光翼のアーシャ

滝山童子

前譚 「語り部―― ロア」

1.「転生」

 閉め切ったカーテンの向こうで、蝉が暑苦しく鳴き喚いている。

 年季の入ったエアコンが、冷風を吐き出しながらときどき嘔吐えづく。

 築三十余年、大家ですらボロと罵る木造アパート。

 食べ終えたままのカップ麺、コンビニ弁当、ペットボトル。

 脱ぎ散らかした服、万年床と化した布団、使用済みのティッシュ。

 その他有象無象に埋め尽くされた、六畳一間。

 いつもと変わらない、我が家の風景である。

 ただ一点を除いて。


「俺だ……」


 眼下に横たわる男の姿を見て、俺は呻いた。

 そう、俺である。

 俺の足下で、俺が倒れ伏している。

 何を言っているのか分からないと憤慨する者もいるだろう。俺だって分からない。

 ただ厳然たる事実として、俺の足下で、俺が、赤黒い顔で白目を剥いて倒れているのだ。

 その醜態ときたら、本人でさえも目を背けたくなる有様で。

 夏休みをいいことに生やしっぱなしにした髭面は、涙やら鼻水やらで汚れ。

 無駄にデカい体を更に肥大化させた全身は脂汗まみれ。なんなら下は何十年ぶりかのお漏らしときている。

 ランニングシャツに柄パン。

 放り投げたスマホにはアダルトサイトの無料お試し動画。

 ちなみに、そんな俺を見下ろしている俺も、なぜか全裸である。

 本当に、見るにえない。

 何故なにゆえこんなことになっているのか。


「原因は……」


 そんなに時間は経っていないはずなのに、何が起きたか思い出せない。

 風に吹かれた砂が霧散していくように、記憶が新しいものから順に片っ端から消えていく。

 俺はそれを必死に掻き集め、この醜態に至る顛末を探った。


 ――数十分前、時計が午後一時半を少し過ぎた頃。


 日課である動画鑑賞をこなしていた時に、それは突然やってきた。

 ズキン、と刺すような痛みが胸に走ったかと思いきや、心臓が握り潰されるようにぎゅうっと苦しくなり、俺はスマホを放ってうずくまった。


「はっ……はっ……」


 呼吸が、ままならない。

 じっとりと脂汗が浮かぶ。


(じっと辛抱すればそのうち治まる。治まったら、医者に行こう)


 そう思ってなんとかやり過ごそうと、深呼吸を試みた。

 しかし、いくら息を整えようとしても、呼吸はヒューヒューと荒ぶるばかり。

 いつまで経っても呼吸が治まる気配はない。

 自分の呼吸と格闘することしばし。

 いよいよ限界を向かえ、まるで陸に打ち捨てられた魚のように口をパクパクさせて、俺は酸素を求めた。

 息のしかたが、分からない。

 心臓とこめかみが、ズクズクと脈打っている。


「かっ……は……あ……」


 息ができない。

 吐くことはできても、うまく吸うことができない。

 こめかみの脈動が、激しい頭痛へと変わる。


 ――死ぬ。


 漠然と、そう思った。

 このままでは、死んでしまう。

 恐怖が込み上げる。

 救急車を呼ぼうと放り出したスマホに手を伸ばした、その時――。

 

 ――ぶつん。


 後頭部と首筋のあいだ辺りで何か太いものが切れた。

 全身を稲妻のように駆け抜ける激痛に身体が仰け反り、声が漏れる。

 未だ続く激しい頭痛。じんわりと熱い何かが頭の中へと広がっていく。

 それが頭から下に降りていくにつれ、全身が痺れていって、感覚が遠退いていく。

 血が布地をゆっくりと汚すように、俺の視界が端から赤く染まっていった。


 息をしているんだかしていないんだか。

 苦しいんだか苦しくないんだか、分からない。

 意識が、遠退いていく。


「嫌……ら……」


 回らない舌で、絞り出す。


 死にたくない。

 死にたくない死にたくない死にたくない――……!


 何度も何度も、心の中で念じた。

 この三十六年の出来事が、走馬灯のように駆け巡る。

 そしてその結果、後悔ばかりが、俺の命を取り戻そうと騒ぎ出した。


 俺は、人生をしくじったのだ。

 憧れの職業に就けたまでは良かったが、ほころびに気付かず大きな失敗をした。

 それは、不運が重なっただけなのかもしれないし必然だったのかもしれない。

 どちらにせよ、俺はその失敗のせいで心を壊し、職を辞するより他なくなった。

 両親も友人も恋人も、俺がその仕事を辞めた途端によそよそしくなった。

 彼らの生暖かくて重い中途半端な優しさと、その瞳の奥にあるものに耐えきれなくなって、俺は彼らから少しずつ離れていった。

 それからは何かに打ち込むことを恐れるようになり、俺は全てを放棄することで自分の身を守った。

 再就職した会社の仕事も適当に流し、一人で暮らすにはちょうどいいだろうと、同年代の平均よりもだいぶ低い年収で妥協して。

 異性と付き合っても深いところには踏み込まず。

 死んだ魚のような目で世間を見つめ、努力する者を嘲笑い。

 休日はこの部屋の中で何をするでもなく過ごし、燻る思いに身を任せ、根拠のない夢想に酔い痴れた。


 そのうち俺にも、またチャンスが巡ってくるだろう。

 そのうち出世して懐にも余裕が生まれて、温かい家族もできて、気まずかった両親に孫の顔を見せたりして……。


 ――そのうち俺にも、またチャンスが巡ってくるだろう。


 いつくるかも分からない「そのうち」を、ただ口を開けて待っていた。


 俺は、馬鹿だ。

 とんでもない大馬鹿だ。

 今まで生きてきた中で、どんなに持ち続けるのが辛くても、手放してはいけないものがいくつもあった。

 それを捨てた結果がこのザマだ。

 汚い六畳一間の中で、ただ独り寂しく死んでいく。

 そんな結果が迫ったとたん、後悔がどっと押し寄せてきた。


 視界が赤く染まるに連れ、痛みと苦しみが消えていく。

 そうして全てが赤く染まりきった頃、全身の痺れも、体の重さも、消えた。

 すぅっと全身が浮かび上がっていくような浮遊感に包まれて――。


 ――今に至る。


「……おいおいおいおい!」


 これは間違いない。

 俺は死んだんだ。

 そりゃそうだ、死ぬほど苦しかったもん。

 じゃなくて!


「何か……何か手はないのか⁉」


 ない知恵を総動員して必死に考えた。

 もし今の俺が霊体ってやつなら、肉体の中に潜り込めば生き返るんじゃないか?

 もはやそんな漫画みたいな考えしか浮かばない。


 そう考えている間にも、記憶がどんどんこぼれ落ちていく。

 それだけじゃない。なんだか景色が薄くなっていってるような……とにかくタイムリミットが迫っている気がする。


「くそっ!」


 破れかぶれに俺は自分の身体に飛び込んだ。

 しかし、俺の霊体は肉体と重なるだけで、中に戻ることができない。


「くそ、諦めるか!」


 もう一度飛び込む。

 もう一度、もう一度、もう一度……。

 何度やっても肉体に戻ることができず、全てが真っ暗になり……。


 三十六歳の夏。

 荒れ果てた六畳一間で。

 俺は死んだ。


 ◆◇◆


 記憶がこぼれ落ちていく。

 

 何も見えない。

 何も聞こえない。

 匂いもしない。


 まるで砂時計の砂が落ちていくように、感情がこぼれ落ちていく。


 ぽつり、ぽつりと。


 どこからともなく、蛍のように飛んできた金色こんじきの粒。

 それを呆然と眺めていると、俺自身もぽろぽろと崩れていることに気付いた。

 一粒一粒、俺から俺が離れていく。


 思考がおぼつかなくなるような。

 深い眠りに落ちていくような。


 まるで天の川のように粒子が集まり、光の奔流となってどこかへ流れていく。

 ところどころで別の奔流が加わり、その流れは雄々しくそびえ立つ黄金の大樹のようにも見えた。

 その流れに身を投じたい。

 全てを委ねてしまいたい。

 強い郷愁のような想いが、空ろな俺の心に湧き上がった。

 一方で、この流れに身を投じてしまったが最後、自分が消えてしまうという確信。

 しかし、この流れの中には加わらなければならない。

 そうするしかないのだと、何かが俺を急き立てる。


 ……流れに加わりつつ、自分を捨てない方法はないだろうか。


 未練という傷跡が、俺にそんなことを呆然と考えさせた。

 反発し抗うためには、意志と感情が要る。

 それらが薄れていく中で、意識を保つ方法は……。


 ……数でも、かぞえてみるか。


 それで消えてしまうなら、俺もそこまでだったということだ。

 半ば投げやりにそう考えた頃には、既に人の形を保っておらず。

 金色の光粒になった俺は、他の粒と同じように、大いなる流れに加わった。


 1、2、3、4…………991、992、993…………。


 感情が消えたからか、飽きることなくかぞえられる。


 3153万5991、3153万5992、3153万5993…………。


 どうして俺は、数をかぞえているんだっけ。

 まぁいいや。

 続けられるうちは続けよう。


 1億2902、1億2903、1億2904…………。

 1兆2392億209万4652、1兆2392億209万4563…………。


 9999兆9999億9999万9999まで数え。

 その次がなんというか思い出せず。

 

 俺は、かぞえるのをやめた。

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