3

「廉音、ちょっと来い」

井上先輩が心配そうに僕を見て言った。

「はい」

僕は快活に笑顔でそう答えると、先輩の後を着いて行った。

「なぁ、最近おかしいぞ。無理してないか?」

先輩はそう言った。無理はしてない。むしろ楽しいくらいだ。輝く世界にいることは、思った何倍も楽しい。それなのに心配してくるということは、先輩は亡くなった弟さんと僕を重ねているのかもしれない。

 当時入社一年目だった僕は、仕事柄接する機会があって、彼が活動を休止する直前に一度だけ話したことがあった。独特な雰囲気の男性だった。作曲家というのはみんなあんな感じなのだろうか…。自分の考えはしっかり持っていて芯があってブレない。けれど些細な感情の変化に敏感で流されやすい。そんな感じだった。ただ、彼の死の一ヶ月後にスウェーデンへの転勤から帰ってきた井上先輩から聞いて知ったのは、彼が心を壊した頃、異様に快活で明るい性格になっていた、ということだった。だからこそ、雫を模倣して明るくなった僕を心配するのだろう。これから死ぬんじゃないかって。

「平気ですよ」

「でも……」

「楽しいですから」

「そ、そうか。ならいいんだけど」

先輩は釈然としない顔のまま、違う部署の先輩に呼ばれて仕事に戻って行った。僕はどう答えるのが正解だったのかしばらく考えたままでいた。その正解が見つかることは一生ないような気がしていた。

「最近の今井くんなんか変わったよね」

「わかる〜。いい感じだよね〜」

一軍女子たちがそんな会話をしているのが聞こえた。嫌いな人から褒められても何も嬉しくない。彼女たちは間違っている。

僕が変わったんじゃない。

雫がここにいるんだ。

「今井先輩。ここ、これであっていますか?」

最近入った後輩の女子が話しかけてきた。名前は確か白花茉莉。最初に聞いた時、珍しい名前だと思ったから覚えていた。僕はできるだけ快活に彼女の質問に答える。この対応も模倣したものだった。雫は僕だけが残せる存在だから。そういう言葉で上手く自分の心を隠しながら。

 きっと僕は昔の僕の言動を、白花茉莉を通して見ている。白花さんはとても昔の僕に似ていた。だからこそ僕が消えてもいいと、そう思っていた。僕の代わりはいても、彼女の代わりはいない。だから僕は雫を模倣しなくちゃいけないんだ。

「先輩は、なんでそんなに明るくいられるんですか?」

唐突に白花さんが呟いた。

「……え?」

「いや、なんでもないです。失礼します」

そう言うと白花さんは走っていってしまった。またもや僕の片鱗を彼女の中に見た気がした。彼女の疑問は、僕の雫への疑問でもあったからだった。


 雨の匂いがしていた。

 窓越しの空をカフェのカウンター席から眺めていた。街角にあるこのカフェの前をたくさんの人々が通り過ぎていく。それぞれの手に握られた傘は彩り豊かだ。それと相対するように、水たまりはブラックホールのように深い闇を映して光を通さない。

 この都会の雑踏にはいつまでたっても慣れない。その騒がしく忙しい音は、冷たい空気を孕んでいる。どこよりも栄えているのに、どこよりも寂しい街だ。コーヒーに映った自分の顔を見た。その顔はとてもくたびれていて見れるものではなかった。ミルクを混ぜてコーヒーの色を変える。それでも変わらなかった。そこにはいつまでもくたびれた僕の顔が写っている。

知ってるさ。

どう足掻いたって変わりゃしないって。

そう思った僕はコーヒーを飲み干して席を立った。また僕は無機質な雑踏に紛れる。世間体なんかのために。

ねえ雫。大人になってわかったよ。僕が生きてるのはさ。

「馬鹿みたいにくだらない人生だ」

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