第9話
掛け時計のちくたくという音が耳に届き始めます。すっかり冷めてしまったお茶を一口で飲みほしました。少女の家にはおおよそ飾りというものがありませんでした。例えば観葉植物とか、家族写真とか。整理されているとは違い、物という物が少ないのです。あったのは生活に必要な家電製品ばかりでした。
彼女は徐に立ち上がると電気ストーブの電源を切り、ついてきてと手招きをしました。私はどうしてよいか分からず母親へ目を向けましたが、彼女は少女の方を見て「飲み物はいる」と尋ねるのみです。礼を言って少女は二人分の湯飲みを台所へ持って行き、熱いお茶を注いでもらいました。母親はお盆に湯飲みと菓子をのせて返し、その際頭をぽんぽんと二度なでました。
部屋に入るなり少女は部屋の真ん中に電気ストーブを移しました。ベッドの枕の近くには数体のぬいぐるみがおり、また勉強机の上には傘のようなランプと写真立て、それから一冊の本が置かれていました。私は今でも女の子っぽいこの部屋の様子をふと思い出しては懐かしく思うことがあります。置かれた可憐なものや温かみのある色合いなど、部屋のいたるところから漂う幼い雰囲気は凡そ私の思っていた大人びた彼女とは違いましたが、それでも床に座った少女はくすんだ黒髪と暗さを増した影を纏っておったのです。
赤色のランドセルには防犯ブザーが付いています。それからいくつかの話、主に都会の様子についての話をしました。彼女が聞いてきたのです。私はそこがいかに便利で愉快な場所であるかを雄弁に、饒舌に語りました。その時の幻想的な、夢のような、儚く、二つとない一時を時折思い出しては己の愚かさを恨むことがあります。そのあと彼女は如何に都会に憧れているかを言ってきました。そうして如何にこの村が嫌いであるかを次々と話し始めたのでございます。「ここ好きじゃないの」と私は訊きました。彼女は今の話を聞いて嫌いになったのだと言いました。「でも前好きだって」「言ったよ。でも変わるじゃん、気持ちって、すぐに」私は、すぐに? と聞き返しました。彼女は十分頷いて、すぐにと答えました。私は、実は君は元からこの村がそれほど好きでは無いのではないかという、思いついたままの言葉を発しました。
そんなことない!
彼女は強い語調で言うと、唇を強く噛み、きっとこちらを睨みつけてきました。怯えて彼女を見るも、その瞳に怒りの色はありません。どことなく悲しげで、きつく結ばれた口元と合わせて彼女の美しさをより一層増しておりました。その美しさは何も容姿の事だけを言っているのではありません。初めて見せた強い感情が、私に彼女もまた人間であることを思い出させたのです。少女らしい環境と人間らしい姿を発見し、すっかり彼女に囚われてしまったのです。
感情の高ぶりにに私は黙りましたが、一呼吸おいてからなんとか謝罪の言葉を口に出しました。「わたしこそごめん。変なこと言っちゃった」彼女が愛想よく笑うのでそれ以上の追及は叶いません。しかしその背後で巣を張る意思の存在が気になって、ストーブの熱すら感じ得なかったのでございます。
私の私自身を多く語らないように、彼女も彼女自身の多くを語りませんでした。それは、あるいは互いにとって理想的な関係だったのかもしれません。彼女は私と会って以来ほとんど冷静な様子でおりました。『大人びた』は実際と違いましたが当時の私にはその色気で映っておったのでございます。いや、今当時の彼女の様子を思い返してそう感じるのでございます。悲しきかな。私は薄氷に積もる雪の静寂をめでてばかりでその下に張る危うい氷と、さらにその下の激動とを慮ることをしなかったのでございます。
彼女から母親に事情が伝わり、祖父母に伝わり、村のオレンジ色に染まるころトラックが来ました。祖父と母親が話し終わるのを路上で待っておると、鼻を啜りながら彼女がやってきて私を玄関に引っ張りこみました。何事かと考える間もなく、彼女は私の真正面に立つと悴む両手をそっと差し伸べ、頬を挟み、こつんと熱い額をぶつけます。そうしてその姿勢のまま私の瞳にじっと濡れた視線を注ぎ、悪戯っぽく微笑みました。彼女の僅かな唇の隙間や袖もとから熱い肉の微風が出てきて私の体を熱っぽくさせました。心臓の音も、かすかな吐息も、頭上の木の葉の擦れ合う音も、遠い空で風の吹く音もやけに耳に残りました。
そのときおいと祖父の声が聞こえてきました。私の慌てると裏腹に、彼女は落ち着いた様子で顔から掌を離し、「わたしやっぱり苦手や、キミのこと」とくすくすと笑いました。「誰にも言わんといてな、今のこと。はやくいきな」彼女は私の体を反転させてから背中を押しだしました。
そんなところにおったんかい。はよ帰るぞ。という祖父の言葉にうなずいてトラックに乗ると少女は母親の後ろで小さく手を振っていました。熱の残る頬を抑えながら、祖父に諭すように叱られつつ、彼女の嫌う田舎の夜を帰りました。
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