4.「外の世界」

 ツンと鼻を刺す冷たい空気に、枯れ葉と土の匂いが染みこんでいる。

 空は重たい雲に覆われ、もう少しすれば雪がちらつきそうだ。

 晩秋。

 森の中。

 茂みの中で、俺は父と二人身をひそめ、息を殺してあるものを見ていた。

 鹿の親子である。

 二頭連れ立って、冬越しのために木の実や草を懸命にんでいる。


「いいか、親の方だけだ」


 ザックの耳打ちに俺は黙って頷く。

 これからしようとしていることを考えると、鼓動が早鳴り手に汗が滲んだ。

 カラカラの喉に唾を押し込む。

 深呼吸。

 意を決した俺は、地面に手を付き真言マルナを唱えた。


「《大地グラプト》《造形クリネシア》」


 真言に乗せた俺の魔力を介して、イメージが精霊に伝わる。

 願いが了承され、隆起した大地が親鹿の後ろ足を取った。

 逃げ去ろうとする親鹿だが、大地の足枷に引っ張られてその場に転んでしまう。

 子鹿だけが、茂みの中へと逃げていった。

 俺は弓に矢をつがえ、親鹿の首を狙って放った。

 しかし矢は肩甲骨の辺りに当たってしまい、その激痛に鹿が狂ったように暴れ回る。


「……気絶してもらうしかないか」


 父が静かに告げる。

 いくら足を繋いであるからとはいえ、暴れる鹿の急所を狙うのは難しい。

 この村では、獲物を長時間苦しませるのはこれから奪う命に対しての不敬であると教えられ、急所を外したら殴打などによって気絶させるよう教えられる。


「獲物に向かって矢は射かけた。

 今日お前がやらなきゃいけないところまではやれた。あとは俺がやろう」


 そう言って、父が大地に造形の真言を唱えて棍棒を作る。

 俺がこの世界に転生して七年が過ぎた。

 今日は父の指導の下、初狩りに来ている。

 鹿が冬を越すために体を太らせるように、俺達も肉を乾燥させたり食料を蓄えたりしなければならない。

 そう頭では理解していても、やはり目の前で動いている生き物を手にかけるというのは、すごく抵抗を感じる。


 でも……。


 立ち上がろうとする父を、俺は震える手で制した。


「大丈夫。……最後まで、やらせて」


「しかし……」


「僕が、あそこまでしたんだから……」


 その後の言葉は、上手く口から出なかった。

 父が俺の目を見つめて、一つ頷く。


「剣はあるな」


「うん」


「暴れるから、気を付けろよ」


「うん」


 父の言葉に頷き、俺は造形の魔法で自分の背丈と同じくらいの棍を造った。

 茂みから出て、鹿と対峙する。

 棍を構えてじりじりと近付き、鹿が飛びかかってくる度に身を竦ませて後ずさる。

 できるだけ、楽に……。

 棍を振りかぶり、振り下ろす。

 鹿はそれをするりと避けて、繋がれた足を引き千切らんばかりの勢いで突進してきた。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」


 棍でいなし、叩く度、声が漏れる。

 まるで自ら棍に向かってくるように鹿は突進を繰り返し、やがて疲弊したのか、動きが緩慢になった。


 隙――。


 そう思うや否や、俺は鹿の頭に棍を叩き込んでいた。

 無我夢中だった。

 よろめき倒れる鹿を見つめる。

 頬にはぽろぽろと零れる涙の熱い感触。

 息が、上がっている。


「飛び起きるかもしれん。しっかりと確認してから近付けよ」


 父の助言に頷き、棍で二、三度突いてから俺は鹿に近寄った。

 万が一のためだろう、父が頭と胴を押さえた。


「……ごめんなさい」


 一言だけ鹿に告げ、俺はその首に短刀を突き刺した。

 その後のことは、父に言われるがままに処理した。

 全ての処理が終わって放心している俺の肩に、父が手を置く。


「よく頑張ったな。イリスは途中でギブアップしたぞ」


「うん……」


 父の言葉に、俺は力なく返した。

 こんなふうにしてまで、肉を食べなきゃいけないんだろうか。

 棍から伝わった激しい衝撃を思い出し、俺はそんなことを考えた。


「ロア、確かにお前はこの鹿の命を奪った。

 だが、それは無駄にならない。

 お前がこいつを食べて、その血肉と精霊がお前の中に宿る。

 そうしてお前が生きた未来に、お前が命を繋ぐんだ」


 俺が思っていることを見透かして、父が説く。


「この鹿だってそうだ。

 草や木の実にだって命があり精霊が宿っている。

 それを食べてこの鹿は今日まで生きて、命を次に繋いだ。

 そしてお前も、俺も、この鹿も、最終的には土や風、水に還る。

 それらがまた新しい命を育む。そうやって、命と精霊は巡るんだ」


 父の言葉に俺は呆然と頷いた。

 俺はそれを既に体感している。

 あの汚れた六畳間で死んだ俺は、精霊となって世界のあちこちに散らばるはずだった。

 だけど何かが起きて、意識という比較的大きな塊が残ったまま俺は風を、土を、水を、様々な命をめぐり、クロエのお腹に宿った。

 その結果が、前世の記憶を持っての転生なのだろう。


「いいか、ロア。精霊の前で、命に大きいも小さいもない。同じ一つの命だ。

 だから魔法で殺生はできないし、植物や動物に魔法をかけることもできない。

 でも俺達は、命を食べて生きなきゃならん。命を次に繋げるために。

 俺達が生まれるまでに死んでいった命を活かすために。

 俺も母さんも、七歳の初狩りでこれを教わって、今こうしてお前達を育ててる。

 分かるな」


「うん」


 俺が頷くと、父がパンと背中を叩き、


「でっかくならんとな。親鹿こいつのためにも」


 俺に手を差し出して、ニッと笑った。


「……うん」


 父につられながら俺も笑い、手を掴んだ。 


 そうだ。

 前世でも本来こうやって命を糧にして俺は生きてきたはずなんだ。

 前世で目の当たりにしなくて済んだことを、今世で見てるだけ。

 これが「生きる」ってことなんだ。

 いつまでもめそめそしてられない。

 父の力を借りて立ち上がった。


 刹那――。


 ピイィーーーーー……ッ!


 甲高い笛の音が鳴った。

 緊急を告げる笛の音だ。

 鳴らしたのはおそらく、別の場所で狩りをしているクロエとイリス。

 それを聞いた瞬間、ザックは弾かれたように走り出した。

 俺も慌ててその後を追う。

 広大な森の中を、ザックは迷わず進んでいく。

 いくら慣れた森だからって、笛の鳴った位置を特定するのは難しい。

 それができるのは、俺達の目に精霊が見えているからに他ならない。


 心臓が体に血液を送るように、魂が全身に魔力を送る。

 魂とは精霊の塊で、体内で流れる精霊の流れのことを魔力という。

 俺達はその魔力を感じ取ることができ、訓練によってその範囲は広くなっていく。

 ザックは追われた魔導師たちが村に着くまで守人をやっていた家系で、この感知の訓練を幼少の頃から受けていたのだそうだ。


 森の中を駆け抜け、二人の姿を見付けた。

 腕から血を流してうずくまっているイリスを、母クロエが庇うように抱きかかえている。

 そして二人が見据える先には――血の滴る蛮刀を握る何者かの姿。


「《ゾオン》《変移トラズ》《増加インカラス》!」


 俺は咄嗟に力の真言で、足下で働く引力を斥力に変換した。

 弾かれた体が凄まじいスピードで前進する。


「母さんとイリスから離れろぉ!」


 蛮刀使いに俺は棍を振り下ろした。

 蛮刀使いは俺を振り向くことなく、反射で剣を振るって俺の棍を止めた。

 弾いてから俺の姿を視認し、敵意のない驚いた表情を見せる。

 直後にザックの棍棒と短剣が蛮刀使いを襲った。

 蛮刀使いはそれも最小限の動きで受け流し、ザックと数度打ち合って鍔迫り合う。


「違う! 違うのよ、あなた!」


 クロエの懸命な叫びに、ザックが「え?」と振り返る。


「その人は、私達をゴブリンから助けてくれたの!」


 続いてイリスが叫ぶ。

 よく見れば、彼の後ろに緑色の何かが転がっていた。

 三頭身くらいの人型生物の死体が四つ。

 これがゴブリンというヤツなのだろうか。

 母と姉の言葉にザックが確認の視線を送ると、蛮刀使いは苦笑いしながら頷いた。


「や、これはこれは……恩人に、とんだ無礼を……」


「あぁ、いえ。この状況では仕方ないですよ」


 武器をしまって陳謝する父に、蛮刀使いも丁寧に返す。


「それよりお嬢さんを。ゴブリンに斬り付けられたようです」


 蛮刀使いに促され、俺と父はイリスに駆け寄った。

 既に母が自分の魔力を送り込んでいたが、三人でやった方が早いし負担も少ない。

 世界を巡る精霊が万物を創るように、生物に宿っている魔力がその血肉を創る。

 自分の魔力を送ることで相手の自然治癒能力を一時的に高めて傷や病を癒やす。

 それがこの世界のいわゆる回復魔法というやつだ。

 魔力が尽きてしまえばこちらも死んでしまうので、文字通り命を分け与える行為である。


「驚いた。あなた方は魔導師なんですか?」


 蛮刀使いの言葉に、俺達はハッとした。

 外の人間から見たら、魔導師は……。


「私もそうなんです。いやぁ、こんな所でお会いするなんて……」


 そう言うと、蛮刀使いは風の真言を唱え、近くの枯葉を舞わせてから名乗った。


「私の名前はクロード。行商人をしながら、魔導師と世界を繋ぐ旅をしています」


◆◇◆

 

 俺達はクロードを家に歓待した。

 さすが行商人だけあって、彼はこの世界の様々なことを知っていた。

 俺達が住むこの村は、エルマス山脈というナーザ大陸の南北を分断するように位置した山脈の中にあることが分かった。

 この山脈の北は平野や盆地が広がり、そこに大小二十~三十の人間の国が点在するらしい。

 その西にはゾアス山脈という険しい岩山があり、それを越えると砂漠地帯が広がっている。

 エルマス山脈から南側もしばらく渓谷や岩山が続き、基本的には人間以外の種族がそれぞれの領域の中で暮らしているのだそうだ。

 そこを越えると、人間の国がまた点在する。

 クロードの話を聞いて、俺が抱いていた世界の謎が一つ一つ、結び目をほどくように解消されていった。

 イリスは「ベタ山はベタ山でしょ」と口を尖らせていたが、俺は地図に記された地域のことを事細かに訊ねた。


 クロードの話は地理から世界情勢へと移った。

 そこで魔導師に対する差別はほとんど無いことや、ごく最近では「魔道具」という物が流通し始め、大変高価ではあるが魔導師じゃなくても魔法のような現象を起こすことができるようになったことを知った。

 その話を聞いた父と母はまるで御伽噺でも聞いているかのような面持ちで、終始呆気に取られていた。


「そして、今どの街でも持ちきりなのは、迷宮覇者ダンジョンマスター達が各地で残す武勲いさおしです」


迷宮ダンジョン……覇者マスター?」


 迷宮覇者ダンジョンマスター

 その名の通り、迷宮ダンジョンを制覇した者達の異名である。

 この世界には、極稀に空間に「穴」が開いている場所があるのだそうだ。

 その穴に指一本でも触れると、洞窟の中だったり謎の建造物の中だったり深い森の中だったり……とにかく異質な空間へと吸い込まれてしまうらしい。

 そしてその空間には、この世の者とは思えない強大で恐ろしい魔物モンスターに、知恵と勇気、時には残酷な選択を迫られる罠がひしめき合い、侵入者の命をことごとく奪うという。

 一度足を踏み入れたら最後、迷宮の番人にして「魔人」と名乗る者に認められないと決して出られない。

 迷宮の存在が初めて公になってから今日までざっと百年。

 それまで攻略できた者は誰一人としていなかったのだが、近年その迷宮を攻略する者達が現れ始めた。

 世界でたった六人しかいない彼らは迷宮覇者と呼ばれ、迷宮攻略後も各地で様々な武勲を残したり、国を興したりしている。


「魔人に認められた彼らは、人智を超えた力を手に入れる。それこそ、世界の理をひっくり返してしまうほどの力をね」


 ある者はたった一撃で戦争を終わらせる無敵の拳を持ち、またある者は全てを見通す眼を持った。

 その他にも、各人が迷宮覇者たる所以の力を魔人から授かったという。


「彼らは『勇者』とか『英雄』なんて呼ばれている。

 彼らが残した冒険や戦いの物語が、今飛ぶように売れてるんだ。

 私も何枚か持ってたんだけど、全部売れてしまって」


「何枚……?」


 物語を綴るなら、本とかじゃないのだろうか。


「本なんて高価な物、とてもじゃないけど買えないよ」


 この世界の書記文化は動物や木の皮を加工したもので支えられているらしい。

 動物でも木でも、そういった書記に使う紙の代用品を一括してファルと呼び、最も安価な物でも十五センチ四方で平民が一週間は食べ物に困らない価格で取引される。

 そのファルに吟遊詩人や有識者から聞いたものを書き写して売られるのが書物だ。

 迷宮覇者の武勲詩を売る場合、たまたまそこに居合わせれば良いが、聞き逃しなどでもう一度同じ詩を歌ってもらうには追加料金が要る。

 吟遊詩人もバカじゃないから、ここぞとばかりにぼったくる。

 そうすると、たとえ前世の文庫本でいうところの一ページ足らずの代物でも、迷宮覇者の冒険譚というだけで高額となることがザラにあるのだそうだ。


「うぅ、異世界にまでトレカ商法が蔓延っているのか……」


 呻くように俺がこぼすと、クロードとイリスは首を傾げた。


 こうして、クロードの話に俺達は目を輝かせたり驚いたり。

 この世界に転生して、二番目に興奮した夜となった。

 彼の話を通して、俺の外への憧れは俄然大きく膨れ上がったのだった。

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