ウサギシジミ2

 キューブ内には、人間以外にも幾つかの生物が持ち込まれた。

 例えば食用に用いられる野菜や穀物、それと家畜類や香辛料。これらは人間が食べるために育てられていた。キューブ建造が可能なテクノロジーを用いれば空気から食べ物を合成する事も可能だが、これには莫大なエネルギー消費や放熱などの問題が付き纏う。何百年と稼働させ続けた場合の影響も未知数だ。よって色々研究し尽くした自然な食べ物を使う方が、安全かつ効率的だった。

 そして食べる以外の目的で導入された生物も少なくない。

 一つはペット用。ネコやイヌが愛玩動物として飼育されていた。または娯楽用。人工的に作り出された池に、コイなどの魚が飼われていた。釣りなどの遊びをするためだ。釣った魚は食べる事も出来、住民のストレス軽減を担っていた。また生態系の循環がある事で、水質を低コストで維持出来るというメリットもある。

 そして観賞用。

 キューブは全てがヒトの手により作り出された。本質的には金属の塊であり、そこに自然は存在しない。完璧に管理する事が可能な環境であり、気温も湿度も快適な水準でコントロール可能なのだが……ヒトというのは際限なく様々なものを求める生物。機械に支配された世界の中では自然が恋しくなる。

 そこで自然環境を模した、公園区画が用意された。そしてそこに何種かの生物を放ち、自然を感じられるようにしたのである。とはいえ放たれる生物は厳正に選別された。

 まず、無害である事が最重要視されている。ヒトに危害を加えるような生物をわざわざ導入するなど自傷行為同然なのだから当然だ。

 もう一つの条件として、農畜産業に被害を与えない事が考慮された。閉鎖空間故にキューブ内の生産能力の限界は高くない。貴重な食物を食い荒らされてはヒトの生存に関わる。キューブを建造するほどのテクノロジーを用いれば病害虫管理など容易いものだが、わざわざ不安要素を招き入れる必要はないだろう。

 そして最後に、世代交代が容易である事。閉鎖空間内で世代が交代出来ない、ヒトが生活する空間で生息出来ない生物を導入しても、一世代で終わってしまう。これでは自然環境を楽しめるのは、ごく短い間だけだ。人の手助けがなくとも、勝手に世代が続く種が好ましい。

 これら様々な条件を満たした生物だけがキューブに導入された。ギシギシという植物と、それを食べるベニシジミも、その条件を満たした生物の一つである。

 ……かくして二百年以上ヒトの欲求を満たしてきた彼等は、キューブの分離事故によって自由を手に入れた。最早ヒトの管理は行き届かず、植物は自由に生え、虫はそれを自由に食べていく。二十万年の月日を掛けて生き物達は環境に適応し、そして進化していった。

 ウサギシジミもそうした進化の過程で生まれた種だ。


「……キュゥー」


 キューブ内に広がる、巨大植物の森の中。一匹のウサギシジミが卵から生まれようとしていた。卵の中で鳴き声(厳密には顎を動かした音だ。昆虫である彼女達に声帯はない)を上げ、もぞもぞと身体を動かす。

 卵の直径は約五センチ。昆虫綱の卵としてはかなり巨大なものである。形は球形をしており、分厚い殻で覆われていた。表面には艶があり、凹凸は殆どない。

 この卵があるのは、とある巨大植物の根元。植物は長さ三メートルにもなる巨大な葉を、根元付近から幾つも生やしている。葉の数は十枚ほど。茎は存在するが自重で地面に埋もれており、また極めて短いため地上からは観察出来ない。大きな葉はまるで地面から直接生えているように見えるだろう。周囲には同じ種類の植物が幾つも生え、この地域一帯をちょっとした森のようにしていた。

 植物の名はメガギシという。ベニシジミの食草として導入されたギシギシが、キューブ内で進化して生まれた種だ。ヒトが持ち込んだギシギシは葉の長さが十~二十センチほどの種だが、二十万年の間繰り広げられた生存競争によりここまで大型化したのである。

 ウサギシジミはこのメガギシを餌にしている。卵が根本に産み付けられていたのは、生まれた幼虫がすぐ食べ物にありつけるようにという工夫だ。


「キュー、キュー」


 身体が出来上がり、孵化の時を迎えた幼体は自らの力でその殻を破る。大きな卵だけに殻も分厚く、小さな幼体の力では破るのも一苦労だ。幼体は少しずつ殻を齧り、穴を大きくしてから這い出す。

 出てきた身体は、長さ五センチほど。卵の中で丸めていた身体はずんぐりとした体躯をしており、一センチほどしかない頭より三倍は幅広な恰幅だ。表面には産毛のように細くしなやかな毛が数多く生え、ふわふわとした見た目を形作っている。体色は全体的に薄い黄緑をしているが、身体の中心を一本の赤い線が通っていた。

 孵化は無事に終わり、ウサギシジミの幼虫……生殖器は未発達だが雌個体だ。この個体をリカナと呼ぼう……は殻の外で休む。休憩時間は五分ほど。身体を休めたら、リカナは自分が入っていた卵の方へと振り返った。


「キュ、キュ。キュキュ、キュ」


 そして卵の殻を食べ始める。

 殻を食べる理由は主に二つ。一つは殻に含まれているカルシウム分などの微量元素を補給するため。二つ目の理由は、天敵達から自分の存在を隠すためだ。どちらも必ずしも必要とは限らないが、やっておくに越した事はない。

 尤も、後半の目的については、ほぼ形骸化しているのだが。


「キュー、キュキュー。キュー」


 リカナは卵を食べ終えると、早速とばかりにメガギシの下へと歩み寄る。

 メガギシの葉に乗ると、リカナは口(正確には下唇部分。昆虫の口器は上唇・大顎・小顎・下唇から出来ている)から粘着質の糸を吐き出す。糸をメガギシの葉に塗りたくった後、そこに六本の脚 ― これを胸脚と呼ぶ ― を引っ掛ける。こうしてつるつるとした葉の表面から落ちないよう、身体を固定しているのだ。

 糸を掴むのは六本の節足だけではない。下半身側にある肉質の脚……腹脚と呼ばれる肉質突起の先にも小さな『爪』があり、これを糸に引っ掛ける。腹脚はあくまでも身体の一部が盛り上がって出来た肉の突起で、厳密には足ではない。しかし大きさと力強さは本物の足である胸脚よりも上だ。がっちりと糸を掴み、転落を防ぐ。


「キュ、キュ、キュ」


 糸と自分の力を使い、葉の上を歩くリカナ。彼女の目指す場所は自分が登っている葉の、縁部分である。

 縁に辿り着いたリカナは、早速葉に齧り付く。

 ウサギシジミの幼虫の頭部構造は、祖先であるシジミチョウ、ひいては一般的な鱗翅目と大きな違いはない。発達した大顎を持ち、これで葉を噛み切る。ヒトなどの哺乳綱が持つ顎と違い、咀嚼は行わない。飲み込めるサイズに切り分けるだけだ。

 噛んだ葉は胃に送られて分解。腸で吸収された後、絞りカスが糞として出される。ただし咀嚼していない、ほぼ丸呑みの葉は極めて頑丈だ。消化液を浴びても早々溶けず、また腸も一直線で短いため栄養の吸収量も多くない。あまり消化出来ておらず、糞を観察してみれば、歯型の残った黄ばんだ葉が確認出来るだろう。

 しかし消化効率の悪さは、量で解決可能だ。特に身体が小さいうちは、食べ物なんていくらでもある。


「パリ。パリ、パリ。パリ、パリ」


 一度食べ始めれば長さ三十センチの葉をどんどん小さくしていく。リカナの食欲は留まる事を知らない。葉の三分の一ほどをあっという間に平らげてしまった。

 メガギシも決して『無抵抗』という訳ではない。メガギシの葉は非常に分厚く、特に表面の組織は極めて頑丈だ。ヒトの力であれば簡単に折れるが、折った際にパキッという軽快な音が鳴るだろう。この純粋な硬さはあまり強い力を出せない、小さな昆虫などにとっては非常に厄介な守りである。

 しかしウサギシジミは生まれた時から体長五センチもある『大型動物』。メガギシの葉であろうとも、発達した大顎で噛み砕く事が可能だ。

 地球では、一般的に五センチもあれば昆虫としてはかなり巨大な部類である。ウサギシジミが生まれた時点でここまで大きいのは、頑丈なメガギシの葉を食べるため……というのが理由の一つとして挙げられよう。

 他にも、巨大な身体には便利な点がある。


「パリ、パリ……キュー」


 リカナは不意に食事を止めると、辺りを見渡すように頭を動かす。

 ウサギシジミの幼体の頭部には六つの単眼が存在する。祖先であるシジミチョウの幼体は大して目など見えていなかったが、ウサギシジミの視力はあまり悪くない。ぼんやりとした輪郭程度は見えていた。

 その目で、葉の上を動く小さな影を見付ける。

 影の正体はクレナイシジミ……ウサギシジミ達と同じくベニシジミを祖先に持つ、キューブで誕生した種の幼体だ。ただしこちらは終齢幼虫(蛹になる直前の幼虫)でも体長二センチにしかならない小型種。祖先のベニシジミと比べればこちらもやや大型化しているのだが、ウサギシジミと比べれば遥かに小柄である。

 小さな親類の姿を見たリカナは、ゆっくりとした、けれども巨大な分意外と速い足取りでクレナイシジミへと接近。クレナイシジミの方はリカナに遅れて気付き、慌てたように逃げ出すが、既にリカナはすぐ傍まで来ていた。


「キューッ!」


 そしてリカナは、あろう事かクレナイシジミの身体に噛み付いたのである。

 食べるためではない。ウサギシジミは純粋な草食動物であり、肉を摂取せずとも生きていける生物なのだから。しかし頑丈なメガギシの葉を食べる事が出来る大顎は、小さな生き物の身体に傷を付けるには十分なものでもある。

 噛まれたクレナイシジミの幼体は、身体の十分の一近い大きさの傷を付けられた。傷口から大量のリンパ液(節足動物の体液)が吹き出す。身体を激しく振り回して抵抗するが、傷の大きさからして致命傷。残念ながら助からない。


「キュ、キュッ」


 そんなクレナイシジミを咥えて持ち上げると、リカナは無造作に投げ捨てた。

 致命傷を負っている事もあり、クレナイシジミの幼体はそのまま死ぬだろう。しかしリカナは気にも留めない。むしろ清々したと言わんばかりに、その場に伏せて身体を休める。

 食べる訳でもないのに命を奪う。

 ヒトからすれば残忍な行いに思えるだろうか。だが、リカナには無益な殺生を楽しむような趣味はない。そもそも『楽しみ』などという高度な感性を持てるほど、彼女達の脳は発達していないのだから。この行動にはウサギシジミの幼体にとって大きなメリットがあり、それ故に生態に組み込まれている。

 そのメリットとは『食糧の独占』。

 クレナイシジミの幼体は小さく、大きく成長したメガギシの葉を食べる事は出来ない。ならば何処を食べるかといえば、芽生えたばかりの新芽だ。どれだけ頑丈なメガギシの葉でも、これから成長する新芽は薄く柔らか。これなら身体が小さくても食べられる。

 しかし新芽は将来大きく育つ葉だ。そして身体が大きなウサギシジミは、ちっぽけな新芽を食べたところで全く足りない。硬くとも大きな葉を食べた方が効率的で、餌にも困らないのだ。

 小さなクレナイシジミはウサギシジミにとって、将来の食べ物を奪うライバル的存在と言えよう。そんな生き物を、餌ではないからという理由で見逃すのは得策か? それとも『害虫』として駆除しておく方が得だろうか?

 生態系は複雑だ。一概に邪魔モノや天敵を殺せば繁栄出来るというものではない。敵やライバルの生態が、巡り巡って自分への恩恵となる事もあるのだから。だが、少なくともウサギシジミに関して言えば、ライバルを駆除するような生態を持つ個体がより多くの子孫を残した。こうして生態として根付いている事がその証である。

 そしてライバルを排除するには、身体が大きい方が有利。巨体から繰り出す力は相手に大打撃を与え、巨体を支える皮膚は敵の強力な攻撃を防ぐ。身体の大きさは強さの証だ。


「キュー……」


 生まれた時から備わった力を存分に活かし、メガギシを独占したリカナ。

 しかし彼女達の巨体には、まだまだ役割が存在する。

 その役割を発揮する時まで、少し時間を進めるとしよう――――

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