第2話 居場所
松木くんと別れ、なんとなく気まずい空気が流れたまま、私たちは屋内のプールサイドにたどり着く。ここが私たちの練習場所。私たちのことなんて気にも留めていないように、今日も水は静かで、冷たくて、心地よかった。
羽織っていた薄手のパーカーを脱ぎ、咲が一番乗りっといつもより控えめに言いながらプールにダイブした。それに合わせて私もプールへダイブする。
バシャっと飛沫があがるとともに、静寂が訪れる。
まるでこの世界にいるのは自分と咲だけなんじゃないかと思えるような、薄暗い静寂な空間の中を、私はゆっくり泳ぎだした。上に、下に、右に、左に。
水の中ならどこへだって行ける。日々の憂鬱やあれやこれや、何も気にせずに、ただまっすぐ泳いでいけるのだ。
私は生まれてこのかたずっと、この空間が大好きだった。
プールの底で仰向けになって、私はゆらゆら光る水面を眺めた。
魚にでも生まれてたら、もっと気楽に人生生きていたのだろうか。
「はじめるぞー」
ちらほら部員が揃ってきてあたりでプールサイドから声がした。
副部長の山下さんである。肌白で美形な彼は、もちろん後輩先輩関係なしにみんなの憧れの的である。
山下さんの声に吸い込まれるように、みんなが集まって輪になった。みんなと言っても20名ほどの小さなチームであるが。
そのうち8名は3年生、あと1ヶ月後に最後の大会を控えているので少しピリついた空気も流れている。
「テツは今日、最後の大会に向けて先生と話し合いをしてから来るから遅くなると思う。それまでは僕がメニュー出すからね。」
テツ、というのはうちの水泳部の部長の阪東徹也。通称テツ。中学の時に全国大会まであと一歩のところまで上り詰めたこともあるうちのエースだ。
「そういえば、今日松木くん、入学してきたんだよね?誰かコンタクトとれた奴いる?」山下さんの声に二人が手を上げた。咲と水上さんである。
私も控えめに手を上げておいた。
「三人か、どうだった?」山下さんの問に咲が応える。
「もう泳がないってきっぱり言われました。ちょうどそのへんにいたんで変わらず続けるんじゃないかと思ってたんスけど、、。」ねえ、みな?と咲がやや気まずそうに私に投げかけてきたので私もうん、と静かにうなずいた。
「え!まじか、、泳がないって、あんなに成績残してるのにな。なんかあったのかな。」少し考え込む山下さんの間を割って、「中澤、本当にちゃんと誘ったのかよ~」と、またおちゃらけ成原が口を挟む。かけたわよっ、じゃあアンタが誘ってくればいいじゃない。と咲と成原のいつもの口論が始まりかけた。
「おっけい、ひとまずまだ初日だし、僕も声かけてみるよ。とりあえず練習始めようか!」山下さんの柔らかい話し声で、二人の言い合いはあっさりと宙に放り出された。
「はああああああ疲れたあああああ」
成原が大きく伸びをする。いつもどおりの厳しい練習が終わって、帰り支度をし、外に出たところである。私と成原は近所に住んでいるのでいつも一緒に帰っている。
3年生の一部は最後の試合に向けてまだ調整をしているらしく、プールにはしっかり明かりがついていた。
「成原はタイム伸びてるの?」
「ん―、今微妙かな。でもテツさんにも山下さんにもたくさんアドバイスもらったからな。先輩の最後の試合にはぜってえ間に合わせる!」
成原らしい回答だった。私だったら同じ質問にどう答えるだろうか。なんて考えるけど、人に聞いた割に自分もタイムを伸ばせているわけではないし、なんとも言い難いところである。間に合わせる、と力強く答えた成原の答えは自信に満ち溢れていて、でも嘘じゃないような気がして、すごいなと思った。
「…そういえばさ、最近父ちゃんと、どう?」
いろいろと他愛もない話をして一息ついたころ、信号が青に変わるのを待っていたら成原が取り扱い注意のものを触るような声で聞いてきた。
どう?と聞かれてもなんと答えればよいのか。なんてアバウトな質問なのだろうか。
「別に。なんにも。変わらないよ。」
そっけなく答えると、成原はそっか、とつぶやいて空を見上げた。
「俺は笹塚のこと、応援してるからな。なんかあったらいつでも言えよ。」
じゃあまた明日な!と成原はいつもの別れ道で、ちょっと真面目な顔でつぶやいたあと、こちらを見ずに背中を向けて歩き出した。相手の答えを聞かずに去る男、というのはこの世の中たくさんいるらしい。
うるさいわばーか。とちょっとニヤける口元を抑えながら、私は成原と反対の方向に歩いていった。
きいっ、と重たいドアを開ける。と、見えたのは父親の仕事靴。
はあ、今日いるのか。とこれまた重い気持ちを感じながら、ゆっくり靴を脱ぎそのまま部屋に上がろうとしたときだった。
「みな、帰ってきたのか。」
奥のドアがひらき、"父親"が顔を出した。石頭とはこのことか、というくらい硬い表情をした父親を私は冷めた目で見た。
「…ただいま。」ぼそっとつぶやくと、父親はすぐに私ではなく私の持っている大きなカバンに目を向けた。
「お前、まだ泳いでるのか。いい加減泳ぐのなんかやめて勉強しないと…」
「別にいいでしょそんなん私の勝手じゃん」
「親に向かってなんていい方を、、!」
「あなた、やめてよ、みな疲れてるんだから」
ね?と父親の後ろから申し訳なさそうなぎこちない笑顔を見せるのは、私の母であった。
「勉強だって言われなくてもしてるわよ。」
私はそれだけ言って、すぐそこの階段を今日の疲労の3割増しくらいの重い足取りで登っていった。
私の父は東京大学卒業で、なかなか頭がいいらしい。父の家系は東大、京大、立命館、といった名だたる大学の出身ばかりのようで、3兄弟の一番下で見栄を張りたい父はなんとか私も東大に行かせたいようである。
そのため水泳なんかやめて勉強をしろといつでも口うるさく言ってくるもんだから私は2年ほど前からついに父を嫌いになった。
母は父と6歳ほど年が離れている、当時では珍しい年の差婚であり、私の水泳を応援してくれているものの、父に強く言えない立場であり、家の家族はなんとも不安定な構成になってきている。
これが、成原が私にどう、なんて聞いてくる所以である。私としては別に水泳をやめる気もないし、心配されるまでもないのだけど、あるとき成原にこのことがバレてしまってからというもの、成原は密かに私を心配しているようである。
つまんない父親だよ。一番の心の拠り所は家族のはずなのに。
そう思いながら、まあどうでもいいけど、と私はベッドで携帯を眺めていたらいつの間にか深い眠りについてしまった。
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