第6話

 彼女の手を堪能する暇もなく、山の斜面にできた小道が見つかり、彼女はそこをぐいぐいと登ってゆきました。


こんなところ登るのか。と聞くと、

大丈夫だって、そんな距離もないし。案外楽勝だよ。


と無邪気な笑みを浮かべました。山道はやはり歩きにくいもので、何度も立ち止まっては笑われてばかりでございました。息も絶え絶えにようやくついたのは季節に相応しい、乾いた冷たい風の吹き付ける例の展望台でございました。

 ひょいと顔をだして足元を覗いてみると、紐につながれた大きな丸い板があります。「ここからはね、村がほとんど見えるの。きれいでしょ」顔を上げてみれば、確かに、二つの山に挟まれた一本の川のような村が一望できました。なるほど橋はそこで、地蔵の並ぶ一枚岩はそこで、毎年寒天をくれる家はあそこにあって、うちの家はその奥にあってと、私は改めてこの村の地理を把握しました。しかし抱いた感想はそれだけで、ここに何の思い入れもない私からすれば、低く位置する黒雲も相まってきれいとは少々受け入れにくい感想でした。私の納得のいかない表情に気づいたのか、彼女は「きみもいつかわかるよ、そのうちね」と目を細めて付け足しました。

 そんな言われ方でしたので当然、彼女は当時の私の持ち合わせていない何かしらを持っているのだろうとわかりました。そしてそれが所謂『大人になれば子供のころ苦手だったものが食えるようになる』に似た子供と大人の精神性あるいは経験の違いによるものだと考えたのでございます。当時の彼女が同年代の人たちに比べて、あまりにも大人びて見えたからです。小学校にいる誰よりも落ち着いて、理性的でいるように映っていたからでございます。私は少々不快な気分に陥りましたが彼女がくるりと反対を向いたため消化不良に終わりました。


 私は今でも、今だからこそこの幼き少女の言葉を思い出して嘆くことがあります。決して小さな事でなかったのです。もしこの言葉の真意を知っていたならば私は親身になって慰めの言葉をかけたでしょう。私の知っていた彼女はいつでも深い意図を持っているようでした。先ほども書いたように理性的で、物事を把握していると思っておりました。けれども事実はそのどれとも違ったのです。彼女はただ事情を正しく見つめて、正しく取り込めない、フリーズした状態だっただけなのです。


「ここもね、昔描いたんだ。今は持ってないけど」彼女の自慢げな横顔は若干の夕の光に映えておりました。その表情は既視感がありながらも、今までの彼女のどれとも違うようでもございました。私にはいよいよ彼女のことが分からなくなってしまいました。


 けれども慰めるとして、彼女になんて言葉をかけたらよかったのでしょう。いつでも戻ってこれると、友達はどこでもできると、あるいは大変だったねと、一緒にどうにかできないか考えようと。そんなことでも伝えればよかったのでしょうか。いいえ。彼女に対して起こる事象は、この時点ですでにすべて起こってしまっていたのです。すべては過去に完結してしまっているのです。変わりうるのは彼女の心持だけですが、それについても彼女は処理しきれずフリーズしてしまっていたのです。どんな言葉を使おうと無意味なのです。すると彼女に必要なのは時間だったのでしょうか。

 考えても仕方がありません。過去を振り返って変わるのは自分の心だけです。懺悔と言い訳を履き違えてはなりません。




陰鬱として寒々しく、空は密雲に覆われております。ごうと吹き付ける風に視界に映るすべての草木がゆらゆらと揺れていました。

なんで絵なんて描いているかって聞いたよね。

彼女は雲と地平線に挟まれた青い空を見つめて言いました。


絵っていうのはね、確かめるために描くの。わたしの知ってる景色が正しいかどうか。正しく残すために描くの。だから別に、下手でも全部を描けていればいい。無くなったって破ったって捨てたっていい。大切な場所を忘れないようにするために、描くの。


じっくりと、ゆっくりと、艶やかなくちびるが誰かを諭すように言葉を紡ぎました。


本当に無くなってもいいの。

ごめん。すこし盛った。でも別に、わたしのやりたいことは記録することじゃないから。落ち込みはするだろうけど、問題はない。


「そんなもんか」

「うん、そんなもん」

 私は予想外のつまらなさに落胆しました。というよりも、言っていることが理解できなかったのでございましょう。何気なしに蹴った小石は展望台の縁から気配を消します。私は彼女の言葉を頭の中で反芻してみました。




 唐突に彼女が小さく呟きました。雪だ。私が顔を上げると同時に、彼女は手のひらを天に向けました。腕を伸ばし、指を開くその動作はさながら慈悲を与える女神のようでございました。雪に手を伸ばすのでなく、手を伸ばして雪を生み出したような神秘さだったのでございます。私ははっと息をのみました。宙から舞い降りる極小体は銀色に煌めく贈り物でございました。ふわりと、手のひらに乗っては音もなく消えてゆきます。彼女の手を以てしても、人間というのは雪にとって温かすぎるのでございましょう。私は数年ぶりの雪の降り始めるに興奮が隠せませんでした。いつもは降っている最中か止んだ後しか見えないからです。雪、きれいだね。と柄にもない言葉を思わず口に出してしまうと、彼女も少しだけ動揺し、顔を俯かせました。太陽が強く輝き、厚い雲を透過し、地上を包んだような気がいたしました。どうかしたかと尋ねると、しかしこちらを見て、何でもないよと微笑を浮かべるのでございます。そうだね。きれいだね。彼女は再度、すぐさま振り返り、地平線向けて手すりに凭れ掛かりました。


「好きなの、ここ」そして、誰に向けたともなくぽつりと呟きます。足先で軽く地面をたたき、指先で雪と戯れ、茜さす彼女の横顔にほのかな火の玉が触れたとき、頬にほんの小さな一滴が現れ、不意に零れた何事の言葉は、私の耳に、その端々だけを微かに届かせたのでございます。その時の村に向けた表情を以前のように覗き見るわけにはいきません。しかしきっと辛かったろうと思われます。

「冬休みの終わりまでこっちにいるんだっけ」「一月の四日までかな、予定だと」「だったら神社にいるから、明日。よかったら」帰り道は別れ際、私の来ることを信じて疑わないように言いました。神社(後から知りましたが、実際は神社と寺院の融合した場所だそうです)は村の一番東にあり、毎年秋になれば祭りが開かれて甘酒とお汁粉の配られる場所でございます。夕暮れ時、路上に立つと、雲と山の間から夕陽が差し込んできておりました。私はその日初めての太陽を拝んで思わず胸の躍るような、弾むような、そんな感覚を覚えたのでございます。




 夜になっても晴れた気持ちは変わりませんでした。テレビでは年末特番が放送され、こたつの周りでは笑い声が溢れておりました。「雨が降ってきたな」窓の外を見てお祖父さんが言葉を漏らします。

 夜のふけるごとにこたつから人が減っていきます。まず従兄弟家族が隣の家に戻り、お祖母さんが寝室へ向かいます。それから少し経って弟も、お祖父さんに連れられ布団へ向かいました。

 それから私は、戻ってきた祖父と近況を話し合いました。小学校での生活とか、習い事とか、普段していることとかについてです。私がつらつらと話している間、祖父はあごに右手を添えて表情を変えずに私を見ておりました。元気そうでよかったわ。これからも頑張ってな。と最後に言い残してこたつを出ていったのでございます。祖父とそんな話をすることはこの時が初めてでしたので、私にはまだ糸のピンと張られた緊張が残っておりました。神経の立ったような状態で、今寝ようと寝付けないことは明白でした。テレビではいつのまにか番組が変わり、今ではよく見る芸人が新人として漫才をしておりました。その顔と語り口が印象的でよく覚えていますが、内容の方はとんと思い浮かべることができません。

 こたつの中の炭はもう朽ちており、点火したばかりのストーブが吐き出すような熱の残りが漂うばかり。しかしその場から動けずにいました。

 静かな夜だと、テレビの音が聞こえてくるのに、そう不思議に感じた覚えがあります。

同時に、静かとはこのことを言うのだろうとふと思いました。出所のわかる音だけが聞こえ、出所のわからない音が聞こえてこない。車の吹かす音も、若い衆の叫び声も、子供の泣き声も、そもそも正体すら不明な音も、「どこ」や「なに」が欠如している音が何も、ない。音に関する情報が完結している状態を静かというのだと思いました。

 その静かの中で心が静まってゆくのが手に取るようにわかります。刺さっていた細い針が一本ずつ抜き取られてゆきます。

 紐を引っ張り部屋の電気を消します。寝室のガラス扉の奥で淡い赤色光。その中間、左手にはめったに使われない正式な玄関があります。私は大きな一枚板の衝立に自分の姿が映っているのを見つけました。

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