2
気がついたら病室にいた。雫はまだ生きているように見える。彼女の白い肌に傷はなかった。驚くほどいつも通りの見た目のままだった。私服のワンピースを着たままだったからか、本当に眠っているみたいだ。死因は服毒。なぜ、とは聞かなかった…いや、聞けなかった。……それはそうか。聞いたところで分かるはずがない。
彼女のワンピース姿が出会いの瞬間と別れの瞬間をフラッシュバックさせた。そっか…これは……出かける時よく着ていた白いワンピースか。出会った時も、別れた時も着ていたあの服だ。よっぽど好きだったんだろうな。そう思うと同時に、大幅に美化された記憶を許せない気持ちになる。病室の窓辺に雫を見た気がした。白いワンピースの裾と長い黒髪を風になびかせてこちらを振り向いて微笑む雫を。
「あなたが廉音くんですか?」
雫の傍らに座っていた女性が躊躇いなくはっきりとそう言った。僕ははっとして彼女を見る。雰囲気や立ち居振る舞いこそ雫と正反対のように見えるが見た目はよく似ていた。恐らくこの人が雫のお姉さんだろう。雫と違って、芯が通って落ち着いた大人っぽい人のように感じる。
「そうです。この度は心よりお悔やみ申し上げます」
僕が普通に、見方によっては冷たく聞こえる言い方でそう言うと、彼女は泣きそうな顔で、
「そちらこそですよ」
と呟くように言った。何となしにこの人は優しい人だと、そう思った。
「自己紹介まだでしたね。雫の姉の井上
そう言って深々と頭を下げた聖さんの姿に僕は狼狽してしまった。
「あ、えっと、雫さんと前にお付き合いさせていただいていた今井廉音です。よろしくお願いします」
それだけでは足りないくらい沢山あったことを全て詰め込んだ言葉はそれだけで価値があるものだと、そう思った。
「雫は、学校の休みを利用して帰ってきてたんです。それで一人旅に行くって言うから見送ったらこんなことに……」
聖さんは後悔を滲ませながらそう言った。泣き崩れた聖さんを支えるように井上先輩が寄り添っていた。僕はただ、雫の死をどうやって受け止めればいいのかをずっと考えていた。
辺りはまだ昼で、明るい日差しが雫の姿を照らしている。窓から入り込んできた冬の澄んだ空気が部屋を包む。僕は、底が抜けたバケツのように空虚な心を持て余してしまっていた。現実味のない、色が塗られる前の絵のような世界を見て、何かを実感できるはずなどなかったのだ。何も覚えていなかった。何も覚えていたくなかった。今日のことは全部嘘だ。そう信じたいのに心のどこかでやっぱり信じている僕がいた。
あれから一週間が経っていた。雫の葬式は静かに進められ、火葬も終わり、全てが終わってしまった。まだ実感は湧いていなかった。絶望すらできず、涙を流すことすらできていなかった。ただの流れ作業のようだった毎日が、より機械仕掛けな毎日に変わった。色が失せた。灰色の世界だ。心に穴が空くなんてよく言ったものだ。本当にその通りだ。無気力がさらに無気力になった、と綾瀬先輩に言われた。知っていた。自分でわかっている。何をするべきなのかわからなくなっていた。生きる意味すらなくなっていた。
時が経つのが何故か早くて、気づいたら一日が終わっている、そんな日々を何週間か過ごしたところで僕は雫の死について考え始めた。きっかけは些細で、それでいて僕にとっては重大なことからだった。「遺書」だ。先輩に渡されたそれは思ったよりも何も書いていなかった。一言だけだった。「ごめん」の一言だけ。何があったのか、何を思ったのか、どういう意図からの言葉なのか、そんなことが頭の中をかき乱してならなかった。だから考え始めた。なにか理由があるのなら僕だけは知っていたい。そう思った。
でもその前に、一つだけやりたいことがあった。
それは、雫をこの世に残すこと。
雫の存在を消したくない。だから僕は考えた。答えは簡単だ。
「模倣する」
ただそれだけ。
模倣すれば雫はこの世に残る。無価値な僕はこの世から消える。こんなに最高なことはなかった。明るい性格、はっきりとものを言う態度、言葉にしなければ分からないから自分の意見は飲み込まない芯の強さ、音楽を愛する姿勢、弱さをも強みにする、圧倒的な努力量も、全部。僕は彼女の全てを模倣して彼女になりすまさなくてはならない。そう思ってからはもう、それ以外のことは何も考えられなくなった。
また世界が輝くようになった。
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