ウサギシジミ5
リカナが孵化してから百二十五日が経った頃。彼女はメガギシの葉の上でじっとしていた。
とはいえ元の彼女の姿を探しても、彼女を見付ける事は出来ない。何故なら彼女の姿は、かつての巨大イモムシから変貌してしまったからだ。
今の彼女は、葉の上で巨大な『塊』となっていた。楕円形の盛り上がったフォルムをし、表面は硬い甲殻質で覆われている。しかし体節がなく、胸脚も腹脚もないため、動く事は出来ない。透き通った緑色は宝石のように美しいが、だからこそ生物感が薄いように感じるだろう。
よく見れば脚や翅、目のような凹凸はある。しかしあくまでも凹凸だ。それらは身体から剥がれ、動き出すような作りにはなっていない。
最早生物的な姿ですらなくなったが、間違いなくリカナそのものである。
彼女は今、蛹になっているのだ。ウサギシジミが属す鱗翅目は完全変態と呼ばれるグループに位置する。成虫と幼虫の間に蛹というステージを挟み、ここで成虫の身体へと作り変えているのだ。
蛹の中では体組織や筋肉のみならず、消化器系や神経系までも一度溶かされ、新しい身体の材料となっている。このためまだ身体の分解が始まっていないごく初期を除いて、蛹は動く事も隠れる事も出来ない。とても危険な状態で、生きる上で不便な姿に思えるだろう。
だが、実際は逆だ。身体を一度大胆に作り変える事が出来るため、幼虫と成虫の暮らし方が地続きである必要はない。幼虫は食事に専念し、成虫は繁殖に専念出来る身体を持てる。また消化器官さえも作り変えるため、食物が同じでなくても問題ない。このため成体と幼体の生息空間を分ける事が可能であり、世代間で餌や住処を巡る争いを起こさなくて済む。しかも蛹という形態は環境耐性が高く、酷暑や極寒などの悪環境を耐え抜くのにも適している。こうした様々な利点により、完全変態昆虫は地球で大繁栄を遂げる事が出来た。
ウサギシジミもこの蛹の仕組みを用い、栄養摂取に特化した幼体の身体から、繁殖に適した成体の身体へと作り変える。必要な期間は僅か二十日ほど。
リカナにとって、今日がその日だ。
「……パキ、パキ」
蛹から音が割れるような音が響く。
実際、リカナの身体は割れ始めていた。身体の先頭部分に切れ目が入る。その中から、頭部がゆるりと現れた。
丸く、大きな頭部だ。長さと幅は六センチ以上あるだろう。直径一センチにもなる大きな複眼を持ち、頭からは長さ十センチにもなる触覚が二本生えていた。鱗翅目の特徴とも言えるストロー状の口器は短く変化し、太い針のような形となっている。
後から出てきた胸部の大きさは十センチほど。厚みは七センチほどと分厚く、頑強な甲殻質で出来た身体の中には巨大な筋肉が内包されている。翅は四枚付いているが、いずれも長さ一センチ未満と小さく、飛行の役に立ちそうな代物ではない。対して六本の脚はどれも太く、巨大な身体を支えるのに適したものだ。脚先には二本の爪があり、これがメガギシの葉に突き刺さり、滑り止めとして働く。六本の脚で力を込め、蛹の中にある身体を引っ張り出す。
最後に現れた腹部の長さは二十八センチ。長さだけでなく幅も八センチと胸部よりも太く、かなりでっぷりとした印象を見るモノに与えるだろう。腹は体節構造であるが柔軟な表皮を持ち、左右に振る事が出来る。腹部の横には七対の気門が存在し、そこで呼吸を行う。出てきた腹は持ち上げられず、ずるずると葉の上を引きずっていた。
これが、ウサギシジミの全体像だ。
見た目が丸みを帯びたがっちりしたもので、また翅が飛行に適さないほど小さいのは、キューブ内環境に適応した結果だ。ヒトから考えると折角の飛行能力を失うのは間抜けに思えるかも知れない。だが、飛行には多くのエネルギーが必要であるし、身体の軽量化などの様々な形質が必要だ。特に軽量化の問題は深刻である。巨体を支えられる頑強な甲殻は重く、その自重を支える筋肉も重い。つまり巨体と飛行能力は、基本的に両立不可能なのだ。
実際には大きいもので翼長九メートルもあるプテラノドンなど、巨大飛行生物は存在する。しかしプテラノドンの場合、それだけ巨大にも拘らず体重十〜二十キロと途轍もなく軽い。骨はスカスカで歩く筋肉も少ない、見た目の割に貧弱な形態にならざるを得ない。
ましてやウサギシジミは飛んで逃げ回る必要も、餌を探して飛び回る必要もないのである。軽い身体でいるよりもどっしりと構え、脂肪をたっぷり蓄えて飢餓にも強くなった方が『強い』。より適応的な姿が、大柄で翅の退化したこの形態という訳である。
「キュピィィィーッ……キュキキッ」
無事蛹から羽化したリカナは、短い翅をパタパタと動かす。飛行能力は失ったが、翅の付け根の筋肉を動かす事で血流を促進する効果がある。
体液(昆虫の場合リンパ液と呼ぶのが正しい)の循環が良くなると、胸部の甲殻や腹部がみるみる張りを増していく。羽化したばかりの身体は非常に柔らかい。天敵はいないが、同種個体にぶつかられたら外骨格である甲殻が凹む恐れがある。そうなる前に、素早く身体を固めなければならない。
身体が完全に固まるまでに掛かる時間は、凡そ十分。
「キュピ、ピピィー」
身体が十分な硬さを得たところで、リカナはゆっくりと脚を動かして歩き始めた。
目的は食事のため。
羽化というのは成虫になる事であり、成虫とは(完全変態の種にとっては特に)繁殖を行うための段階だ。しかしながら羽化したばかりの成虫に繁殖能力がある事は、実のところあまり多くない。大抵は羽化後数日の間は生殖能力を持たず、食事を行いながら生殖器官が成熟するまで大人しくしている。
ウサギシジミの場合も同様で、羽化後五日ほどは生殖能力を持たない。しばらくは食事だけに専念するのだ。
「キュピピピ。キュピー」
その餌を探すのに役立つのが頭に生えている触角。昆虫の触角は極めて優秀なセンサーであり、大気中の僅かな分子……所謂臭いを捉えて反応を起こす。
リカナも餌の臭いを察知した。
餌に向けて進むメカニズムは単純だ。触角に臭い分子が触れたら、そっちの方に身体を向ける。右の触角に触れたら右に、左なら左に。そしてしばらく進み、また臭いが触れたらそっちに曲がる。この繰り返しだ。同時に臭い分子が触れたなら真っ直ぐ、或いはより多くの分子が触れた方へ曲がる。
こんな方法で餌の場所に辿り着けるのか? ヒトのような知的生命体は疑問に思うかも知れない。
しかしこの方法こそが、極めて効率的な探索方法である。臭いというのは空気の流れに沿ってやってくるもの。真っ直ぐに飛んでくるとは限らず、むしろ障害物などを迂回してくるものだ。「あっちから臭いを感じた」という方法では、迂回した臭いを見失う恐れがある。
臭い分子単位の濃さで方角を決めれば、その心配はいらない。昆虫綱に限らず多くの種で採用しているこの探索方法は、原始的ではあっても極めて効率的なのだ。
「キュピ。キュピ。キュピー」
さて。八分ほど右へ左へと進んだリカナだったが、やがて触角を頻繁に動かしつつも脚を止めた。
理由は触角の感じ取る臭い分子があまりに多く、進むべき方角が分からなくなったため。そしてここまで近付けば、後は視覚で判別すれば問題ない。
そこにあったのは、腐り落ちたメガギシ。
寿命を迎えた株だ。メガギシは一枚の葉が長さ四メートルにもなる巨大草本性植物だが、その寿命は僅か三年しかない。直径六センチにもなる種子を広範囲に散布した後、そのまま枯死してしまう。
枯れた後の株は高温多湿の環境のお陰で活発な、数多の微生物により速やかに分解される。巨大な葉は水分が豊富なのもあり、腐敗するとどろどろに溶けた液状と化す。
この腐敗液とでも言うべき水分が、成体となったウサギシジミの餌だ。
「キュピ、キュピピピ」
リカナは腐ったメガギシの下に歩み寄ると、そのメガギシに短い口器を突き刺す。中には雑菌が山ほど含まれた水が溜まっていて、それを吸い込んで飲み干す。
ヒトからすれば、汚水を啜るなど健康に悪いだけで、メリットなどないように感じるだろう。しかし見方を変えてみれば、その水の中には大量の微生物……タンパク質と脂質がたっぷりと含まれている。脂質はエネルギー源として有用であり、タンパク質は体内の生殖器官を成熟させるのに欠かせない。汚水とは高品質の栄養ドリンクなのである。
勿論考えなしに飲めば、ヒトが懸念するように感染症や食中毒を引き起こしかねない。しかしウサギシジミの成体は大きな胃袋を持ち、細菌達や分泌された毒素を大量の消化液で分解してしまう。
このような力技が出来るのも、彼女達が飛行能力を捨てた事が一つの要因だ。消化器官が大きければ、その分重量が増してしまう。また大きければそれだけ食べ物を大量に溜め込めるため、これまた重量が増える。
飛行するには身体が軽くなければならないため、大きな消化器官を持つのは不適応だ。地球に生息する鳥綱の多くが肉食性(昆虫食)なのは、短い消化器官でも効率的に栄養を吸収するための進化である。空を飛ばないダチョウなどはこの制限がないため、植物食でも生活上の支障はない。ウサギシジミも同様で、空を飛ばない事で消化器官を大きく出来、それ故に汚水という新しい食料を開拓出来た。
「キュゥゥー……キュピ、キュピ」
満腹になるまで汁を吸うと、リカナは腐敗したメガギシから離れる。しかしあくまでもほんの少しだけ。一メートルも動けば、その場で伏せてしまう。
開けた場所に堂々と居座るのは、ウサギシジミ達には天敵がいないから。襲われる心配がないのだから隠れる必要はない。また、メガギシ自体は豊富とはいえ、程良く腐敗した株となるとそれなりに希少である。このため食べ尽くすまでは傍に居座り、小腹が空く度にちょくちょく汁を吸うのが合理的なのだ。
そしてもう一つの目的は、繁殖相手を探すため。
「キュピ。キュゥー」
リカナが休息している時、新たなウサギシジミが現れた。
その個体はリカナと同じくウサギシジミの成体である。だが明らかな違いが三つあった。
一つは身体の大きさ。リカナは体長四十四センチであるが、この新たな個体は五十二センチもある。また胸部が二十五センチもあるにも拘らず、腹部は二十センチしかないなど、身体の部位ごとの『比率』も異なっていた。
そして一番目を引くのは、頭から二本の、前に突き出したコブ状の『突起』がある事だろう。
様々な違いがあるが、この違いを生んだ要因はただ一つ――――この個体がウサギシジミの雄だからだ。
「キュゥゥ。キュゥ、キュゥ」
現れたウサギシジミの雄は、リカナの傍に近付く。身体を擦り寄せ、媚びるように甘い声(正確には胸部の体節が軋む音)を鳴らした。
この行動は交尾を迫っているのだ。身体も擦り寄せ、交尾を促すために前脚の爪でリカナの腹部を引っ掻くように刺激する。
積極的なアピールを起こす雄だが、対してリカナは全く気乗りしない。
それはリカナがまだ性的に未熟だから、というのも理由の一つ。しかしもう一つの理由は、性別の違いだ。
ウサギシジミに限った話ではないが、雄と雌では繁殖に費やすコストに違いがある事が多い。雄が生産する精子はとても小さく、一つ作るのにほんの少しのエネルギーと資源で事足りる。対して雌が作り出す卵は大きく、小さな卵だとしても精子より一千万倍以上重たい事も珍しくない。ましてやこの卵を何百と産み、または大きく育てるなら、更に多くのコストが必要だ。更に発育期間中に重たい卵を抱えるため動きが鈍くなり生活に支障が出たり、産卵場所を探して長距離を歩き回ったりするのも『コスト』に含まれる。
この繁殖コストの大きな差が、雄と雌の意識差に繋がる。雄は精子をどんどん作れるため、兎に角たくさん交尾をした方が多くの子孫を残せるため得だ。だから雌を見付け次第、交尾を行おうとする。雌になんらかの生存上の欠陥、例えば病弱などの障害があろうと関係ない。選り好みするよりも全員と子供を作る方がたくさん子孫を残せるのだから。
しかし雌は違う。雌が残せる子孫の数は雄よりも遥かに少ない。そのため「たくさん子孫を残せばどれか生き残るだろう」という方法は使えない。量よりも質が重要であり、そのためには繁殖相手が『優れている』事がベストだ。自分が優れているかどうかは関係ない。自分の子孫を確実に残すための戦略なのだから。
つまるところ雄は求める側で、雌は選ぶ側なのである。勿論種ごとの生存戦略の違いや個体差があるので、これを『自然の摂理』等と言うのは間抜けが過ぎるというもの。ただ、基本的な傾向ではある。
ウサギシジミはこの基本に忠実だ。雌であるリカナは簡単には交尾に応じない。雄が優秀な個体である事を確認してからでなければ、どうしようもない子孫を産まされる恐れがあるのだから。では、どうやってそれを確認すれば良いのか?
簡単な話である。他の雄と比べれば良い。
餌場は、そういう観点からも理想的だ。
「……キュゥゥ」
リカナに交尾を求めていた雄は、不意にその行動を止めた。そしてゆっくりとある方向に振り返る。
そこにいたのは、一体のウサギシジミの成体。
新たな個体だ。性別は雄。互いに相手の事を認識するや、雄達はリカナから離れ、雄同士で距離を詰めていく。しばし二体は睨み合い……
「キュッ!」
「キュアッ!」
同時に、相手に頭突きを放った。
互いに頭をぶつけ合い、密着した状態で力を込め続ける。頭に生えている二本の角を噛み合わせ、力が逃げないよう相手と自分を固定している。
これは雄同士のケンカだ。雄としてはより多くの雌と交尾したい訳だが、それは他の雄も同じである。雌の数が余っているなら問題はないのだが、ウサギシジミの雌雄比率は一対一。誰かが雌を多く確保すれば、その分他の雄が交尾出来なくなる。
そのため雄達はライバルの雄を排除しようと、激しいケンカを行う。力比べを行い、より強い雄だけが子孫を残せるのだ。
このケンカを雌が止める事はない。雌からすれば雄達が自発的に「一番強い遺伝子」を選別してくれている状態だ。それに力の強い個体は、恐らく身体も大きい。幼虫時代から大きな身体でライバルや天敵を蹴散らして生きるウサギシジミにとって、大きな雄の子供というのはそれたけで『優秀』なのである。
「キュ……キュキュキュゥゥーッ!」
「キュ、キュキュッ!?」
一体の雄がもう一体の雄を押し出し、押し出された方の雄は狼狽えながら後退り。
雄達の争いは本気のぶつかり合いであるが、彼等の頭部甲殻は非常に分厚いため衝撃を受けても簡単には破損しない。また頭部の付け根には弾力のある『皮』が存在し、これが衝撃を吸収。全力は出しても、怪我をする事はまずない。
戦いにより負けた雄は、大人しく退散する。一度負けた相手に再戦しても勝てず、体力も消耗するからだ。執着するよりも、他の雌を探す方が合理的である。
「キュー……キュキュー……」
そして勝者となった雄は、雌にこれまで以上のアピールを行う。自分は強くて優秀な雄だから交尾すれば得だと……自分より強い雄が現れる前に。
しかし残念ながら、リカナはまだ未成熟の雌。どれだけ雄に求められても応えられない。また、一回勝っただけでこの雄が強いと考えるのは早計だ。最弱の個体と、最弱の次に弱い個体の戦いだったかも知れないのだから。
リカナは慌てない。
ヒトの言葉で例えれば『魔性の女』のように、必死になる雄の横でゆっくりと彼女は身体を休めるのだった。
……………
………
…
時は流れ、リカナの羽化から五日の時が流れた。
腐敗した汁をたっぷりと吸い、十分なタンパク質を得て卵巣は成熟。繁殖可能な状態となった。
そして彼女の傍には雄の成体が一体いる。五日間の間、餌場に集まってきた数多の雄の中で最後まで残った個体。つまりこの辺り一帯で最強、かどうかは分からないが、かなり強い部類の雄だと言えよう。
繁殖相手として問題ない。
「キュ、キュー」
寄り添う雄に対し、リカナは腹部を左右に振る。交尾を受け入れる合図を出した。
雄はその反応を見るや、すぐに彼女の後ろから乗り、交尾器を挿入してくる。交尾器が十分奥まで入れば、後は射精するだけ。
交尾時間は三分間。
「キュ、キュ、キュ」
迅速に交尾を終えると、雄は特段躊躇った素振りもなくその場を後にした。
雄は交尾がしたいのではなく、ましてや雌と触れ合いたい訳でもない。自分の子孫を作りたいだけであり、交尾した雌はもう興味の対象外だ。そのため次の雌を探しに行ったのである。
ヒトの言葉で言えば「捨てられた」というところかも知れないが、雌としてももう雄に用はない。リカナも餌場から離れ、子孫を残すための行動を起こす。
交尾が終わった後、卵はすぐに産卵可能な状態となる。卵巣が成熟した時には、卵はもう既に十分な栄養を充填した状態だからだ。
産める準備が整ったら、次は産卵場所探し。
多くの生物ではこの産卵場所探しに、それなりの苦労を費やす。見晴らしの良い場所に産んだら卵が食べられてしまうかも知れないし、かといって奥まった場所に産んだら湿気でカビてしまうかも知れない。食物の傍に産まなければ生まれた子が飢えてしまうが、天敵の近くに産めばあっという間に全滅だ。よく考え、調べ、産まなければならない。
されどウサギシジミの場合、これといって苦労はしない。
「キュゥー、キュ、キュ」
リカナは手近な場所にあったメガギシの下に歩み寄る。触角でその植物がメガギシだと確認したら、すぐに後ろを向いて腹部の末端をメガギシの根本近くに押し付けた
そしてぽこりと、直径五センチほどの卵を一個だけ産み落とす。
これで産卵は完了だ。まるで良い場所など探していないかのような動きだが、事実その通りである。リカナは産卵場所の吟味など全くしていない。手近な場所にあったメガギシの、手近な根本に卵を産んでいる。
このような『雑』な産み方が許されるのは、一つは彼女達に天敵と呼べるものがいないから。ウサギシジミは卵の時点でこの区画に暮らす大抵の生物よりも巨大であり、他の生物に食べられる恐れがない。故に卵を隠すような真似をせずとも、食べられてしまう心配は殆どないのだ。
また人為的に建造されたキューブ内の環境は安定しており、気候の急激な変化はまず起こらない。そのため日照りや大雨などを気にする必要はなく、適当に産んでも卵が環境変化に耐えられずに死んでしまう事もほぼない。
危険がある可能性はゼロではない。しかしほぼゼロであるなら、そこにコスト(吟味するために歩き回るエネルギーなど)を投じるより、そのコストを卵に回して大きく育てる方が適応的だ。そうした事情から、ウサギシジミの産卵は極めて雑なものへと『進化』したのである。
一つだけ気遣いがあるとすれば、産卵は一つのメガギシの株に一つだけである事。幼体達は群れると葉を独占するためにケンカを起こす。一つの株に複数の卵を産めば、兄弟姉妹で争いが起きる可能性が高い。それは流石に適応的でないので、分散産卵の形質が進化した。
ウサギシジミの雌の体内にある卵の数は、四十〜五十程度。昆虫としては比較的少ない数であり、一個一個の卵が非常に大きい。
この大きな卵を産み終えたら、リカナの身体は急速に衰弱し、速やかに死に至るだろう。役目を終えた身体は土に還り、植物の栄養となって新しい世代を育む糧となる。
ウサギシジミの命は、そうやって二十万年の間続いてきたのだ。
……ただし、これからの二十万年も続くとは限らない。
「キュ、キュー」
新たな産卵場所として、新たなメガギシの下へと向かう――――丁度その時、リカナの背後に一体の『生物』がやってきた。
体長五十五センチ。全身を茶色の羽毛で覆い、両腕は翼になっている。首は短く、頭は大きくて、身体は全体的に丸みのあるフォルムだ。太く短い足も相まって、丸々とした印象を受けるだろう。
しかし嘴は大きく発達し、獰猛な食性を窺わせていた。大きな瞳に感情はなく、ヒトであれば愛らしさよりも不気味さを感じるモノの方が多いと思われる。
この生物の名はキューブニクスズメ。
二十万年前、ヒトの手によりキューブ内へ持ち込まれた生物はベニシジミだけではない。スズメなどの鳥類も観賞用として持ち込まれ、そしてキューブの環境に適応して進化していた。
キューブ内に生息するスズメの末裔は多種多様であるが、キューブニクスズメはその中でも『捕食者』として進化した種類。基本的には自分より小さな鳥や虫を食べるのだが……弱そうな獲物ならば、体格で上回る相手にも襲い掛かる。
ウサギシジミも例外ではない。
「キィィィイヨォオオオオオッ!」
雄叫びと共にキューブニクスズメがリカナに襲い掛かる。
リカナの反応は鈍い。何が起きているのか、起きようとしているのか、彼女の本能には何も分からない。
キューブニクスズメが最初に繰り出したのは、足先にある爪を突き立てる事。ウサギシジミは胸部や頭の甲殻は頑強であるが、キューブニクスズメの爪が狙うは腹部。卵が詰まっているその部位は極めて柔らかく、防御力は殆どない。
キューブニクスズメの爪はリカナの腹を易々と引き裂き、その中身を露わにさける。
「キュゥウイイイイイッ!」
身体に走る痛覚に反応し、リカナは身体を大きく仰け反らせた。痛みの原因を取り除こうとする、本能的な動作であるが……獰猛な捕食者を蹴散らすには少々力が足りない。
キューブニクスズメは更に深く爪を肉に刺し、がっちりとリカナの身体を掴む。足場を固定すると、今度は大きく頭をもたげた。
そして嘴をリカナの頭と胸部の間に捩じ込んだ。
嘴の先がリカナの頭の『裏側』に入る。仲間同士の頭突きを受け止める柔らかなウサギシジミの皮は、しかしあくまでも内に力が伝わるのを防ぐ仕組み。外に引っ張る力には、あまり強くない。
「キュ……キュ……………キ……………」
どうにか耐えようとしても、力ですら敵わず。
リカナの頭は、あっさりと引き千切られてしまった。
全身に命令を出す脳が失われ、リカナの身体は本能的に縮まる事しか出来ない。それすらもキューブニクスズメの嘴と爪の力には敵わず、ズタズタに切り裂かれていく。
「キュゥィッ。キュィィーッ」
瀕死にまで追い込めば十分とばかりに、キューブニクスズメはリカナの身体を啄む。実際、もうリカナの身体に抵抗する力はない。後はもう食べられるだけ。
リカナの生涯はこれで終わりだ。卵は一個しか産めず、確率的に、彼女の血が後世に繋がる事はないだろう。
天敵に襲われて死ぬ。生物としては決して珍しい最期ではないが、これほどまで呆気なくリカナがやられた理由は、キューブニクスズメという存在を知らなかったからだ。知識として、だけではなく本能的にも。
何故ならキューブニクスズメはほんの四年前まで、ウサギシジミの暮らす場所にはいなかった生物なのだから。というのもウサギシジミの祖先であるベニシジミが生息していたのは公園区画……人々が憩いの場として使っていた領域である。対してキューブニクスズメの祖先であるスズメは住宅区画に生息していた。
キューブには幾つかの区画が存在しているが、公園区画と住宅区画は隔壁により区切られている。その隔壁は公園区画にとっての地面であり、住宅区画から見れば天井だ。ヒトが生活していた時は昇降機で行き来が出来たが、キューブ分離事故時の衝撃で昇降機は倒壊。その後二十万年間、二つの区画は行き来出来ない状態となっていた。これにより公園区画は孤島のように天敵のいない環境を維持出来たのである。
だが、この四年で状況が変わった。
そのきっかけは施設の老朽化。この二十万年の間、公園区画と市街区画を区切っていた隔壁の一部が壊れたのだ。住宅区画から見れば空に開いた大穴は、飛行能力を持つ生物からすれば通れる道。キューブニクスズメもその穴を通り、公園区画に進出する事が出来た。
そしてこの『外来生物』達は今、急速にその数を増やしている。ウサギシジミという、鈍くて巨大な獲物を糧にする事で。
食べられれば数は減る。たくさん食べられる事が前提の繁殖力があれば、天敵が一種増えたところで大した問題ではない。だがウサギシジミは無敵の生物として公園区画に君臨していた。大きな卵を少数産み、同種と争うために大きな身体を使う。天敵への備えは全くなく、喰うモノの出現により個体数は急速に減少していた。
今のペースで減り続ければ、ウサギシジミという種は二百年ほどで絶滅するだろう。
……悲惨な出来事、と思うだろうか。しかし外来の生物に起因する絶滅というのは、地球史上でも頻繁に起きている。例えば北アメリカ大陸と南アメリカ大陸が接合した際、北アメリカ大陸から流れ込んできた哺乳綱有胎盤類の侵入により、南アメリカ大陸にいた有袋類は大半が絶滅した。それと同じ事がキューブの中でも起きただけ。
キューブの中は楽園ではない。地球と同じように、環境に適応出来なかった種は滅びるのみ。
ウサギシジミの絶滅もまた、よくある競争の結果の一つに過ぎないのだ――――
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