2.「精霊」

 気が付くと、一度途切れた意識がぼんやりと蘇った。

 梁の剥き出しになった薄暗い天井。

 周りを囲む木製の柵。

 背中にはゴワゴワとした布団のような感触。

 状況が飲み込めず辺りに視線を配ると、二十代前半くらいだろうか、ゆるいウェーブがかかった黒髪の女性が柵の上から顔を出し、微笑みながらこちらを覗き込んだ。

 ターコイズブルーの瞳が青空のように美しくて、吸い込まれそうだ。


「いぇる~、へばぐすれ、ろあ~」


 まるで赤ん坊をあやすような抑揚で女性が話しかけてきた。

 俺が反応に困っていると、女性は白くきめ細かな両腕をこちらに向かって伸ばした。

 一方を俺の後頭部に、もう一方を腰下に滑り込ませ――俺を抱き上げようとしている?


あぅああんたあうあだ正気か?」


 ……思うように喋れない?


 なんていうか、口が思うように回らない。

 それに、声がまるで小さな子どものように甲高い。

 まぁ喋れたところで、この女性ひとに俺の言葉が通じるかは分からないが。

 などと思っているうちに、俺の体が持ち上がる。


ちょ……」


 これ以上は冗談じゃ済まない。

 ケガをさせる前に止めようと女性に手を伸ばしたその時、異様に気付いた。

 手が、小さいのである。

 ふっくらとして指も短く、まるで赤ん坊の手のようだ。

 俺の手はもっとゴツくて大きかった気がする。

 まじまじと自分の両手を眺めているうちに、俺は女性の胸に収まるようにして抱きかかえられた。

 おかしい。

 俺の体は、こんな華奢な女性の体に収まるほど小さかったか?


 何やら鼻歌を口遊みながら、女性はリズムに合わせて体を揺する。

 心地よくて、抗いがたい安らぎ。

 微睡まどろみが、俺の意志を挫こうとする。

 それを振り払って、俺は現状把握に努めた。

 薄暗い部屋の中は、なんていうか、アニメなんかでよく見る中世ヨーロッパの農村住宅のような佇まいだ。

 今のところ、この女性以外に人は見当たらない。

 くまなく部屋中を観察していると、その一角に鏡が立てかけてあるのを発見した。


「おっ」


 それに向かって手を伸ばすと、俺の意を汲んでくれたのか、女性は鏡の前に立ってくれた。 


 ……これ、誰? 


 そこに映し出された姿に、俺は仰天した。

 赤ん坊である。

 ダークグレイの天然パーマにターコイズブルーの瞳、雪のように白い肌。

 鏡に映し出された俺の姿は、どう見ても西洋顔の赤ん坊だ。


 そんなはずはない。

 だって俺は、俺の姿は――……。

 俺は、どんな姿をしていたんだっけ?


 鏡で自分の姿をまじまじと見ているうちに、もはや前の自分がどんな姿をしていたか思い出せなくなってきた。


「るくらまひあ、ば、えいしゃるくらばぱぷ」


 鏡越しに俺を見ながら、女性はにっこり微笑む。

 相変わらず何を言っているかは分からないが、何だか嬉しそうである。

 穏やかに微笑む彼女を見ていると、また抗いがたい安らぎが俺をふんわりと包み込んだ。


 まぁ、何にせよアレだ。


 どうやら今の俺は、かわいいかわいい赤ん坊のようだ。

 口も利けないし、体も思うように動かせない。

 とりあえず、この女性は俺に危害を加える心配もなさそうだし、もう少し時間をかけて状況把握に努めても良いんじゃないか?


 眠気が俺の思考を奪う。

 重い頭をこっくりこっくり揺らしながら。

 俺は再び眠りについた。


 ◆◇◆

 

 ギィ、と扉が開く音と微かに頬を撫でる冷たい風で目が覚めた。


「けいもーーーふ‼」


「けいもふ」


 先ほどの女性とは違う子どもの声。それに続いて少し野太い男の声が耳朶を打つ。


「いぇるば」


 これは先ほどの女性。

 察するに、先の二人の「ただいま」に「おかえり」と返したのだろうか。

 揺り籠の中からでは様子を覗えないのが焦れったい。

 そんなことを思っていると、ドタドタとせわしない足音が近づいてくる。


「けいもふ、ろあ!」


 ぴょこんとこちらを覗き込んできたのは、先ほどの女性とよく似た少女だった。

 年頃は三~四歳といったところだろうか。

 先ほどの女性がお淑やかな印象に対し、少女の瞳は彗星のように爛々と輝き、とても活発な印象を与える。

 同じ顔でも、こうも印象が変わるのか。

 揺り籠を揺らしながらこちらを見つめる少女を観察していると、今度は重く静かな足音が近付いてきた。


「はわすろあ、いりす?」


「きゅてぃお!」


 男の声に、少女が喜々として答えた。


「いぇる」


 二十代後半くらいだろうか。

 揺り籠の中から見た男の顔は「剽悍ひょうかん」という言葉がピッタリの、どことなく狼を思わせる顔立ちだった。

 短く刈り込んだダークグレーの髪に琥珀色の眼。

 肌の色も黄色っぽい。

 先ほどの女性とは人種が違うんだろうか。

 そんなことをぼんやりと考えていると、男がその手で俺を抱き上げた。

 服の上から、引き締まった筋肉の硬い感触が伝わる。

 まるで堅牢な城のような、先ほどの女性とは別種の安定感。

 視界もだいぶ高い。


「ぱぷ! めと! めと!」


 眼下では少女がこちらに手を伸ばして何やらせがんでいる。

 男はそれをあやしながら、優しい笑みをこちらに向けた。

 少し離れたところで、女性が料理をしながらにこやかにこちらを見守っている。


 あぁ、なるほど。


 家の中の朗らかな空気で、俺は察した。

 こんな光景を、遠い昔に見た気がする。

 この三人は、家族なんだな。

 そして俺も、この家族の一員として生まれ変わったということなんだろうか。

 これが、俺の新しい家族……。

 こんなふうにみんなが笑っている輪の中にいるのは、ずいぶんと久しぶりなように感じた。


 ◆◇◆


 それから数ヶ月ほどが過ぎた。

 だいぶアバウトな言い方になってしまったが、これには訳がある。

 赤ん坊の姿になってこの方、ずっと寝たり起きたりを繰り返しているので、どれだけの日数が経ったのか正確に把握できていないのだ。

 しかしながら、この数ヶ月で俺の置かれている状況が少しずつ明らかになってきた。


 まず、俺を取り囲む三人はやはり俺の家族のようで、父の名はザック、母はクロエ、姉はイリス、そして今世の俺の名前はロアというらしい。

 暖炉や竈に薪をくべ、水を使うのにいちいち外に出て行く様子を見るに、生活レベルは中世ヨーロッパの農村といったところか。

 父のザックは農夫のようで、鋤や鍬を持って朝早くに出掛け夕方になると戻ってくる。

 たまに弓矢を持って出掛けることもあるので、おそらく狩りもできるのだろう。

 母クロエは俺の世話があるからか、今のところ家から出ることはあまりない。

 家事や俺の世話の他には、編み物をしたり、薬研で草や木の実をすり潰したりしている。

 姉のイリスは四歳。とにかく何にでも興味を持つ年頃だ。

 母が生まれて間もない俺にばかり構うものだから、たまに癇癪を起こして暴れたり俺の鼻やほっぺたをつねったりすることもあるが、基本的には明るく元気で、父母の言うことをよく聞く。

 たまに父か母と二人で庭に出て、何かを教わっているようだが、その時に話している言語がどうしても上手く聞き取れず、何を教わっているのかはよく分からない。


 そう、俺は周囲の観察だけでなく、今世で使われている言語についても熱心に研究していた。

 家族の会話に耳をそばだて、どういう時にその単語を発するかに注意して単語の意味を想像したり、発している文章の規則性を探ったり。

 なんて言うと、俺がめちゃめちゃ頭良く聞こえてしまうが、規則性探りに関しては山勘が当たったに過ぎない。

 前世の記憶として、日本語と少しだけ英語の記憶が残っていた。

 ある程度単語を覚えたら、主語、述語、修飾語がどういう順番で使われているかに注意して会話を聞く。

 そしたらなんとなく「語順が英語っぽいな」と気付いて、山を張ったら上手くいった感じだ。

 そんなわけでまだムラはあるが、俺は家族が使っている言葉を理解するに至った。


 一方で、未だ現状に慣れず不便していることもある。

 一つ目は体の自由が利かないこと。

 最初に覚醒したとき同様、口が思うように回らないのだ。

 口だけではない。

 全身がまるで借り物のようにうまく動いてくれない。

 なんていうか、何をするにしても力がうまく伝わらない。

 自分がしたい動きと実際の動きに齟齬が出る。

 前世で当たり前のように立ったり歩いたりできたのは、それができる筋力が備わっていたからなんだと、この身体になって痛感させられた。

 今はハイハイで移動するのがやっとだし、家の中を動き回るだけでも重労働だ。

 だが、無いものをねだったところで仕方ない。

 たくさん食べてたくさん動いて、地道に筋力を付けるしかない。

 筋肉は裏切らない。

 前世で俺は筋肉を裏切ってしまったけれど。


 二つ目は感情のコントロールができないこと。

 とにかくこの身体は、不快に対する耐性が無いに等しい。

 腹が減った、用を足して気持ち悪い、ちょっとどこかにぶつけた。

 自分でも「そんなことぐらいで」と思うような些細なことで、たまらなくなって泣き出してしまう。

 たまに、夢の中で前世の記憶が蘇ることがある。

 それがどうでもいいことだったり楽しいことならば良いのだが、だいたいこの体には刺激が強すぎる辛い夢だったり悲しい夢だったり。

 そうなるともう心の制御が利かなくなり、俺は全身全霊で泣きまくってしまう。

 そして、泣けば疲れる。

 本当に、疲れる。

 疲れれば眠ってしまい、活動時間が短くなる。

 先にも言ったように、そのせいで時間の感覚がずれてしまったりして、いろいろままならないのだ。


 そして三つ目。

 これは最近になってのことなのだが、金色に輝く雪のようなものが部屋中をちらちらと飛び回っているのが見えるようになった。

 飛蚊症かと思って目を細めたり見開いたり擦ったりしてみたが、金色の雪が俺の視界から消えることはない。

 しかも目を凝らして見てみれば……なんだろう、羽ばたいている?

 蛍などとはちがい、その光自体がまるで意思を持つ生き物のように羽ばたいているように見える。

 そう見えてしまったら、いよいよ俺の視界は落ち着かない。

 俺はその光を払おうと手を振った。

 しかし、いくら払っても掴んでも、光の粒は俺の手をすり抜けていく。

 やはり、何か眼の病気なのだろうか。

 それならば、家族に俺の異変を伝えなくてはならない。


「あぅあっ! だっ! まっ!」


 俺は家族に気付かれるまで、大声を上げて光の粒と格闘した。

 そうしているうちに母クロエがやってきた。


「あらあら。今日はなんだかご機嫌ね、ロア」


 いつもと変わらないやさしい微笑みをたたえる母に、俺は全力でアピールした。


あばばだだそこら中にあばぶ光る虫が! だっそこにも! だっそこにも! だっあそこにも‼」


 しまいには指を差し示す俺に、クロエは若干引いている。

 生後一年にも満たない赤ん坊が明確なジェスチャーをやってみせたのだ、無理もない。

 クロエはしばし呆然として、


「ロア、あなた……精霊アルマが、見えるの?」


 そう俺に尋ねた。


「あぅあ?」


 聞き慣れない単語だ。

 ……いや、聞いたことはある。

 それは、姉のイリスと父母が庭で何やらやっているときに頻出する単語だ。

 この光の粒が、アルマってやつのか?


「あっ」


 俺は手近な粒を指差してみた。


「そうね、そこにもいるわね」


「だっ」


「うん、そこにもいるね」


 俺が指差すごとに、母が頷いてみせる。


「イリスの時より、ずいぶん早いわね」


 俺にアルマとやらが見えていると確信すると、母はそうこぼし、俺を抱き上げた。


「あなた、ロアにはもう精霊が見えているみたい」


 クロエが言うと、弓と鉈の手入れをしていたザックは「え、」と少々驚いてみせた。


「もうか。イリスはついこの間見えるようになったばかりなのにな」


「えぇ」


 少々困惑している様子のクロエに、ザックは微笑んだ。


「まぁ、精霊が見えることは悪いことじゃない。遅かれ早かれ見えるようになるもんだしな。ロアも生まれてしばらく経つし、外を見せてやってもいいんじゃないか?」


 外に出られる!

 この世界に生まれてからずっと家の中に居た俺は、父の言葉に「あい! あい!」と賛同してみせた。


「……ふふ、そうね」


 クロエが微笑んで答えると、イリスがどこからともなく駆け寄ってきた。


「なになに? お外?」


「えぇ、ロアもそろそろお外出たいって」


「イリスも出たい!」


「それじゃあ、ちょっとみんなで散歩でもするか」


 父は手入れしたばかりの鉈を腰にしまって立ち上がると、イリスの手を取り、先に外へと出て行った。

 二人の後を、俺を抱いたクロエが追う。


 ざぁ――……。 


 風が羽ばたき、陽光が踊った。


 緑が俺の目に飛び込んでくる。

 俺達の家は小高い丘の上にあるようで、下には切り拓いて整地され、いくつかの家が点々建った山の斜面が広がっていた。

 その先には、若草色の段々畑。

 それをぐるりと囲む木々、遠くにそびえる山々。

 深い緑の上を雲がたなびき、空の青がいっそう際立って見える。

 絵画のような光景に、俺は息をするのも忘れて見入ってしまった。

 

 ……と、あの光の粒が風に舞うようにして飛んできた。

 地面に生える芝生から、そこらに転がる石から、木々の葉一枚一枚から。

 金色の粒が空に向かってひらひらと浮かび上がり、風に乗って飛んでいく。

 陽光を浴びて輝く金色の粒が寄り集まり、大きな光の奔流となって地平線の向こうへ流れていく。

 どこかで、この光景を見たような気がした。


「――その金色こんじき父母ふぼにして……」


 俺を抱きながら、母が美しい歌声で口遊む。


 其の金色は父母にして

 其の金色は我が子なり


 いざ踊らん精霊アルマと共に

 いざ歌わん精霊アルマの調べを


 風と共に未来はなびき

 波と共に過去は揺蕩たゆた

 大地と共に現在いまを踏みしめ


 精霊アルマと共に我行かん

 精霊アルマの元へ我還らん


 なぜだろう。

 切なさが、胸を締め付ける。

 しかし、その切なさを愛おしくも思う不思議な心地。

 こんな想いを俺にさせているのは母の歌声か、それとも、この精霊に満ちた世界の姿か。

 一筋の涙が、俺の頬を伝う。

 

 ――生きたい。


 この世界で、この生を、力いっぱい。

 そう思わずにはいられなかった。

 失敗することもあるだろう、傷付くこともあるだろう。

 だけど、俺は、今度こそ――。


 大切なものを手放さず。

 自分を信じて、立ち止まらず。

 俺の命を全うしよう。

 それが、きっと。

 俺がこの世界に生まれてきた意味だと思うから。

 母の温もりに抱かれながら、俺は精霊と踊るこの世界に宣誓した。


「《ウラヴ》《放出ディヂャーロ》‼」


 突然、聞いたことのない単語をイリスが口走った。

 彼女が翳した掌に精霊が集まりその姿を水に変え……


 ブシューーーーッ‼‼


 音を立てて勢いよく飛び出した。

 放出された水はシャワーのように霧散し、それをくぐった陽光が虹を作り出す。

 俺は口をあんぐりと開けて、その光景を見入った。

 一瞬前の宣誓が、どこかへ吹っ飛んでしまった。  


「こらイリス! 『魔法は周りをよく見てから』って、いつも言ってるでしょ?」


 魔法? 

 今、魔法っておっしゃいました?

 俺が見上げると、母は眉間に皺を寄せ懸命に「怒った顔」を作っている。

 イリスは悪びれた様子もなく「いししっ」と笑い、


「でも、キレイだったっしょ? 虹!」


 そう言ってこちらに駆け寄り、


「ロア、すごいっしょ! お姉ちゃんね、虹が作れるんだよ」


 誇らしげに言いながら、俺の頬をつんつんとつついた。

 その様子を見ていたザックがくしゃくしゃと頭を撫でる。


「四歳で魔法が使える娘に、生後数ヶ月で精霊が見える息子。俺達の子どもは天才かもしれんな」


 そう言ってザックはガハハと笑って見せた。


「もう、あなたってば」


 つられてクロエも笑みをこぼす。


「おとさん、『てんさい』ってなに?」


「すごいってことさ。イリスはすごい、ロアもすごい」


 イリスの問いに、ザックは屈んで答えた。

 その言葉にイリスは瞳を輝かせ。


「あたし、すごい?」


「あぁ、すごい」


「ロアもすごい?」


「あぁ、二人ともすごい」


「イリスとロア、てんさい!」


「そうだ! 天才だ!」


 抱き上げると、ザックはイリスを宙に放った。


「「てーんさい! てーんさい!」」


 高い高いしながら、二人で天才コールを繰り返す。

 それを見て、おかしそうに笑う母。

 その腕の中で、衝撃の余韻からただ一人抜け出せず、俺はそれを呆然と眺めた。

 

 異世界転生、精霊と来て、今度は魔法か。

 いよいよ俺の人生、ラノベっぽくなってきたな。

  

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