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そんなある日、僕は前から行きたいと思っていたところに行くことにした。帰ってくるつもりはなかった。このまま色々なところを旅して、自分の好きな街で仕事を探して、住んでしまうのもいいかもしれないと思っていた。片道切符の旅、ということになるのだろう。失われた僕を悼む旅。そして、消えてしまった本物の雫を悼む旅。職場の僕のデスクには置き手紙をした。今どきそんなことする奴があるか、とは思う。でも、アナログだからこそ伝わるものはきっとあるのだと思う。だから別にいい。
平日の朝に郊外へ向かう電車は空いていた。いつもの満員電車が嘘のようだ。もしかしたら今までが夢だったのかもしれない。雫はまだ生きていて、どこかで笑って暮らしていて、僕は……どこかで眠ったままでいるのかもしれない。そんな幻想を抱きながら窓の外を眺む。段々と人が減っていく電車の中で空白を憶う。久しぶりに僕を思い出す。くだらない人生を送ってきた。雫との日々以外は。子どもの頃の夢を覚えているかと問われて口籠るのは多分その証拠だ。くだらない日々を覚えているはずがなかった。僕が覚えている限りの過去は九割雫との思い出だ。
終点のアナウンスが流れた。この旅の終着点。僕が来たかったのはここだった。ここは、
雫と僕が出会った地である。
この無人駅からしばらく歩いた街の外れにあるカフェで僕らは出会った。偶然だった。その日、いつもなら絶対入らない店で勉強していた僕は、外のどしゃ降りの雨を横目に数学の問題と格闘していた。埋まらぬ空白。埋まらぬ数式。考えれば考えるほど沼に閉じ込められる感覚。僕が探している答えはすぐ傍にある。だって数学の問題は答えのある問題しかないのだから。でもなぜか、解答を見ようとは思わなかった。わからないものなんて……この雨だって同じだろ。何もわかりゃしない。心の空白も。ドリルの空白も。わからないなら全部同じ。そう思っていた。
雨の中を走って、風邪をひきそうなくらい濡れたまま店に駆け込んできた彼女と出会うまでは。
普通ではない速さで2つ目の音が鳴ったカウベルの方に僕の目は吸い寄せられてしまった。その音の主が、雫だった。そして雫は僕に話しかけた。僕はもうその言葉を覚えていない。
僕たちはよくこのカフェの窓ぎわの定位置で談笑した。他愛ない話はとどまることを知らず、という感じで雫の話がつきることはなかった。落ち着きがないというか賑やかというか。僕と真逆なその性格を見ているのが楽しくなっていたのかもしれない。雫がコーヒーを飲めないのも、年上なのに年下に見えるのも。僕にはないものだった。僕にあって雫にないものなど存在しないほどに、僕は劣っていた。
あのカフェはもうなかった。更地だった。二、三年でこうも変わってしまうものなのか……。
心の穴を冷たい風が通り抜けたような気がした。
前に進む気力が底をついたのを一人感じた。
僕は死に場所を探そうと、そう思った。
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