ウサギシジミ3

 孵化から十日が過ぎた頃。再びリカナの姿を見てみよう。

 葉の上でじっとしている彼女の今の体長は、倍の十センチまで肥大化していた。体型の比率は変化していないため、体重は八倍(体積の計算だ。辺の長さが倍になれば体積は八倍になる)ほどだと分かる。実際には生まれた時よりも身体は密度を増しており、見た目よりもずっと重くなっていた。

 成長は順調なようだ。しかしながら、今のリカナは少し様子がおかしい。


「……………」


 動かず、その場でじっとしているのだ。それだけなら食後の休憩などでもあり得るが、動かない時間がかれこれ丸二日となれば話は別である。そしてこの二日間、リカナは全く餌を食べていない。

 更に、よく観察してみれば……身体の先頭にある甲殻質の頭が。より正確に言うなら、頭の付け根がぶっくりと膨れ上がっているのだ。さながら、そこに巨大な腫瘍でも出来ているかのように。

 リカナの身に何か異変が起きているのか?

 その通りだ。とはいえ必ずしも悪い意味ではない。この異変は彼女達が成長するのに欠かせない、大事な成長過程の一つ。

 節足動物の外皮は非常に頑強だ。鱗翅目の幼体などは、確かに成体の身体と比べれば柔らかなものだが、その皮は成長する事がない。限界まで伸びてしまえば、もうそれ以上身体を大きくする事は出来ない。故に幼虫時代は古い皮を脱ぎ捨て、より大きな新しい『皮』へと更新する必要がある。

 その更新過程が所謂脱皮だ。これなくして昆虫の成長はない。


「……キュー」


 リカナは小さな声で鳴くや、身体の前方を更に大きく膨らませた。身体中の体液を集めたのだ。その膨らみにより頭の付け根部分の皮が破ける。

 されどそこから体液が噴き出す事はない。代わりに出てきたのは、新しい頭。まだ固まりきっていない、古い頭部よりも一回り大きな頭が露出した。

 頭に続いて身体も出てきて、その次に節足状をした六本の胸脚が現れる。胸脚は葉の上に敷かれた糸(脱皮前に念入りに周囲に糸を張り巡らせている)を掴み、身体を前に進ませる手助けを行う。

 そのまま身体の後ろ部分も出てきて、お尻を振るように抜け殻を腹部末端から外す。身体に脱皮前の殻などは残っておらず、綺麗で柔らかな姿を見せる。

 リカナは無事、脱皮に成功したのだ。


「キュー……」


 脱皮を終えたリカナは、大きな息を吐く。尤も鱗翅目幼虫の呼吸器官は身体側面にある気門という『穴』で行うので、聞こえてくる鳴き声とは無関係なものだが。

 脱皮には大きなエネルギーを使う。加えて脱皮直後の身体は、何時も以上に柔らかで脆弱だ。体液を巡らせ、急いで固まらせなければならない。体力の消耗が激しく、脱皮直後は身体を休めねばならないのである。

 しかし、野生の世界はこの脆弱な瞬間を見逃してはくれない。


「キキチ、キキチチチ……」


 関節を軋ませるような音と共に、現れたのは八本足の節足動物。角張った身体を持ち、背中には五つの丸い模様がある。巨大な単眼が八つ存在し、大きな牙のような『顎』を持っていた。

 それはイツツボシハエトリだった。イツツボシハエトリはクモの一種であり、ハエトリグモの一種を祖先に持つ。

 ハエトリグモは生態系の調整役としてキューブに導入された動物だ。草食動物であるベニシジミだけでは、大量発生して食草を食い尽くす恐れがある。そのため個体数抑制を行う捕食者が必要だった。ハエトリグモは小さな生物でヒトに危害を加える事もなく、巣を作らないため景観を破壊する事もない。そうした理由から導入された。

 イツツボシハエトリも祖先と同じく、小さな虫を襲う捕食者である。身体は小さいが、例え自分と同じぐらいの大きさの生物でも容赦なく襲い掛かる凶暴性を持つ。また鱗翅目の幼体を好んで襲う習性があり、食物の八割がイモムシという偏食ぶりだ。

 鱗翅目の幼体にとって極めて危険な天敵と言えよう。

 ただし、ウサギシジミ以外にとっては、という前置きは必要だが。


「キュ。キュー」


 イツツボシハエトリの気配を感じ取り、リカナはくるりと振り返る。イツツボシハエトリはリカナのすぐ側まで来ていたが、襲い掛かる素振りもない。

 何しろ、イツツボシハエトリは体長一センチしかないのだから。

 生まれた時点で五センチ、成長した今や十センチにもなったリカナの敵ではない。リカナが頭を向けると、襲われると思ったのかイツツボシハエトリは跳んで逃げる。リカナは再び身体を伸ばし、脱皮の疲れを癒やした。

 巨大な身体はライバルだけでなく、天敵に対しても有効だ。捕食者達とて殺戮や戦いを楽しむために生き物を殺しているのではなく、生きるために狩りをしている。自分を殺す可能性がある種に挑むのは、余程切羽詰まった時だけだ。平時であれば、自分よりも大きな相手に挑むような無謀はまずやらない。

 つまり、大きくなれば敵は勝手に逃げていくという事。

 ウサギシジミがこれほど大きくなった、その『過程』は様々な生物進化の中でも極めて単純なものだ。事故によりキューブが宇宙空間を漂い、ヒトの制御を失った二十万年間……中に暮らしていた生物達は生存競争を繰り広げた。喰う喰われる、餌の奪い合い――――そうした戦いを勝ち抜く上で、有利なのは身体が大きいものである。

 身体が大きいほど生き残りやすくなり、多くの子孫を残す。生まれた子孫は様々な形質を持っているが、親が大きいのだから大抵の個体は大きくなるだろう。その大きな子供の中でも競争が起これば、もっと大きなものが生き延びる。これを繰り返し、やがて何者も寄せ付けないほどの大きさを手に入れた……お手本のような進化の流れだ。

 しかし何故、ウサギシジミは巨大化出来たのか?

 利点がある事はこれまでに幾つも述べた通り。ライバルは蹴散らせるし、天敵も怖くない。進化した理由も単純なもの。しかしただ利点があるだのメカニズムが単純だのというだけで生物が進化するのなら、地球にもウサギシジミのような巨大鱗翅目幼虫がいてもおかしくない事になる。どうして多様な環境を持つ地球でウサギシジミは生まれず、閉じた世界であるキューブには誕生したのか。

 それは生物進化のもう一つの要素、『ニッチ』が関係している。

 生物は種によって様々な生き方をしているもので、基本的に同じ地域の中で同じ生き方をしている種はいない。生物に詳しくないヒトならここで「ライオンとチーターは同じ肉食獣だけど、サバンナで一緒に暮らしているじゃないか」と言うだろうか。確かにこの二つの種は同じ地域に暮らし、共に生きた動物を襲う肉食動物だが……実は狙う獲物がやや異なる。チーターが狙う獲物である鳥類やノウサギはライオンからすると小さくて動きが速過ぎるし、ライオンが襲う獲物であるヌーやスイギュウはチーターには大きくて強過ぎるからだ。だからどちらかが相手の獲物を完全に奪ってしまう事はない。

 このように生物種ごとの生き方の違いを生態的地位……ニッチと呼ぶ。ライオンとチーターは獲物の大きさが違ったが、例えば狩りを行う時間帯の違い、狩り場の環境(水場か陸地か)、はたまた季節の違いなども全てニッチだ。このニッチの違いがあるために、様々な生物種が一つの環境で生息出来る。

 ただしそれを聞いて、自然界には共生の精神が、等と語るのは大きな誤りだが。

 同じニッチの種がいないのは、ニッチが重なる種同士は争い、滅ぼしあった結果だ。争いといってもヒト同士が行う戦争的なものではない。生存競争とは端的に言えばヒトが考案した遊びである『椅子取りゲーム』であり、より多くの椅子資源を確保するための争いだ。資源には限りがあるため、その環境に存在出来る生物数も限られている。故に『より多くの椅子』を確保出来る種が現れると、やがて全ての椅子をその種が独占。同じ椅子に座ろうとする他種を駆逐してしまう。ニッチの違いは、座る椅子の違いと認識すると良い。そもそも椅子が違えば奪い合いは起きないのである。

 話をウサギシジミに戻そう。

 ウサギシジミのニッチは、『中型草食生物』だ。地球ではその地位はウサギやネズミなどが専有しており、ウサギシジミ(正確にはウサギシジミと同じような性質の生物)が地球で生きていくにはこれらの生き物達との生存競争を行わなければならない。しかしウサギもネズミも、ウサギシジミより俊敏だ。節足動物の呼吸器系は大型化に向いていないため、エネルギー消費が激しい筋肉もあまり持てない。唯一勝っているものがあるとすれば代謝の低さぐらいなもの。

 そして一番の理由は、ウサギやネズミの天敵である動物(キツネなど)がここまで大きくなった昆虫を見逃さない事だ。運動能力に劣る巨大昆虫に、肉食獣から逃げる事は出来ないだろう。いくらたくさん卵を産もうと、簡単に取り尽くされる。これでウサギやネズミがいなければ、天敵達はウサギシジミだけを食べるしかない。獲物が減れば天敵達も減らざるを得なくなり、滅ぼされる事はまずないが……ウサギやネズミがいればそれらを食べれば良くなる。ウサギシジミが絶滅しても、捕食者達は一向に困らない。あっさりと食い尽くされてしまう。

 昆虫が大型化してウサギなどに打ち勝つのは、ほぼ不可能だと分かる。

 しかしキューブ内の環境はどうか? 人工環境であるキューブ内にはウサギもネズミもいない。ウサギは愛玩用すら移入されず、病気を媒介する恐れのあるネズミは徹底的に排除されたからだ。挙句天敵となり得るキツネのような大型哺乳類もいない。

 さながらそれは、人工的に作られた孤島。

 空白のニッチがあれば生物はそこに進出するものだ。何故ならそこは競争がなく、生き残りやすいからである。巨大化を阻むものがなければ、大型動物の地位に入り込む昆虫が現れてもおかしくない事は、哺乳綱や爬虫綱などの強力な捕食者が誕生していなかった石炭紀の地球で、巨大な節足動物が闊歩していた事からも明らかだ。

 ライバルなし。天敵なし。

 地球ではすっかり失われた環境だからこそ、ウサギシジミという新たな生物の形が現れたのである。


「……キュキュー」


 脱皮後二時間三十分。リカナは身体を伸ばすように動かす。

 身体が巨大になった事で、脱皮後の身体が固まるのにも時間が掛かるようになった。しかし大きくなった身体であれば、天敵に襲われる心配はない。ゆっくり身体を固め、ゆっくりと成長すれば良い。


「キュー。キュー」


 リカナもゆったりとした動きで、自分が足場にしている葉を食べに向かった。警戒も何もしない。傍をイツツボシハエトリが通ろうと気にも留めない。自分の行動を阻むモノなど、何もいないのだから。

 大きくなる。

 その利点をウサギシジミは存分に活用していた。天敵もライバルもいない生活は、ある意味文明で自然を征服しようとしたヒトのように安心で優雅なものに見えるかも知れない。

 だが、事はそう単純ではない。

 ヒトが文明を維持するために環境破壊を繰り返し、自らの生存を危うくしていったように。天敵もライバルもいないほど巨大な身体へと進化した彼女達は、重い代償を強いられていた。

 そう、よく考えれば分かるだろう。ウサギシジミが巨大な身体に進化したのだから、ハエトリグモやライバル達は。巨大化を阻む哺乳綱も捕食者もおらず、とても大きな獲物もいるというのに。

 他の種は、巨大化の代償を支払えるような進化を起こさなかった。いや、起こせなかったと言う方が正しいか。進化とはランダムな変異であり、条件を揃えれば必ず同じ形質が得られるというものではない。巨大化も、ただ身体が大きくなるというだけの変化では生きていく事は不可能。巨大化を支える『仕組み』も必要である。

 ウサギシジミの祖先だけが、その仕組みを備える進化を起こした。そして進化の代償は、彼女達が大きく育った時に表に出てくる。

 リカナもまた、代償から逃れる事は出来なかった。

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