第5話
「一緒に凧揚げ行く?」
そのようにゆうくんとかずくんに聞かれたのは、翌日朝食をとったのち、こたつに潜り込んで暗闇のなかで赤く灯った炭を見つめているときでした。急に白い光が差し込んできたと思ったら、かずくんの顔がそこにありました。私は冷気に皮膚を傷めつつこたつから這って出ました。きっと彼の眼には、その時、真夜中の井戸から現れる四つ足の化け物のように映っていたことでしょう。私はすぐさま行くと返事をしました。
小学校へ向かう道は、どんよりとして暗い雲の下にあります。道中、川のせせらぎが大きく聞こえてきました。一枚岩を過ぎ、橋を過ぎ、旭小中学校と書かれた矢印の先には長い坂道が続いております。慣れていない体には厳しいもので、上りきるころには息が切れ、背を曲げずにはいられませんでした。ゆうくんとかずくんはそんな私を見て、大層愉快に笑っておりました。それから額から滲み出る汗を拭い取り校門へ向かうと、休日にもかかわらず校門が開いております。その違和感はいつまでも拭えないのですが、二人に連れられ夏祭り以来のこの学校へ入りました。
顔を模した黄色い板が見下ろす広い校庭には人っ子一人おりません。ゆうくんは橙色の大きなショルダーバッグから真っ赤な凧を取り出しました。この時期になると毎年凧揚げをしているので、準備は手慣れたものでした。風は南に向かって吹いております。かずくんが糸を持ち、ゆうくんが凧を持ち、凧が風をつかんだ時、手から離れふわりと舞い上がりました。かずくんが進み始めると、凧は糸の続く限り高く上ってゆきます。凧が落ちてこないように、彼は、わーと叫びながら一通り校庭を走り回りました。宙に浮かぶ白い紐がぴらぴらと風になびいて、さながら川の流れのように見えました。息切れを起こして紐を渡してきたので、私も同じように叫びながら校庭を一周走りまわりました。体は運動をして熱いのに、胸に入り込んでくる息はひたすらに冷たい。その感覚がなにやら楽しく思えたことを覚えています。皮膚は冷たく、体の内は熱く、口と喉と胸の内側が微かに冷えている。当時はそれが不思議な感覚で面白かったのです。
今となってはもう未知の発見に対する歓喜も程度が薄くなってしまいました。記憶の消費が私に客観的視点をもたらしたのです。常に客観が冷静を取り戻させます。所謂「慣れ」というものです。人は未知の体験そのものにきっと慣れを感じてしまいます。この時の主観ばかりの私はどうしても自らの領域でしか事象を確認できませんでした。だから熱気と冷気の共存にすら興味を覚えたのでございます。
同じようにゆうくんも校庭を走り、それで凧揚げはお開きとなりました。「疲れた。寒い。帰りたい。ゲームしたい。ほんとに寒い」とはほっぺたを赤く染めたかずくんの言です。わざわざ凍てつくような寒さの中で体を動かすより、こたつの中でぬくぬくと、ゆったりと、ゲームをする方が楽なうえに楽しめるからでございます。「帰ろ」と二人に呼ばれるのですが、しかし私には帰るつもりがありませんでした。というのも、小学校の校舎が、雲の合間を縫って差し込む太陽の光で照らされていたからでございます。「先に帰ってていいよ」「何するの」「少し学校見てくる」「何にも面白いことないよ」「それでもいいの」私は右手を振って二人を門から追いやりました。
校庭から向かって左側には体育館が、右側には校舎が並んで建っております。竹馬などが並ぶ校舎のほうへ歩いていくと、その裏にもう一棟建物があることに気が付きました。さながら南棟と北棟といったところでしょうか。どちらも細かいひびと蔓をまとう古い校舎でございます。私は自分の通う小学校を思い浮かべました。小高い丘の上にある小学校です。古い建物は旭小学校よりも大きく、校庭は小さい。私が六年生のころに改修工事が始まりましたが、そのときはプレハブ校舎が並び、部活もできないほど手狭になってしまいました。きっと今では塗装も剥がれておらず、廊下に亀裂も入っていない綺麗な校舎があるのでしょう。なんだか懐かしい気持ちになってしまいました。そういえば改修工事が生徒に知らされる少し前、階段真上の天井の塗装を剝がして怒られたことがあります。どうせ建て替わるのでしたら一部を剥がしたところで叱るほどの事でもないと思いましたが、今になって思えば、教育とはそのようなものなのでしょう。教師は規範に従って、倫理に従って行動しなければならないのだと思います。彼らもその程度の悪戯、子供時代にしなかったわけがありません。つまりやってはいけないことだという認識を持たせることが大事なのでございます。子供は本来的に無知だからです。善悪などのあらゆる観念が経験による主観で処理されてしまうのです。そう考えるとやはり、小学校は人の土壌を育むという観点で欠けてはならない過程なのでしょう。
さて、二棟の間にはノースボールとバンジー、その他の草花の並ぶ花壇があり、囲まれるようにして彼女は佇んでおりました。瞬間、炭酸を勢いよく飲んだ時のような、カッとした喉の痛みが私を襲いました。私は立ち止まって驚かずにはいられませんでした。あの時と同じ状況です。初めて彼女を見かけたときと同じ状況でございます。柔らかそうな白い頬の寒さに赤く染まるは、いかにも可憐で艶やかで、なにより儚げでした。風は左右の建物に遮られ、雲の動く音が聞こえます。声をかけると顔を上げ、不思議そうにこてっと首を傾けつつも、その意表を突かれたような表情のまま躊躇いがちにカイロを握った手を振ってきました。そこには先日見せた悲壮感の残滓が漂っているようにみえました。
なんでここにいるの。
かずくんとかと遊びに来てて。
え、かずくん。いるの、ここに。
いや、さっき帰った。
そう、よかった。そういえばすごく楽しそうだったね、さっきの。何してたの。
私は恐ろしく恥ずかしい気持になりました。顔の火照るという言葉そのままの状態です。私は思わず口元を手で覆ってしまうほどに落ち着かないのです。
そんな恥ずかしがらないでいいじゃん。
忘れてほしい、あれは。
忘れないよ。私は。忘れない。この村で起こったことは。
なにそれ。
おまじない。自分に言い聞かせてるの、忘れたくないから。
私はさらに深いところまで尋ねようと思いました。けれども彼女の顔が春先で見るひな人形の如く優しげで、なにより影を練り込んだような黒髪が暗雲のもとで鈍く輝いていたため、黙ることしかできなかったのでございます。
「それより見て。昨日より上手く描けてるでしょ」そうして掲げて見せます。確かに線の揺れは治まったようでした。つまり彼女の画力は本来に近づいたということです。しかしやはり上手ではないと思われました。確かに視界の全てを細かく描いているようでしたが、それが画力に対して分不相応なために、乱雑な印象を受けるのです。花壇を囲むレンガの一個一個から隅の小さな雑草まで、体育館前の靴入れのスリッパから校舎のひび割れの一本一本まで。恐ろしい執念に気づくと同時に写真ではだめなのかという疑問が浮かびました。「だめだよ」彼女はぴしりと間髪入れず答えました。その眼はとても真剣で、尋ねたことを申し訳なく思うほどでございます。「それじゃあ意味がないじゃん」じゃんって、知るかそんなもん。と思わず口に出してしまいそうな言葉をぐっと堪えました。また、では、彼女の言う意味とは何だろうかという疑問も湧いて出てきました。けれどもそれは聞いてはいけないデリケートなことなのだろうとも分かっておりました。
この時にはすでに、私の彼女に付き添う理由は、一緒にいたいからという下心に過ぎなかったのでしょう。幼いながらに彼女を憧憬していたのでございます。また恋慕の情の対象でもございました。もちろん儚さゆえに心配であるという気持ちも確かにありましたがただひとえに初心な少年は、刻一刻と変化する奇妙な少女と一緒におることを望んでおったのです。当時の私は知らずの内に彼女の彼女らしさに甘えていたのでございます。
私は彼女の絵を描くを眺めておりました。そうすればするほどに、私の彼女に投げつけた言葉があまりにも心無いものに思われてきました。その筆はただ丁寧なのです。丁寧すぎるのでございます。一つも逃してはならないという脅迫のもとにあるようでございました。私はせめて邪魔にならぬようにと口を噤んでおったので、そこに響いていたのは彼女の鉛筆の滑る音と風に揺れる草木の音、そして時折鼻のすする音だけでございました。鼻も耳も指先も瞼も、体のすべてが冬に拒絶されているように冷え切っておりました。「そうだ」何かを思いついた彼女は言い、校舎裏の物置に椅子を戻しました。陽はまだ高く、終わるにはあまりにも早すぎると思っていた私に彼女はにやりと笑いかけるのです。「ついてきて」私の手を引っ張り、山に沿って進んでいきました。その手は氷でも触っているかのような冷たさと絹のような滑らかさがありました。
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