第11話

 翌日は雨が降りました。私は焦りの感情の裏側で雨を恨みさえしました。今すぐにでも飛び出して彼女の下へ転がり込みたい衝動に駆られました。けれどもそれほどの気概など私にはありませんでした。なにより絵を描いているときにしか彼女に会ってはいけないと、そんな気がしたのです。これが明日まで続いたらどうしようかという心配は、しかし無用に終わりました。天気予報では夕方まで晴れが続き、それから曇り、あるいは雨になるだろうということを話していました。


 一月五日。霞がかった雲のたなびく、薄青色の空が遠い午前十時、乾かしたジャンパーを羽織り、むくんだ足で家を出ました。地面には薄い氷が張っており、少し油断してしまえば勢いそのままに転んでしまいそうで、私は今度こそ最大の注意を払いつつその上を滑ってゆきました。私はなんだか、自分の体が唐突に重たくなったような気分を覚えました。地蔵の前を、そして橋の横を通り、道中姿を探しつつ最初に彼女の家を訪れたのですが、色褪せた漆黒の瓦の上に薄い雪が積もり、長い氷柱のかかる家はひっそりと淋しく、残念ながら人のいる気配はありません。雪山に遭難し、無人の宿を見つけたような感覚でした。一瞬の歓喜と、押し寄せる失意です。

 続いて小学校へ続く坂道の前を通り、神社へ向かいました。藁にも縋るというか、神仏の力にすがるというか、兎に角そんなつもりでした。無理やり連れだした際の続きを描いているかもしれないという気もしていました。荘厳な本堂と大きな二本杉が白雪を被り、雪解け水を滴らせる姿は思わず立ち止まって息をすることすら忘れるほどの神聖さを有しておりました。三ヶ日に参拝に来た際には多くの人がおりましたが、今ではとんと人気がありません。私は恐る恐る鳥居を潜りました。その一歩は厳粛に重々しく、浮泛に落ち着かず、異界に入り込んだようでした。石や草花、雪、樹木に木材の一つ一つ、そこに存在する至るものが私と次元の違うものに映りました。


 はたして彼女は拝殿の開かれた扉の内で、屋根の下、厚いファイルと共に寝転がっておりました。古い時代に描かれた素朴かつ神格的な絵画のようで、そこにかつて人々の培った自然観の本質のようなものを見つけました。けれども彼女の背中はいつもとは雰囲気が違いました。深い寒さの中、より一層小さく見えたのでございます。おいと声をかけると赤く火照った顔をこちらに向けて、覇気のない、枯れた声で久しぶりだねと言ってきました。途端に申し訳ない気持ちが私の内を占めました。「帰るんだっけ、今日」「そう。このあと帰るから、一応あいさつしとこうと」知ってると呟いて彼女はゆっくりと顔を戻します。そうして、また、力のこもっていない手で鉛筆を動かし始めました。「体調悪いのか」「ぜんぜん。元気だよ」「本当か」「本当に決まってる」隠すように小さく咳をしてから、深呼吸をします。

 どれほど鈍い人間であろうとその充血し潤んだ瞳に気が付かないわけありません。また、これがきっと先日の私の行動によるものだとも分かっておりました。私は己の過失をまざまざと見せつけられ、糾弾されているような感覚に陥りました。いえ、彼女にその意図がなかったとしても、実際その通りだったのです。彼女はその後も時折酷い咳をしたり、鼻をかんだり、短い頻度で事切れたように突っ伏したりと、如何にも苦しそうな振る舞いをしました。責め立てられているかのような心持で、体の表面は冷たいのに、瞼の裏側にカッとした熱を感じました。ぼやける視界の奥にあるのは触れれば火傷しそうなほど朱い額と頬にぼんやりとした瞳、喘ぐような呼吸の音。白い吐息が天井まで登ってゆきます。

 一しきり様子を観察したのち「お前は悪い人なのか」と尋ねました。「何言ってるの。良い人だよ、わたしは。だから聞かないで、何も」木の枝が私の頭に落ちてきました。




 私はそれっきり口を噤みましたが、あるあたりから頭の空白で先ほどの続きを考えるようになりました。随分時間がたち、決断しなければならないと思い始めました。彼女の意思と体調を天秤にかけたのでございます。私は一日か二日の夜に思い付いた言葉を思い出しました。彼女を慮らなかったばかりに、というやつです。この日は実際に彼女を慮っておりました。けれどもさて、私が重んじるべきは一体どちらなのでしょう。彼女の精神と肉体のどちらを重んじろというのでしょう。精神あっての肉体とも、肉体あっての精神ともいいます。今その二つがともに窮地に立たされておりました。前者の異様な執念深さを彼女の描いた絵を以て知っております。今にも壊れそうな後者の危機は明らかでした。もし私が弁の立つ人間であったらならば、きっと何とかしてその二つを救ったのでしょう。その程度には彼女のことを考えておりました。けれども私は劣悪な、仕方のない人間なのです。その間も彼女の様子はより一層悪くなってゆきました。私はいよいよどうにかしなければならないと焦りました。いえ、私の気持ちは最初から決まっておりました。けれども一歩を踏み出すことが躊躇われたのでございます。その爪の先にあるのは幼き少年には受け入れがたい事態だったのでございます。

 一つ聞いていい、と大層大事なことを聞くかのような言葉を口に出してみました。どうして絵を描いてるのと。「前に言わなかったっけ。確かめるために描く。みてるものが正しいかどうか」私はどうしてわざわざ『今』描いているのかと再度尋ねました。すると彼女はキッと目を細めました。何事か考える時に彼女が時たま行う動作です。その瞼の奥にあるのがどんな感情なのか、私には想像もできませんでした。彼女の瞳は真黒。色の三原色を合わせた黒色。三つと言わず、もっとたくさんの色が混ざって出来上がった黒の瞳。

 なんでだと思う、と想定と異なる返答で途端にどぎまぎしました。答えられるはずがありません。彼女の行動原理は過去にあるのに、私が彼女の過去の一切を知らなかったからです。当たり障りのない答えを返したところで、彼女の持つ執念の正体にたどり着けないとわかっていても、間を埋めるために、冬の景色を描きたいからからとやはり角のない答えしか導けませんでした。この時同時に、今日は何か教えてくれるかもしれないと期待して私は嬉しくもありました。しかし「そんなんじゃない」と話す彼女の表情は冷めた鉄のように動くことがありません。「なんで聞くのそんなこと」と冷たい声。顎を引き、すっと細まった目の内側で瞳だけがこちらを見上げてきました。横に真っ直ぐな一の形をした口元に、私は目を合わせることができません。ふと病気の時に食べるお粥の味を思い出しました。

 勝手に裏切られたような気持ちで黙っている間、彼女もまた黙ったままでした。私の言葉を聞くまで次に進めないといった気迫のこもった沈黙でした。あるいは巣で親の帰ってくるのを待つ雛鳥のようにも見えました。関係ないでしょキミには。という言葉に、私はその通りだという感想以外持ちえませんが、理性の部分ではそう納得しても、しかし気持ちの部分ではとても納得できません。関係ないと聞いてはいけないのかと。私は、これほど寒い中わざわざ絵なんて描きたくないということを話しました。彼女は小さな口から大きなため息を吐き出しました。分からないなら、いいんじゃない。分からないままで。と彼女はまた絵を描き始めました。この言葉ではこれといった落胆も苦痛も感じませんでした。これまでもそうだったからです。どうせこの少女は他人の私には重要なことを何も話さず、適当にはぐらかされると想像できていたから、私は人の期待通りにならないことを知っていたからです。


簡単に言ってくれたらよかったのに、せめて、単純に知りたかったからとか。


むしろ絵の中の大きな二本杉に向かってぼやくように言った彼女のこの言葉こそが、深い後悔の念と厄介な猜疑心を打ち込んだのです。

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