第7話

 翌日はからりと晴れた、天気の良い日でございました。夜中はより一層冷え込んだのでしょう。降り注ぐ光に一面の雪は輝いておりました。先日彼女が残した言葉を思い出し、この景色を例の展望台から見ることができればさぞ美しかろうと思いました。山々が雪に覆われ、一本に繋がる村が真白な雪の中に沈んでいるのです。私はその姿を思い浮かべてわくわくとした気持ち以外の感情を失ってしまいました。くるぶしを優に超える厚さの雪を避けるように若干凍った車跡の上を進んでいると、それまでとは違う村の姿が見えてきます。

 地面の土くれや小石は姿を消し、川と土手の際には白波が立っている。地蔵の頭には雪が降り積もり、払ってやると水に濡れた石頭が出てきました。橋の手すりに手を置くとぱらぱらと積雪が崩れてゆきます。車のボンネットの上にちょこんと雪だるまが乗っていました。

 神社の鳥居をくぐり、拝殿へ続く階段に座っていた長靴の少女に展望台へ行こうと提案してみます。彼女は一度、小さな驚きを以て目を見開きましたが、かぶりを振っていいます。「絶対滑ってケガする。雨降ったばっかりだし、昨日」呆れたように言った言葉は当然のことでありました。けれども当時の私には知らぬ話で、大丈夫だろうという自信がございました。或いはそれ以上に雪に覆われた村を彼女と見たかったのかもしれません。彼女の先日の言葉を叶えたかったのかもしれません。


「絶対大丈夫だから」

「絶対いやや、わたし怪我したくないもん」

「少しだけ、少し見てくだけでいいから、絶対きれいだって」

「登るのが怖いんだって、少しとかじゃなくて」


 私は不安を零す彼女の手を引っ張って小学校へ向かいました。凍った地面に足を滑らせるたび彼女は体をびくつかせて私を責めたて、泣き言を言いました。「言わんこっちゃない。転がり落ちるよ、山だったら。やっぱりやめようよ」しかし私の耳には一向に入ってきません。何かあったらどうするのと彼女は立ち止まって叫びました。何とかすると二三歩進んでから答えました。すると、彼女の実直の瞳が私の瞳を捕らえ、やがて観念したように本当にきれいかなと聞いて、適当に作った雪玉を私に投げつけてきました。知らんと弱って答えると再度雪玉が放物線を描いて飛来してきました。投げ返してやりました。私は不意に、小学生たちのこの厳しい坂道を毎日通う理由が分かったような気がいたしました。


 ジャンバーの内側に入り込んだ多くの雪と首元のそれが服とマフラーに吸収され始めたころ到着した校庭には、一切穢れのない真白な雪がひたすらに広がっておりました。風に吹かれて粉が薄く舞い、音もなくきえてゆきます。その景色にはたりと立ち止まった彼女は何を考えているのか、当時はとんと見当がつきませんでした。そしてまた、たとえ今の私が当時に戻ったとしても、まともな言葉をかけることは出来ないでしょう。少し待ってから、例の展望台へ連れてゆかんと引っ張った彼女の体は、一瞬、根のはっているかのように動くことがありませんでしたが、やがてするりと、自ら根の末端を引きちぎってその場から動き始めました。


 雪は上部の木々に多くを遮られ、地面の上にはうっすらとだけしか積もっておりません。地面は思いのほか濡れておらず、踏みつけるたび潰れる霜がしゃりしゃりと小さく音を鳴らします。最初のほうは彼女の言葉に従い一歩一歩確かめつつ歩いていたのですが、やがて要領を得た私は、先日と違い怯えて進む彼女の前を得意に進んでゆきました。制止する声も聞かず、あえて先日の仕返しをするように振る舞ったのでございます。ふと木々の隙間に視線を動かすと、校庭の雪の海に足跡が一列に残っておりました。


 そうして、次の一歩は空を踏みました。


 ずるりと、右半身はいつの間にか一段低い場所にあったのです。その時の恐怖と焦りを一体なんと表現できましょう。どんな言葉を以てしても筆舌に尽くしがたいのでございます。階段を踏み外した時の一瞬に感じる僅かなそれらが何十倍にも濃縮された戦慄と為って一挙に私を襲ってきたと言えば微かにでもわかりましょうか。覚悟も予兆も予備動作も無しに、ジェットコースターの落下部分に到達したとでも言えましょうか。ひゅっと空気の抜ける音が小さく、けれども確かに響いたのでございます。

 内臓がふっと浮かび、息が詰まって世界がモノクロに映りました。続いて短い金切り声が耳に飛び込んでくると同時に、体は、服の引っ張りによる明確な抵抗を振り払い、地と平行に山を転げ落ちてゆきました。ぐっと目をつぶり、まるで棍棒で打撲を浴びせられているようでございました。怖くて怖くて仕方がありませんでした。あれほど恐ろしい体験をするのは後にも先にもこの時だけでしょう。夜中の路地裏を歩くよりも、人前で話すよりも、人の機嫌を損ねるよりも、生命の危機にリアルな切迫を覚えたのです。私は叫び声を腹の内にため込み、歯を食いしばって、体の自然に止まるを待っておりました。幸い、その時はすぐに訪れました。氷のマットが私の身を包んだのでございます。体の激烈な熱は急激に冷やされてゆき、再度耳鳴りの裏から現れた金槌の如き叫び声が脳を殴り、舞った粉雪が白波のように私の面に降りかかってきました。雪はいくばくか肌を滑り、やがてじんわりと溶けてゆきます。風が木々のざわめきを呼び起こし、川の流れる音が近くから聞こえてきました。


 直後、少女の金切り声が脳裏で反響し、遠い空を彷徨っていた意識は鉛の体へと帰ってきました。私はすぐさま体を起こそうとしましたが、地を抑える両腕はずんと沈み上手くゆきません。どうにかしようともがくほどに沼のように沈んでゆくのです。このまま無限に沈みやがて自らの光が途絶えるかと思うと、それもまた恐怖を覚えました。地面(実際は雪が押し固められただけかもしれませんが、兎に角固いところでございます)に手がついてようやっと動悸の落ち着いたころ、私は立ち上がり、ピクリとも動かずに雪に臥す彼女の姿を見つけました。その瞬間、脳裏で過去から未来にかけてのすべてが黒い光に塗りつぶされてゆきました。この時の、先ほどとは別種の恐怖をこれまた一体どう形容したらよいでしょうか。所謂『血の気も引くような恐ろしさ』というのが正しいのでしょうか。生まれたての小鹿の如く足は震えて近寄ることも遠ざかることもできなかったのです。その壊れかけの木偶の如き足がまともに動いたのならば、私はきっと、すぐさま近寄って懺悔をしたでしょう。体を抱きかかえて、急いで坂を下って何とか寛容を試みたでしょう。けれども、私はやはり所詮猿に過ぎなかったのでございます。心の内で仕方なかったと自己弁護するばかりだったのでございます。


 呻き声が一つ。それがきっかけ。すぐさま駆け寄って十分に濡れて冷え切った彼女の体を起こすと、瞼は僅かに震えつつも開き、その光沢のある黒い瞳を露わにしました。さむいと。赤く染まった弱々しい拳が私の胸を貫きました。


 安堵したのもつかの間。私の体は思い出したように芯まで冷え込み、がたがたと携帯電話のバイブレーションのように震えはじめました。服の中に雪が入り込み、融解し、冷たく濡らしていたのでございます。何より大変なことは、どうしてか、風が強く吹き始めたことでございました。手は真っ赤に染まり、吹き付ける風は真剣そのものでございました。彼女は立ち上がって自身の体と私のそれとに視線を動かし「かえる」と仄かに呟いて校門へと歩み始めます。髪には銀色の綿が付着し、その足取りはふらついておりました。長靴は厚い雪を切り開いて進んでゆきます。後ろをついていくほかになかったのですが、その間にも体は刻一刻とその末端から感覚を失わせてゆくのです。靴はすっかりびしょ濡れになってしまい、もはや足の脛までは温度を感じ得ないほどでございました。

 静謐な緑色のトンネルは慈愛の光を遮り視界を暗ませ、私たちの体をより一層震え上がらせます。陰に入るたび、針の如き風が私の体の至る所を貫いて痛覚を鋭く刺激しました。私は道中何度も雪の上を転びました。そのたびに彼女は振り返り、手を貸してくれましたが、その手を取ることは私の沈み込んだ傲慢な心が拒絶いたしました。震える、細く亀裂の入った赤色の慈悲を受け取ることを、己の罪を自覚し、よしとしなかったのでございます。しかしまた、そのたびに彼女の見せる報われない救済者の表情がいかにも私を苦しくさせたのでございます。

 なんと女々しきことでしょう。私は結局それまでの仕方のない人間だったのでございます。彼女は直視するにはあまりにも実直すぎたのでございます。これらのことは今となっても覚えておりますが、次彼女が「一旦家寄ってって」と青紫色の唇で微かな声をかけてくるまで、その他一切のことは記憶にないのです。学校の前の坂を下り、程近い彼女の家の小道の前へ来るまで、何を成したか、何を話したのかは不明なのです。私が彼女にどれほど酷いことをしたのかもわかりようがないのでございます。


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