imitatio

雨空 凪

1

「別れよう」

感情が削ぎ落とされたような声音で彼女は言った。

「なんで?」

まただ。また意味を問うてしまった。この悪い癖のせいで彼女は別れようと言ったのではないかと苦しくなった。

「……そんなものないよ」

彼女は踵を返して都会の雑踏に紛れていく。その後ろ姿は寂しげで、それでいてとても美しく凛としていた―。

 

 そこで僕は目覚めた。久しぶりに彼女の……恋人だった石原雫の夢を見た。後から聞いた話だと彼女はヨーロッパで音楽をやっているらしい。正確に言うと、学んでいる。彼女がピアニストとなって戻ってくるまで、僕は心の中で応援するだけだ。きっとそれだけが僕が今できることだ。

 あの日、本当は全部知っていた。彼女の声が震えていたことも、彼女が去り際に泣いていたことも、自分の夢のために別れざるを得なかったことも、何時間も考えて僕をこっぴどくふろうと決めたことも、彼女がもうすぐこの国を離れることも。

 もうすぐ一年が経つ。彼女は元気にしているだろうか……。

 朝日が部屋に差し込んでいる。朝日が見えるという所だけこだわった部屋は今の時間が一番美しく見える。また一日が始まる。自分から社会の歯車になりに行くというだけのなんでもない、平和で平凡で普遍的な毎日が。

 満員電車にももう慣れた。何も考えなくとも辿り着けるほどには通ったこの会社で僕は面倒な人間だと認識されている。つまり、誰にも声をかけてもらえない、俗に言う「ぼっち」ってやつだ。まあ…人付き合いは面倒だから友達は要らないと思ってしまうたちなので特に不便は無い。……欲を言えば、折角音楽系の会社に務められたのだからライブに一緒に行ける人が欲しかった。多分無理だけれど。

 僕に話しかけてくれるのは一つ上の井上 春輝先輩と綾瀬 宙空そら先輩だけだ。二人は何故か僕を信頼してくれている。生意気な僕を信頼してくれる先輩は珍しい。だからきっと二人は変わっている。変人だ。

「おはよー!今日も無気力してるね。元気出しなよ今井くん」

綾瀬先輩が茶化すように挨拶してきた。この人…よく毎日言葉変えながら茶化せるな。ある意味尊敬。ただ、こんな感じなのに優秀だからか一軍女子軍団から嫌われているようで、嫌がらせされているところをよく見かける。綾瀬先輩がその嫌がらせに気づいているかは分からないが……。

「おはようございます。無気力は先天性なので治りません」

「先天性か……その表現いいね!今度使うわ」

先輩はそう呟くと、颯爽と満面の笑みで消えていった。後に残ったのは呆然とする僕だけである。

「おはよう廉音れんと

背後から聞こえた爽やかボイスは井上先輩だろう。受付嬢が黄色い悲鳴を上げているから絶対そうだ。

「おはようございます」

「朝ごはんはちゃんと食べた?」

毎日あるこのチェックは一体何なのだろう。

「食べましたけど」

「何を?」

先輩の笑顔の圧が怖い。

「パン一枚です」

僕が言った瞬間、先輩が深いため息をついた。なんでそんなに呆れられなきゃいけないんですかと叫びたい気分だ。

「野菜も食べろ」

「はい」

なんか癪だから絶対食べない、と密かに心に誓った。

 なし崩し的に始まる仕事は毎日で、特にこれといって開業時間はないのだが今日は違った。会議があった。新人の僕にとってはただ話を聞くだけの打ち合わせだ。会議室に集められた面々を眺める。こんなに真面目な顔をした彼らは会議くらいでしか拝めない。粛々と続けられる会議をただ聞いて、疑問点は口に出す。それだけの作業が続けられてしばらく経った。会議室に小さなノックが響いた。

「失礼します。井上さん、お電話です」

「あ、はい」

井上先輩が立ち上がって部屋を出ていく。すると、

「あの、井上くんが戻ってくるまで少し休みませんか?」

綾瀬先輩がそう言った。部長が許可を出したのでそうすることになった。和気あいあいとした雰囲気が場に流れ始める。するとドアが勢いよく開かれた。さっきまでの雰囲気が一気に静まり返る。井上先輩だった。

「廉音、ちょっと来て」

よくわからないがただ事では無い雰囲気に胸騒ぎがした。怒られるとかそういう胸騒ぎではない。もっと悪いことが起こったような予感だった。しばらく歩いたところで先輩は止まった。そして僕に問うた。

「石原雫って知ってる?」

なんで先輩が彼女のことを知っているんだろう。そう思うと同時にさっきまでの胸騒ぎが全身に広がっていくのがわかった。

「……はい。」

先輩が俯くのがわかった。息ができなかった。その先は何も言わないでほしい。聞きたくない。息が……できない。

「彼女が亡くなった。自殺…だそうだ。今から病院に向かう。君も呼ばれてるから一緒に行こう」

何を言われているのか分からなかった。言葉なんかで表せるような感情ではなかった。言葉なんかで表していいような感情ではなかった。そもそもなんで彼女が日本にいるんだ。雫は今、留学しているはずだろう!

「先輩は雫の何なんですか」

息苦しかった。苦しくて、苦しくて胸が痛くてなにもできなかった。絞り出せた言葉はそれだけだった。井上先輩は静かに答えた。

「雫ちゃんは妻の妹だよ」

そういうことだったのかと思った。正直そんなのどうでもよかったけれど、知れてよかったと思った。そこから病院に着くまで、僕らは一言も言葉を発しなかった。いや、発することができなかった。

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