲われても空に飛べばまず捕食される心配はないという環境である。捕食者がいないという意味では、キューブ内に近い環境だと言えよう。

 しかし昆虫が巨体を獲得するには、天敵以外にももう一つの問題がある。

 それは酸素濃度だ。

 昆虫綱に限らず節足動物門では、体液循環の仕組みに開放血管系を採用している。この開放血管系とはその名の通り血管が閉じていない……毛細血管がなく、細胞の間をリンパ液体液が通っていく事で酸素や栄養を行き届かせる仕組みである。

 開放血管系のメリットは、単純さだ。心臓から送り出したリンパ液は全身の細胞の隙間を自由に流れていく。細胞の末端までリンパ液は行き渡っているため強い心臓でわざわざ送り出す必要はないし、毛細血管を作らない分低コストだ。コストが低ければ少しの餌で生きていけるし、子孫に回す栄養を増やす事も出来る。小さな身体、活性の低い身体では非常に有利な機能と言えよう。

 しかしデメリットとして循環効率の悪さが挙げられる。心臓から押し出した体液は、勝手に散らばっていく。イメージとしてはバケツで水をぶち撒けるようなものだ。身体が小さいならどれだけ適当でも、問題なく末端まで行き届くだろう。しかし身体が大きくなると、適当な流れでは末端まで行き届かない。届いたとしてもごく僅か。これでは末端の組織が生命活動を維持出来ず、最悪の場合壊死してしまう。

 毛細血管と強い心臓があれば、体液がちゃんと組織末端まで行き届く。身体というのは、単に骨や組織が頑丈なら大きく出来るというものではない。大きくなったところにもちゃんと物資が送り届けられる……物流面が整っていてようやく生きていけるのだ。開放血管系は、この物流面が巨大化に不向きなのである。

 巨大化に不向きなのは血管系だけではない。呼吸器系も不向きだ。節足動物は気門という身体に開いた『穴』から直接空気を取り込み、枝分かれした気管と接したリンパ液とのガス交換(酸素の吸収・二酸化炭素の排出)を行う。気管は身体のかなり奥深く、それこそ全身に張り巡らされるように存在し、酸素はそれぞれの組織に直接的に送られる。

 この仕組みは小さな身体では圧倒的な効率を誇る。何故なら空気は液体よりも流動性があるため、少しのエネルギーで全身に酸素を届けられるからだ。しかし身体が巨大になるとそうもいかない。何故なら地球生命のガス交換は拡散と呼ばれる物理現象……『仕切り』を境にして物質濃度に差がある時、濃い方から薄い方へと物質が流れていく現象。体内では酸素が消費されて濃度が低いので外から流れ込み、二酸化炭素は体外の方が濃いので外へと出ていく……に頼っており、身体が大きくなるとこの効率が悪くなる。飛翔昆虫では気嚢と呼ばれる器官が作られ、これが空気の出し入れを行う事で呼吸効率を上げているが、それでも限界はある。巨大化可能な脊椎動物の「肺に溜め込んだ酸素を血液中のヘモグロビンで取り込み、それを血液で全身に送り届ける」という仕組みとは違う。

 言うまでもなく、開放血管系と気管はどちらも優れた仕組みだ。脊椎動物の閉鎖血管系や肺よりも遥かに優れている……ただしそれは『身体が小さい』ならば、という前提での話だ。大きくなると効率が低下していき、身体能力以前にそもそも生きる事が困難になっていく。

 では、何故石炭紀の昆虫は巨大化出来たのか?

 そこで大気中の酸素濃度が重要になる。開放血管系と気管の問題は、要するに非効率故に大型化すると酸素が末端まで行き届かない事。逆に言えば、ならば巨大化を遮るものはない。酸素濃度が高くなれば組織の末端まで酸素が行き届きやすくなり、巨大化が可能となるのだ。石炭紀は植物の大繁殖により酸素濃度が高く、これが節足動物の巨大化を支えていた。

 しかしキューブ内の酸素濃度は、ヒトが生存するのに適した二十一パーセント前後で保たれている。これはヒトが生存していた時期の地球の酸素濃度と同じである。この酸素濃度をそのまま利用するのでは巨大昆虫の誕生は難しい。

 そこでウサギシジミは身体の仕組みを進化させた。

 より酸素を身体の奥まで送り届けるため、気管を更に複雑に、身体の深部まで張り巡らせたのだ。要は酸素が届けば良いのだから、この方法でもなんら問題はない。かくして巨体を手にしたウサギシジミであるが、されどこの方法には致命的な代償があった。

 脱皮難易度の増大である。気管は外皮由来の組織であるため、脱皮時に脱ぎ捨てる対象だ。もしも気管がシンプルな、一本の紐のようなものであれば、脱皮はそう難しいものではないだろう。しかし身体中に張り巡らせるために、ウサギシジミの気管は幾つにも枝分かれしていた。複雑な構造物を雑に引き抜こうとすれば、何処かが詰まったり、或いは何かに引っ掛かって千切れたりするかも知れない。そうなると古い気管が新しい気管内に残った状態となってしまう。端っこの方だったり、或いは破片が小さければなんとかなるかも知れないが……ど真ん中を塞いでしまったらお終いだ。

 気管が塞がればその先の組織に酸素が届かない。哺乳綱の呼吸・体液循環の仕組みであれば部分的に詰まっても、大きな問題は起こらないだろう。だが酸素も栄養も拡散に頼る節足動物は、部分的にでも詰まる事は致命的だ。酸素はのだから。

 ちょっとでも脱皮に失敗すれば、そのまま死に直結する。だからこそウサギシジミは念入りに脱皮の準備を行う。高難易度の技の成功確率を、少しでも上げるために。


「キュゥー……キュゥー……」


 リカナはどうにか脱皮を成功させた。しかし彼女は幸運な部類である。何しろ最後の脱皮に成功する個体は、全体の半分程度しかいないのだから。過去二回の脱皮も三回目ほど難しくはないが、他の昆虫綱と比べればかなりの難度だ。ここでもそれなりの数の脱落者が出ている。

 脱皮に成功し、蛹になる前段階の終齢幼虫まで育つのは、全体の一割ほど。殆どが成長に必須の工程で『事故死』するという状況は、ヒトからすればあまりにも生物として問題のある生き方に思えるかも知れない。

 だが、これは見方を変えれば全体の一割は高確率で生き残るとも言える。何故ならため、捕食により殺される心配はないからだ。

 結局のところ生物の存続において、個体の死に方というのは重要ではない。真に重要なのはどれだけの数が生き残り、どれだけ子孫を残せるのかの方。大部分が脱皮の失敗で死のうが、天敵による捕食やライバルとの食料争奪戦の敗北を限りなくゼロに出来、結果生き残る個体が増えるのであれば、それは『適応的』な進化と言える。

 それに、ウサギシジミ達もただ死んでいるだけではない。

 進化は今でも続いている。複雑な構造となった気管だが、それぞれの形には個体差が存在し、ある程度は遺伝子により決定付けられる。生き延びた個体は比較的脱皮が容易な構造となっている可能性が高く、死んだ個体は脱皮が難しい気管構造となっている可能性が高い。あくまでも可能性の話であるが、何代も何代も積み重ねていけば、より脱皮が容易な個体がたくさんの子孫を残す。

 リカナの身体にある気管も、複雑ではあるが比較的途中で詰まる事が少ない構造をしていた。彼女が生き延びたのは偶然ではない。ほんの僅かな改善ではあっても、必然の結果なのだ。

 そして脱皮の成功しやすさという進化の影響は、単に生存率の向上だけに留まらない。

 死亡率が下がるなら、産卵数を減らしても問題はない。より大きな卵から、より丈夫な幼虫を産み落とせる。或いは脱皮の成功率が上がるなら更なる巨大化が可能だ。

 丈夫で巨大な身体は、競争に強い。

 天敵も競争相手となる種もいないのに、どうしてもっと競争に強くなる必要があるのか? その理由は、『最大最悪』にして永遠不滅のライバルがいるからだ。

 そのライバルとは、同種である。


「……キュ」


 脱皮の疲れも癒えた頃、リカナはふと後ろを振り返る。

 のしのしとした歩みでリカナに近付いてきていたのは、ウサギシジミの幼虫だった。

 しかしあまりにも大きい。リカナの一・五倍……三十センチを優に超えた体長だ。ウサギシジミの幼虫としては最大級であり、体重はリカナを二倍以上上回るだろう。


「キュゥゥー。キュキュキュー」 


 やってきたウサギシジミの幼虫は顎を動かし、甲高く、そして力強い鳴き声を発する。

 同種であるリカナはこの声を聞くや、後退りを始めた。

 現れたウサギシジミの幼虫は『威嚇』をしているのだ。此処から出ていけ、という意味を込めて。

 ウサギシジミは巨体故に大食漢だ。メガギシの葉は巨大であるが、しかしそれにしてもウサギシジミは大きい。おまけに天敵がいない彼女達の個体数は減る事がないため、基本的には常に餌の供給量を上回る。つまり餌は常に足りないのだ。

 そこでウサギシジミは同種の姿を見ると、追い払おうとする。多種には問答無用で攻撃を仕掛けるが、同種にはまず威嚇だ。仲間意識があるので穏便に……という訳ではなく、自身と同等の体躯を持つウサギシジミの幼虫は、迂闊に戦えば致命的な怪我を負いかねない危険な相手だから。可能な限り戦闘を避け、その上で追い払いたいのだ。

 威嚇されたリカナとしても、自分よりずっと巨大な相手との戦いは御免だ。リカナは身を翻し、メガギシの葉から落ちるように離脱する。


「キュー……」


 住処を追われる格好となったが、これも仕方ない事。相手の大きさを考えれば戦ったところで良くて相討ち、高確率で自分だけが無残に殺されていただろう。命が助かっただけでも良しとすべきだ。

 それに、もう二度とメガギシの葉に戻れない訳ではない。

 追い払われたなら、新天地を目指せば良い。幸いにしてメガギシはそこら中に生えている。もしも先客のウサギシジミがいたとしても、それが自分より小さいならば。大きな身体を使えば容易い事なのだ。

 天敵対策として使われていたものは、今では同種に向けられる。全ては自分が、その血族が栄えるために。これからの彼女達は、同種同士での生存競争を繰り広げるのだ。それが自分の遺伝子を残す上で最適の行いなのだから。

 ただし、これからがまだあればの話だが――――

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る