第10話

 翌日は一月一日。新年のあいさつでかずくんの所と異なるいとこ家族やはとこ一家などの親戚が家を訪れ、酒飲みの大叔父が絡んできたり、祖母の手伝いをしたりで到底一人で家を出ることを許されず、一日と二日はつまらない時間を過ごしました。

 

 この時はまだ明武の大叔父はご存命で、腕相撲で、もともと軍にいた大叔父の力自慢に付き合わされたものでございます。そういえば二年ほど前、大叔父は自殺をしたと聞きましたが、あれほど陽気だった人が自殺とは人の心は知れないものです。母は古くから大叔父を知る人で、その知らせを電話口で聞いた時に大変だったからねと納得しておりましたが、そのような暗い過去を、あるいは辛い現状を持つ人があれほど声を張り上げて意気揚々と話し、大声で笑うということがあるのでしょうか。私には不思議でなりません。最後に会って以来何かがあったのか、空元気で振る舞っていたのか。きっと私と大叔父の間には大きな隔たりがあり、それ故に納得できないのだと思いました。あらゆる行動には理由が必ずあります。その理由が、理解から分かるのです。私は大叔父を理解していませんでした。


 つまらない日々は、私を思索へ向かわせました。言うなれば、彼女の言動の理由を解明する時間を与えたのです。なにより脳裏浮かぶのは『自由』や『苦手』という単語でした。しかしその言葉を思い出すたびに、胸がぎしぎしと軋んで眩暈がするようでした。拒絶の苦しみが重く圧し掛かって、食品サンプルのようなおせち料理が腹の中に溜まっておりました。

 一日に初詣に行ったものの彼女はおらず、その退屈な二日間、橙色の賑やかな中から、外の静まった雪景色を眺めてばかりでした。幸いなことは親族に例のことを知られなかったことですが、祖母に様子が変わったようだと言われた時はどぎまぎしました。村にとどろく鐘の音が私を寝かそうとせず、寝返りを打ってばかりだった私はついに眠ることを諦めました。そうしてやはり頭の中では彼女のことが除夜の鐘と交互に現れては消えてゆきます。

 彼女になした多くことを思い返す度、罪と恥の二文字が体中を支配して、煩悶しました。いえ、罪故に生じた恥です。利己心のために彼女のもろさに付け込んで悪事を働き、傷つけたのです。私は真暗闇の中で私の罪の根源を探り当てようと試みました。頭上では蛍光灯から垂れる紐がぷらぷらと揺れており、廊下の明かりが曇りガラスに淡く映っております。判然としない意識の中、ついに、そこで初めて、私は真に己の我欲に気が付いたのでございます。彼女を慮らなかったばかりに迷惑をかけたのだとようやっと自覚しました。自由の正体をそれと指さすことができたのです。私は暗闇に向けて溜息を吐きました。目を瞑ると私のかつて為したことがありありと瞼の裏に映っておりました。




 一月三日。私は朝からしきりに、後どれほどここにいられるかということばかり考えていました。帰る予定の五日まで、この日含めてあと三日。あと三日しかないと改めて理解したとき、そうして、いよいよ彼女との関係に終止符を打つ時が来たのだと思いました。一方で彼女にもう会わなくてもいいのではないかという気もしておりました。合わせる顔が無かったからです。何より彼女との最後の会話がいかにも別れの言葉に感じられたからです。拒絶されたなら拒絶されたままでもいいじゃないかという次第で、けれども以前のことを謝罪し、その上で彼女を最後まで見届ける義務があるようにも思われました。

 次に私を占めたのは苦手という言葉です。私の自由が少女を連れまわすことならば、彼女の自由は寒空の下で絵を描くことでした。私の自由が彼女の自由を阻害したために、彼女は苦手と話したのだと思いました。しかし苦手と話すにしては、彼女の態度はあまりにも曖昧でした。何故私を部屋へ招いたのか、何故最後頬を両手で挟んだのか。いかにして自由や苦手という言葉を使ったのか。胸の苦しさを感じつつも、背反な様子の原因を探らずにはいられません。しかしどれだけ考えようと分かるはずありません。

 どうしても私は家を出ようという気持ちになりませんでした。いえ、彼女に会いに行こうという気になりませんでした。いっそのことこれからずっと雨が降ってくれればといいとさえ思いました。私はなんだか自分がどこか未開の地域の深い沼に嵌ってしまったような気分になりました。体全体が冷たい粘着物質に覆われて、とめどなく冷や汗が出てくるような気持ち悪さです。彼女に会ったとしてどんな顔すればいいのか。会ってなんと話せばいいのか。むしろなぜ会うという考えが出てきたのか。そもそも自分は何をしたいのか。彼女に会って何をしようというのか。何かしら目的が無ければ、再開しても同じように拒絶されて終わってしまいます。謝って許してくれるかもしれませんが、それだけでは私の心は今と変わらず収まりがつきません。二人で話していたい。一緒に絵を描きたい。景色を眺めていたい。家で休んいていほしい。しかしそのどれをとっても、彼女に会いたい理由にはなりえませんでした。彼女に会った後のヴィジョンを思い浮かべられなかったのです。


 その日、母方の姉の一家が黒いミニバンで庭の軽石を踏んで音を鳴らしながら家を訪れました。こたつから半身を出して窓の外を見るとぞろぞろと人が出てきます。私はその中に知らない女性がいることに気が付きました。彼女は祖父母の家を見渡していましたが、従兄弟のしんくんや叔母に連れられ玄関へ向かいます。私はその女性が、当時より半年ほど前に結婚したらしいしんくんの奥さんだとすぐにわかりました。「あけましておめでとう」の言葉と共にがらがらと戸が開き、寒い寒いと呟きながら見慣れた顔が部屋に入ってきました。叔父に叔母、かずくんとゆうくんに加えてしんくんやちーちゃんやみーちゃん、そしてしんくんの結婚相手のはるさん。しばらくぶりだったので、話に尽きることはありませんでしたが、緊張した様子のはるさんが話に入ってくることはそう多くなかったような気がします。昼にジンギスカンを食べ満腹になった私はそうそうにこたつの部屋へ戻りました。少しすると祖父が入ってきて、寝そべってテレビを見始めます。すると弟とかずくんとゆうくんはゲームをするために隣の部屋へ移動しました。彼らが言うには「じいちゃんは息が臭い」とのことでしたが、実際はおじいさんが昼寝を始めるころに騒いで怒られるのを鬱陶しく思ったからです。私はやはり少女のことが気がかりで彼らとゲームをする機など起きず、祖父と一緒にテレビを見ておりました。

 また少しすると今度はしんくんが入ってきました。私よりも十三歳年上で、凛とした顔立ちの、頬に少しニキビ跡のあるかっこいい男です。「じいちゃん、なにみとん」「わからん。こんなんつけとるだけや」「ちょっとリモコン貸してよ」しんくんはぽちぽちとチャンネルを変え、芸人が無人島で生活する番組に切り替えました。「しんすけ。お前最近調子どうだ」「ぼちぼちかな。仕事の方も今のとこ特に問題ないし」「そうか。ならいいわ。ワシにはわからんもんで。それではるちゃんとは仲良くやっとるか」「まあ、普通かな。時々言い合うこともあるけど」しんくんははにかみながら言います。「そんなもんワシとばあちゃんだってしょっちゅうやわ。一緒に過ごしとるとよくあるわ」「そう?」「そりゃおめえ、今日だってはるちゃんがくるからってばあさん張り切っとるわ。余計緊張させるもんでそこまでせんくてもいいやろってワシが言っても、ばあさん聞かんもん」「たしかにおばあちゃんは、知らんわそんな、とか言ってそう」「ばあちゃん昔からそうやもん。お前のお父さんのときも、しげくんのときもあんなやった」「そうなんだ」「そうよ。毎回同じこと言っとる」祖父ははっと笑いました。昔の祖母を懐かしむような、優しい笑みです。「たぶん、お前が子供産んだら、すぐ病院に飛んでくるぞ」「ありがたいね。それは」「それまで生きとるか分からんけどな」祖父はわざわざ体を起こして、両腕を天板に乗せてそんなことを言いました。「やめてや、そんな不吉なこと言うの」二人はまたわっと笑い、祖父はまたすぐに寝転がりました。「じいちゃんの方はどんなの。最近」「なんにもあらへんがな、そんなもん」「そうなの」「そういえば、農協から別の品種の米を育ててみんかって連絡が来とったわ」「へー。なんてやつ」「なんつったかなあ。まだ詳しく聞いとらんもんで覚えてないわ」「なにそれ」しんくんはくすくすと笑みを浮かべました。「まあ、一回試してみてやな。ここらへんに合うかも分からんもんで」「どうなるんやろ、楽しみやな」「まあ楽しみやな」祖父は笑ってこそいませんでしたが、退屈なようでもありません。新たな何かに挑戦するような、知らないものを見ようとするような高い志を持った強い瞳が瞼の中に二つ収まっていました。


 祖父はそのまますっかり寝てしまい、私はしんくんと二人でテレビを見ていました。となりのリビングからは女性陣の笑い声が聞こえてきます。「しんくんはあの人と一緒に暮らしてるんだよね」「はるのこと」「そう」「一緒に暮らしてるね」「どうして」「というと」「どうして一緒にいるの」「結婚したからじゃないかな」「でも結婚する前から一緒に住んでたんでしょ」「ああ、じゃあ好きだからかな」「すきだと、一緒にいるの」「どうなんだろ、なんか恥ずかしいな」しんくんはテレビのリモコンを手に取ると、意味もなく音量を大きくした小さくしたりしました。「なに。好きな子でもできた」茶化すようににやにやと聞いてきます。「そんなんじゃない」「じゃあなんで急に聞いてきたの」「気になったから」「どうして」「言わない」

 しんくんはじっと私の眼を見つめてきました。顎を引き、すっと細まった目の内側で瞳だけがこちらを見下ろしていました。横に真っ直ぐな一の形をした口元に、私は目を逸らしてはいけないと思いました。気まずくなっても、見返さなくてはならないと。しんくんが私を試しているように、真剣に話すべきか確認しているように見えたからです。

「何を聞きたいの」

 聞きたいこと。知りたいこと。すぐに見つかります。けれどもなんて言葉にしようか、私は息が詰まりました。足の裏にじんわりと汗をかいているのが分かりました。


「なんであの人と一緒にいるのか。というよりも、なんで一緒にいようと思うのかなって。結婚とか好きとかじゃなくて、なんていうか、一緒にいて何をしたいのかなっていう」


 そんなことをもっと大雑把に、曖昧に話したような気がします。視界にあるのら天板と毛布だけ。聞こえてくる風鈴の音が冷たく、痛い。

しんくんは手に顎を乗せて、いかにも難しそうな表情で頷きました。


「オマエはよく考えれている。そのうえでちゃんと聞きたいことを分かっている」


 そうではない。考えれているのではなく、考えるほかに取る手がないのだ。そう切り返そうとしたところ、彼は手を天板に置きました。


「でも、人間の仕組みは分かっていない」


 人間の仕組みとは何かと尋ねると、しんくんはティッシュペーパーに先端の丸まった鉛筆で葉の落ちた大きな木の絵を描き、根元から枝の先までなぞりながら、大体次のようなことを話しました。


 現在は枝の先、過去は幹だ。オマエは枝分かれという過去のいくつかの選択の結果今ここにいる。だから、今を知るためには過去を見る必要がある。オマエは自分の経験したことしか知らないから、お前の考えとか気持ちとかはそれに由来する。


 と大体こんなことです。思い返してみればしんくんは至極当たり前のことを話したように思われます。過去から未来への時間に沿って、人間が経験的に生きていると。いえ、むしろこの事態が私にその事実を教えたのです。


「見方の問題だ。オマエは考える対象物が見えていない。現在は過去の蓄積物だ。だから会いたい理由は、一緒にいてしたいことは過去にある。振り返ってみるといい」


 少女に会いたいという気持ちの理由が分からなかったのは、対象を明確化せず、漠然とした態度で試行していたからです。曖昧な問いに明確な答えが返ってくるはずなどありません。そもそも曖昧な問いなど、問いとして成立すらしていないのです。

「ちょっと難しかったかな」しんくんは付け足して頬をぽりぽり掻きます。私が首を横に振ると、彼は再度テレビの方へ顔を向けました。テレビの中の芸人は、たった今銛で刺した魚に逃げられていました。


 しんくんの言葉を頭の中で嚙み砕いていると、女性陣が部屋に入ってきました。はるさんは自然としんくんの隣に座り、明るい話題が飛び交い始めました。私はどうにも居心地が悪くなりました。そして満腹と暖房に眠ってしまい思考が途切れてしまうことを恐れて、仏壇のある部屋へ移動しました。外と勘違いするほど底冷えする空間に、ふと私は彼女とのさまざまなことを思い出しました。都会の話。この村の話。山から転がり落ちたこと。雪を被った地蔵。展望台で見せた表情。絵を描く理由。風の吹き下ろす校舎裏。蛍の話。少女を見つけたこと。

 理由は最初からありました。目的は最初から見つかっていました。途中で手段が目的とすり替わってしまっていただけなのです。

 

祖母の家には地上五十センチほどに花形の水鉢がございました。ふと様子が気になって見に行くと雪の上に次々と雫が落ちており、氷状の雪をかきわけると堅氷にぶつかりました。覗き込んでみると、乱反射する氷の表面で蛙の像がこちらを見つめておりました。

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