第12話

 彼女はまたこほこほと咳をしました。いったん頭を冷やそうと私は拝殿を離れて神社を歩いて巡ってみました。秋の祭り(おそらく起源は収穫祭でしょう)で村を練り歩く神輿の納められた倉庫は最近建て替えられ、綺麗なヒノキの扉が使われています。子供会の活動の一環で行われる、一メートルほどの棒を使った演舞を披露する開けた空間。凡そ神楽殿のような使い方をしていたのでしょう。

 二日ある祭りの、一日目の夜に行われるその演舞を思い出して彼女もそこにいたのかなどと考えてみましたが、たくさんの人で賑わう神社の様子ばかり脳裏に浮かびました。私は足元に会った大きめの石を蹴り飛ばしてやりました。組合の屋台が置かれる場所にはもう小石しかありません。社務所と思われる建物には、しかし畳の奥に仏像のようなものが見えました。誰もいない社務所に入りこんでさらにその内部まで見て回りましたが、これと言って面白いものはありません。冷蔵庫のようにただ暗く冷えた空間があるだけでした。罰当たりなことをしてしまうほど気が動転していたのでしょう。

 人のいない神社などこんなものだと知っていても、この神社については人の多い様子ばかり知っている私としては、いかにも物寂しい気持がひたひたと押し寄せるばかりでした。人のいない神社にいるのは神だけです。存外人のいないときに、神様も神様だけで集まっているのかもしれません。社務所の中で仏像と対面しながら目をつむり、そんなことを考えていました。社務所を出るとあたりが暗くなっており、黒雲が空を覆っていました。

 私は先日の天気予報を思い出してまさかもうそんな時間になってしまったのかと思いました。考えている最中に眠ってしまったのかとも思いました。母親が迎えに来るのはもうすぐだろうと考えると、いてもたってもいられませんでした。




 体調が悪いなら早く帰った方がいいと階段を駆け上がって拝殿にいる少女に伝えました。すると描き終わるまで帰らないと、頑とした態度で返してきます。キミが何と言おうと帰らないから、と鉛筆の動きは少しずつ遅くなってゆきます。体の怠いようにうつ伏せになる回数も増えてゆきます。少女のこれほど痛ましさを見て心配にならない人がいましょうか。絵なんていつでも描けると伝えるも「描けない。だから今描いてる」と返す言葉。そのときの、こちらを睨みつける幼気な少女には為せぬ力強い眼を忘れることはきっとないでしょう。脳に焼き付くほどの迫力を以て彼女は次の言葉を発しました。


伝わらないよ。分からないんだから、キミは、わたしのことなんて。


 不貞腐れる表情に私は怒りました。声も手も上げずとも心底怒りました。じゃあ教えてよと、意識して冷静に、声を荒げないように叫びました。自分のことを分かっていてほしいなら、オマエのことを教えろよと一口に話しました。言い方が悪かったのでしょう。後にも書きますが、怒るような語気になってしまったのがよくなかったのでしょう。焦っていたのもありますが、彼女の受け答えが明瞭な意味を持たず煩わしかったのもあります。「いやや。キミは本当に何も分かってない」と糾弾するような大きな瞳が私を睨みつけました。


 急に全身が冷めていく感覚を覚えました。それからすっと周りの色が抜け落ちて見えました。私は大きく息を吸って、勢いに任せて一息に放言してやりました。大事なことは結局何も言わないくせに、知ってほしいのだか知らないでほしいのだか判然としない思わせぶりで曖昧な態度をとる姿が如何にも独善的で、同情に飢え媚態をつくる、自己顕示的で卑しいといったふうになじってやりました。


 数刻、静寂が辺りを覆いました。


 少女はくしゃりと表情を歪ませました。重りを吊らされたように目尻を下げ、頬を緊張させて下唇を嚙んで鼻先と唇を近づけました。それから濡れる瞳を隠すようにそっと視線を地面に向けてしゃくりあげ始めました。しまったと思いました。しかし素直に謝れるほど私はできた人間ではありません。私は小さく泣きじゃくる少女をただ見てるだけだったのです。


おこんないでよ。そんなに言わなくてもいいじゃん。


 怒ってなんかいないと反論しました。しかし彼女は首を横に振って、真白な手の甲にセーターの裾を手繰り寄せて溢れ出る涙を拭いました。私はもう一度教えてよと直言しました。しかしというべきか、当たり前というべきか、「言わない。わたしは悪くない。悪くないもん」とまた泣きじゃくりました。私は何も言いませんでした。それは自分が正しいことを言ったと思っていたからです。少女が先の尖った鉛筆を地面に叩きつけて、乾いた音が二三度、転がり、私の足元を過ぎて階段を落ちてゆきました。私は少し怖くなってごめんと謝りました。その言葉が彼女に届いていたかは定かではありません。その謝罪が意味を伴っていたかも定かではありません。むしろ贖罪のために呟いたのかもしれません。ともかくとして、少女はまた少しの間哭き続けました。




 私はこの時初めて、彼女の背負っていた隠し事の片鱗を見つけました。もちろん当時はその存在を知りませんので、後になってこの時が初めてだったのだと思い出しただけです。幼い少女にはあまりにも暗すぎる別れ、あまりにも鮮烈すぎる裏切り、あまりにも重すぎる仕打ち。そして幼少の私という、ずかずかと他者のプライベートに入り込もうとする、それこそ独善的な存在が追い打ちをかけて、彼女の隠していた秘密の箱の蓋を少し開いてしまいました。彼女が大人びて見えたのはそのせいでしょう。彼女には清濁併せ飲んで受け入れる覚悟が必要でした。彼女の心はあまりにも強すぎました。強すぎた故に、受け入れることができてしまいました。彼女の態度は無理をしている精神と少女時代の名残が生み出した救援信号だったのだと、私は最後まで分かりませんでした。


「わたしの勝手でしょ。好きに言えばいい」


 最後の一滴を右袖で拭って、湿る鼻をすすり、一段低い声で彼女は言いました。腫れた目元と頬の擦った跡が今度は私を糾弾しました。きっと彼女は私の言葉を聞かないのだとわかりました。いえ、彼女の本性は変わらないから、私の言葉以上に自身の言葉を聞くのだと理解したのです。彼女の言が本当ならば、翌日には冷たくなった体が見つかることでしょう。実際に起こってしまいそうなほど凄烈な表情でしたので、私はよりいっそう怖くなってゆきました。「どうしたら、帰ってくれる」無理を承知で尋ねました。「言ったよ、帰らないって」


 どうしたものかと悩みました。どうにかしてこの行為をやめさせねばならないと思いました。雲は次第に厚くなってゆき、神社に暗い影を落としました。彼女を力づくでこの場から引きはがしたところで、明日にはまた戻ってくるでしょう。絵を描く気力を無くすくらいの言動をとらねばならないという覚悟が胸を締め上げました。冷えた重たい空気をいっぱいに吸い込みました。

 私はそういえば、と何気ないアンケートをとるように、そのファイルには何が入っているのかと尋ねました。彼女はまるでその存在を忘れていたかのような表情で顔を動かし、急ぐしぐさで胸に抱え込みました。言えないのと聞くと、首を横に振りました。しかしその素性を明らかにしようとはしません。矛盾した態度にかっとなってそのファイルを奪い取り、がばりとのぞき込むようにして観察しました。そこには幾枚もの風景画。おそらくこの足助という村の景色が描かれた絵がたくさん入っていました。私にとって見覚えのある場所もない場所も、等しく描かれています。認識した瞬間、私はそれらすべてを破ってしまいたくなりました。いわば成果物であるこれらを木っ端みじんにしてしまえば、衝撃で書くのを止めるのではないかと思いつきました。


 しかしそこでまた厄介な猜疑心が思考に横槍を入れました。これまで散々帰らないと言ってきた彼女がその程度でこの場を離れようかという疑いです。つまり果たしてここで精神を傷つけて、肉体は本当に守られるかという疑問です。私は瞼を閉じてじっと考えました。そしてやってみなければわからないという結論に達しました。


 一度深呼吸をしてから、私はこれから為そうとしていることを振り返りました。精神のために肉体を犠牲にする彼女の自由を阻害するべく、肉体のために精神を犠牲にしようとしている。実行には覚悟が必要でした。精神にしろ肉体にしろ、彼女を傷つける覚悟です。選んだ正しいのかどうかは分かりません。けれども、たとえどちらをとろうとも結局真に彼女を救うことなどできず、所詮自己満足でしかないことに気が付くとせめて自分の気持ちよい方向へ終わらすのが適しているではないかという考えが浮かんできました。というのはつまり、彼女を慮ることすら私の勝手な行為なのであり、顔を合わせた瞬間から私の意思が介在して純粋に相手を思うことなど出来ないとわかったのでございます。それはいわば、『相手を想う私』という存在を認めるということでした。また躊躇われた一歩も、結局踏み出そうが踏み出さまいが、結果は変わらないのだとも分かりました。どちらを選ぼうとどちらかを失い、恐れている事態は起こってしまうのです。私の脳裏にいつか彼女の言った『勝手』という言葉がよぎりました。


ああ、ならば、もう帰って、それこそ会うことはないのだから、せめて自分は自分でいようと、そう考えたのでございます。


 思い至った瞬間、私は餌を見つけた虎が如き勢いで彼女の描いている絵も奪ってファイルから他の絵も取り出して一挙に破り捨ててやりました。彼女の瞳はどこまでも冷たいもので、披露宴のつまらない余興を見ているようでした。背中に冷たい汗が流れていく感覚を覚え、どもりつつ自己弁護をするように「描いたことは、覚えてるって言ったよね」と言うと、彼女はうんと頷きました。

 彼女は本当に破るなんて思わなかったと言いながら立ち上がります。憐れむような視線に背筋も凍るようでございました。


 真剣に描いてた絵が無くなるのって、想像以上に苦しいんだね。


 杉の木の葉に乗る雪が風に揺られて地面に落ちる音が聞こえました。

「ごめんね」と彼女は私の手から破られた紙をひったくり、ありがとうと手を振ってから、長い髪を風に靡かせつつふら付いた足取りで神社を後にしました。


 ああ、この時の私の心情をいかに示しましょうか。私の心の内では罪に恥、そして疑いの三種類が泡のように現れては弾けるように消えていったのです。分からないことばかりが残り、立ち尽くすことしかできませんでした。

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