第3話

 翌日も冷え込んだ朝でございました。普段は布団から出るのも一苦労なのですがその時の私は違いました。私は目の覚めると同時に布団を飛び出し、眠る弟を飛び越えて真赤に灯る石油ストーブで暖まった一室へ入りました。祖母がトーストとミルクティーを出してくれました。石油ストーブの上部では使い込まれたやかんがしきりに水蒸気を放っております。私はすぐにでも先日の少女のところへ行きたいという思いに駆られましたが、見覚えのあるテレビ番組を機に時計を見るとまだ八時にも回らない頃だったので、はて、こんな時間から絵など描く人がおろうかなどという考えが脳裏に浮かび、結局悠々と朝を過ごすことにしました。

 炬燵に入り、気持ち程度の宿題を終えたのは十時ごろでありました。それから少し出てきますと伝えて玄関の戸をくぐりました。色濃い日陰から体を出して日の下に出たとき、思わず目を細めてしまうような青空がありました。もちろん冬の山にふさわしい程度には寒かったのですが、それを上回る清々しさと陽の暖かさが包んでいたのです。その後意気揚々と先日の場所へ向かいました。少女の家です。その時の太陽な眩しさと言ったら、手を翳しても一向に目を開くことができないほどでございました。しかし彼女はおりませんでした。今日は描かないのか、それとも午後からなのか、私にはとんと見当がつきませんでした。そして本人がいないことにはどうしようもありません。先日初めて会った少女の家に、あるいは真に少女の家かも分からない家にノックをして尋ねる度胸などありませんでした。せめて予定を聞いておけばと思いつつその場を去ることといたしました。




 昼下がり、二時ごろ。私は再度例の場所へ向かいましたが、やはり誰もおりませんでした。手持無沙汰になって、しかしここですぐに戻ってはいよいよ怪しまれると思った私は先日逡巡したのちに渡らなかった橋を越えることとしました。幅二メートルほどの小川にかかる小さな石橋です。心地よいせせらぎの音を聞きつつ渡った先には上り坂が続いております。けれどもそこにあるのは畑と鯉の泳ぐ池を持つ一軒の家だけでしたので、すぐさま撤退の音頭が上がりました。そうして橋に一歩を進めた際、川沿いの道でこちらを向いた例の少女を見つけたのです。私は己のしていることを顧みて将来に対する一抹の不安を覚えましたが、かぶりを振り、先日と同じ格好の少女のもとへ進みました。相も変わらずな彼女は驚いたように私を見つめました。


あれ、まだいたの。昨日きりで帰ると思ってたのに。


帰るのはもっと後だよ。


 次いで、間延びした返事。彼女の後ろに回りその絵をのぞこうとするも、さっと隠されてしまいました。「人の描いてる絵を勝手に見たらだめだよ」そうして睨んできました。見せてもらうよう頼むと、胸に抱いた木板を躊躇うことなく私に向けました。多少なりともごねられると思っていたために目を見開いていただろう私を、彼女は不思議そうに見ておりました。途端、なんだか自分が捻くれた人間のように思われたことを覚えています。それから視線から逃げるという理由もあり、絵に顔を向けました。それはやはり下手な風景画でございました。絵には明るくないのですが、隅の隅まで描こうとしてかえって乱雑なみにくい絵となってしまったような印象を受ける、そんな絵です。それはもちろん線をまっすぐ描けていないことを差し置いてもです。「もっとうまく描けないの」今に考えてみれば非常に無礼な言葉でございました。けれども彼女は気にする様子もなく、ただこれでいいのとだけ答えます。ついで彼女はこんな話をしました。


この川には梅雨の時期になるとたくさんの蛍が集まる。たくさんの蛍がみんな一匹ずつ輝く。すっごくきれいで、ふわりと浮いて、そっと消えたと思ったら、またぱっと輝る。毎年お母さんとか友達とかと必ず見に来ていた。


 大体こんなことです。私は蛍を見たことがなかったので共感できませんでしたが、彼女にとって大事なことは、口に出して話すという行為そのものでした。何の脈絡もないように思えたその話も彼女にとっては深い繋がりがあったのです。手の動きをぱたりと止め、しばしの間心ここにあらずといった様子で辺りを眺めました。また椅子に鉛筆やら木板やらをおいて、辺りを歩いて周りました。その姿は躍るように伸びやかで眠るように緩やかな姿とも見えましたし、飼い主に無理やり引っ張られる動物のようにも見えました。すなわち、そこにいようという意思があるにもかかわらず、何かより大きなものに動かされているような抵抗をその足取りに感じたのです。事切れた人形に埋め込まれた二つの水晶は日の光を明るく反射しておりましたが、雲がかかり、ある時ぐんとその暗さを増しました。すると彼女ははっと目を見開き、半ば露に濡れたる目元を袖で拭います。両手で頬をぱしんと叩き、痛いと手を握った彼女に尋ねました。


「なんでそんなもの描いてるの」


 当時のわたしには先日と異なる答えが返ってくるという妙な自信がありました。彼女は両手をこすり合わせしばし考える素振りをしました。目を細め柔らかな瞳とニヒルな口元を露わにして言ったのは、「描きたいから」という言葉でした。私は人の、期待通りにならないことを再確認しました。




 彼女はまた絵を描き始めました。川沿いの茂みに何やら点と円を描いては消し、描いては消し、そんなことを繰り返しておりました。その時強烈な風が辺りを襲いました。木々が騒めき、片手で押さえられた紙の端が勢いよく木板を叩いておりました。彼女は遠い空を――正確に言えばもう随分と傾いた太陽を――見上げ私に尋ねてきました。今って、何日だっけ。その顔があまりにも悲壮感に満ち溢れており、答えるのは躊躇われました。それが単なる確認とは異なる、意味を持った問いであると分かったからです。私にはこのとき、正直に答えるべきか適当にはぐらかすべきか、想像もできませんでした。体は指先まで冷え切っておりました。しかし彼女はこちらを向いて、圧をかけるようにもう一度尋ねました。「ねえ、今って何日」「二十八だけど」と私はなるべく口を開かずに、彼女が聴き取れるかどうかという大きさで答えました。彼女は俯いて引き攣った笑みを浮かべました。「そうだよね。もうそんな時期だよね」そうして鉛筆を持たない方の手で長い髪をかき上げました。その姿は昼下がりの暗い部屋の中、椅子に座って物思いに耽る女の姿を想起させました。やけに艶っぽい動作に見蕩れていた時、またも一陣の風が道を通り抜けていきました。紙が空を舞い、太陽の光が揺らめいて見えました。私の手の伸ばすも虚しく紙は高く飛び、勢いよく地面に落ちてきてから地面を滑り、川へと吸い込まれてゆきます。少女は慌てる様子もなくその一連を眺めておりました。「いいの」と尋ねると「いいよ、べつに。仕方がないよ、今のは」と彼女。その口ぶりは達観した様子。それから何事もなかったように手慣れた様子で片づけを始めます。

「いっしょに帰ろっか」と彼女は微笑みました。道中、彼女はさまざまなことを話しました。迫力満点で雄大な周囲の山々の景色。裏山を登ったところで夏に咲く白い花。山中で見かける小動物。せせらぎの音を聞きつつ、上流へ向かうときの胸の高鳴り。学校近くの坂道の大変さ。野焼きの煙と臭い匂い。動物によって掘り返された畑を見たときの悲しさ。そういったことを捲し立てました。具体的内容こそ明確に覚えておりません。しかしただ確かなのは、これらを話す彼女の顔に活力があり、とても楽しげで、また誇らしげであったことです。

「君はどこら辺に住んでるの」「名古屋の昭和区っていうところ」「しょうわ、って聞いたことある気がする、どっかで。調味料?」「今が平成で前が昭和。それで聞いたことがあるのかもしれない」「ああ、そっか。同じ名前なんて、なんかすごく、変な感じ」この時の私は元号の仕組みを知らなかったので、確かにその通りだと不思議に思ったものでございます。昭和区は都会かと聞いて来たので、私は普通くらいだと答えました。私は家の周りのことを彼女に話してみました。首の痛くなるほど高いビル。張り巡らされた地下鉄。大型ショッピングモール。「想像もできないや」しかし彼女は要領を得ないような表情で曖昧に相槌をうつのみで、会話は途切れてしまいました。


白いね、息。


 躊躇いがちに口を開き、これ見よがしに息を吐いて、くしゃりと笑います。そうだね、というほかに私には言葉がありません。その時の笑顔はここまでの彼女とはわけが違うように見えました。私にはこれが本当の彼女なのか、それとも絵を描いているときの彼女が本当なのか分からなくなってしまいました。彼女は普段からこうなのです。時に悲観的で、時に優しく、時に明るく、どれが彼女の姿なのか分からなくなってしまうのです。彼女の姿は一面的ではありません。同時に多面的であるとも言い難い。密接に繋がる複数の顔なのです。そして彼女はあまり多くを語る質ではありませんでした。

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