第8話

 私は祖父母のところへ戻ろうと思っておったので躊躇いましたが、それを示すにはあまりにも体調がすぐれておりませんでした。立ち往生している私に「ゆうくんの家、遠いし、死んじゃうかも」と彼女。私はその「死」という言葉に縮み上がりました。それが現実に顕在し得たかどうかは判断できません。彼女の家から祖父母の家までは実際はそれほど遠くないので、きっと苦労せずに家に着いたでしょう。けれども歩くのが遅くて道すがら凍え死んだかもわかりません。兎も角として、私はその言葉に甘えることとしました。罪は死の恐怖に屈服したのでございます。私は氷漬けにされた足をなんとか動かして水を被ったような彼女の後ろ髪についてゆきました。

 彼女が倒れこむように玄関に手をかけ、今にも流血しそうなほど赤い指先で引き戸をゆっくりと開くと、ぱたぱたと音を鳴らしてやってきた母親が驚いたように声を上げました。彼女はちょっと雪遊びをしていたのだと言い、着替えを持ってくるよう頼みました。彼女が自室で着替えをしている間、私は洗面所で、痛いほどに悴む手でずぶ濡れの服を脱ぎ、体を拭いてから母親の持ってきた大きな男物の衣類を身に着けました。その後リビングに連れられ毛布にくるまりながら深紅に灯る電気ストーブの前で座っておると、長い髪の毛をタオルで拭きつつ真っ白なセーターを着た彼女が現れ隣に座りました。「私もいれて」自然、彼女との距離は近くなり、肩も触れるほどでした。けれどもそれに欲情するほどの余裕は当時の私にはなかったのでございます。私たちはしばしの間、母親の出してくださった生温かい緑茶を飲みながら黙っておりました。想像以上に体の冷えていたようで、ニクロム線から発される真赤な光が痛みを感じさせました。母親があれ以上事情を聴くことはありませんでした。キッチンで何やらをする音と耳元の吐息だけが私の耳に届いております。いえ、娘の連れてきた、小さな村に突然現れた少年をきっと怪しんでいたはずです。怪しんだ上で口を噤んだのでございます。彼女にもそれを追求できるだけの余裕がなかったのだと今では分かります。しかし当時の私はそれを娘への信頼に由来するものだと、彼女に対して気を使ったのだと考えたのです。ストーブの熱が額や頬、掌から足の指先までを温め、赤みの戻ってきて震えの治まった私の体に、今度はゆったりとした気分がにじり寄ってきました。私の意識は現実と空想の間を彷徨い始めたのです。朦朧とした意識の中で私は、しだいに彼女と旧来からの馴染の関係にあるような錯覚に陥りました。私はどこまでも己に甘い人間です。水に濡れ艶やかに黒光りする髪を胸元まで垂らし、ストーブの熱に生気を取り戻した白い頬をかざしている姿はとても少女のそれではありません。彼女の跳ねるような長い睫の内側、深い陰影のある瞳の上、赤いニクロム線が松明のように佇んでおります。絹のような肌の、紅葉色の横顔の伴う艶麗な赤紅色の口元は、いつかのテレビドラマで見た、バーの一人席に座り思案に暮れる女のものでした。いえ、そのテレビドラマの場面を見たとき、私はこの時の彼女の表情を思い出したのです。母親がリビングを出て行ったその隙に彼女はまた、熟した林檎のように真っ赤で艶っぽい唇で小さく、うそつき、とそう呟きました。その言葉は私を殴る鈍器そのものであり、また金の矢でもありました。ごめんと返すと、「いいけど」と彼女はすぐに許します。そのことがより一層私を申し訳なくさせるのです。それからどうして連れて行こうとしたのかと尋ねてきました。答えは初めて例の展望台へ行ったときに彼女の残した言葉と自らの欲望に集約されました。けれども前者を伝えることは責任の一端を押し付けることと同じで、また後者を伝えることは自らの矜持が許しませんでした。答えに詰まった私は、結局、暇だったからといつかと同じことを言って視線を下げました。絨毯に新芽の模様が描かれていたのを覚えております。さすがの彼女もこの時ばかりは訝しむと思ったのですが、彼女はそう、とだけ呟いて掌を再度ストーブにかざしたのです。

「信じるの」

「信じないよ。でも別にそれでいいかなって、君がそんな風に言うなら」

私は飲んだお茶が腹の中ではすっかり冷めていることに気が付きました。頭の中のいかなる思索も泡のように消え、ガーゼを詰め込まれて思考がぼやけるようです。しかし彼女の瞳はいつかと同じく、汚れを知りませんでした。

「いいや、ごめん。俺は今嘘をついた」

「そうなの。じゃあ本当はどうして」

「本当は、そう、なんとなくだよ、なんとなく」

「違いが分からないよ。それに、キミは悪い人なの、嘘をつくのは悪い人だってお母さんが言ってたけど」

「あぁ、いいや、俺は悪い人じゃない。だから、そう、今までのは全て本当」

「なにが本当なの、けっきょく」

「全部本当だよ。だから俺は暇になって、なんとなくあそこに連れて行こうと思ったんだ。ただそれだけ」

「じゃあ、それでいいんじゃない」

 少女は抱えた膝にあごを乗せて、小さくため息をつきます。彼女は話を信じていないようでも、信じているようでもありました。信じないと言葉で言われても、私には彼女が以前と同じ様子でみえていたからです。閉鎖的な村に現れた知らない少年を受け入れた時とも、そいつを展望台まで連れて行った時とも、同じ姿形をしていたのです。その時の彼女は。私の記憶が間違っているのでしょうか。都合のいいように作り変えているのでしょうか。当時の私にとって彼女は無垢な存在でした。清廉潔白の汚れを知らない少女でした。そのようであってほしいと願うから、そのように思い返されるのでしょうか。いいえ、それも違います。いつか彼女はこの時を、揺らいでいた、とそう話したのです。

君って、自由だよね。わがままともいえるけど。

その呟きは明らかに私に向けられたものでした。暗がりの中にザクロ色の一本の光だけがぼうと浮かんできます。体の節々まで冷たく動かなくなる感覚が、背筋を駆けあがっていく悪寒が私の視界を狭くしました。

どう。あたってる。

ぎゅるりと二個の眼が現れました。のぞき込んできたのだと遅れてわかります。真っ直ぐな瞳のなんと恐ろしきこと。彼女は、実は、全てを理解してなお甚振っているのではないかと疑うことすらありました。けれども、怯えながら見返しても、それまでのことを振り返ってもそれらしい反応を見せなかったために、彼女はいよいよ彼女らしいのだと理解したのです。彼女の質問に、外れているとは答えられませんでした。きっとそうなのかもしれないと心の内で思うことのみ。言いあぐねていると彼女は姿勢を元に戻してくあとあくびを漏らし、それから吐き捨てるように言いました。

 でも、そんなものなのかもね。わたしたちって。

 そんなものって。

大事ってこと、自分が、一番。他人が大事じゃないわけではないけど。なにかをしようとしたとき、なにかが起こったとき、自分のやりたいことを優先しちゃう。

 きみもそうなの。

 言ったでしょ、わたしたちって。わたしも含まれてる、当然。みんな自分の事ばっかり考えちゃう。自分の頭しかないから、考える道具が。しかたないんだよ。

少女の黒い瞳が言葉を待つように見上げてきます。当時の私には反論できませんでした。できたならこのような話もしなかったでしょうから。私が何も言えずにいると分かると、彼女は「いやだなー」と間延びした声で呟いて、以降しばらく口を閉ざしました。ある暗さを伴う色香を漂わせる瞳に赤色の光が灯っているのを見て、不意に私は彼女のか細い肩を抱きしめてやりたくなりました。いえ、あの時電気ストーブの前で物思いに耽る十歳の少女のことを心に思い描きつつ、いま私はそのようにしたいのです。

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