第2話

 扉を出たところで凍てついた北風が山から降り注ぎ、私の頬を貫きました。震えた手をポケットに突っ込み、やっぱり帰ろうか、という考えが浮かんでくるほどに皮膚が痛みました。顔を俯かせると雑草が弱々しく芽を出しておりました。私は自分の発言を撤回するのが恥の上塗りのように思われましたので、風の後押しがままに進むことにいたしました。敷地から出ると風は止み、足も止まりました。山へ入ってはいけない。それだけが両親からも祖父母からも禁止された事項で、私も慣れぬ山には無類の恐怖を覚えておりましたから、歩くのはもちろん舗装された道路だけと決めておりました。いえ、山に恐怖を覚えるというのは少し誤りで、無暗に山へ立ち入ることに躊躇いを感じるのです。蛇が出るとか虫がいるとか、そんな物理的なものではありません。手の入っていない山そのものが何か大きなものに見えて、吞み込まれてしまうような、なにか罰当たりな気がするからです。この際そんなことはどうでもいいのですが、とにかく私は山へ入らなかったのでございます。

 集落は北から山、民家、道路、田んぼ、道路、川、そして山の順に並んでおります。私はとりあえず左、すなわち東の方へ進むこととしました。太陽が右手後方で輝いており、背景の青く澄み渡った空はけれども所々に細長く伸びる雲も合わさり、まるで白い下地のキャンパスを青色で下手に塗りつぶしたようでございました。それでいて配色もグラデーションもしっかりしているのですから大層気に入らず、顔を空に向けるを止め、行くあてもなく足を進めていくほかありませんでした。赤い布を首に巻いた地蔵の並べられた背の高い一枚岩の前を通り、橋を渡るべきか否か逡巡したのちに渡らず、山と田んぼと民家だけで一向に変わらぬ景色に飽きが訪れたころ脇道に入り、坂を上りきった処を過ぎようとしたとき、道の中央で椅子に座り、震える手元と目前の家との間でしきりに視線を動かす童子がいるのを見つけました。身長からして年は当時の私と同じほどと思われました。こんな外れの道で、いくら晴れていようとも真冬のこんな寒い中座っておるなどよほど変わった性格の持ち主か変態に違いないと思ったものでございます。

 頭を覆うフードから漏れたる髪は影を織り込んだような艶やかな黒色で、身に纏うベージュのダウンコートに、その胸元あたりまでかかっておりました。

 光の波が表面を優雅に滑ってゆく光景に私ははたと立ち止まりました。足音に驚いてこちらを顧みる顔は筆舌に尽くしがたいほどで、私はいつの間にか精巧な絵画に立ち会っておったのです。私は先ほどの印象をすぐさま訂正しました。この黒く清純で長い睫に覆われた、物問いたげにこちらを見つめる瞳はどうしてこれほどまでに蠱惑的で、他者と交わりがたかった私の心を一瞬にして奪ったのでしょう。異界に迷い込んでしまったかのような錯覚にとらわれました。異様な光景でしたが、その異様さがより少女を神秘的なものにしたと思われます。長い髪の風に靡く姿はさながら冬の精霊で、私は傀儡でございました。

 彼女は二度睫を羽ばたかせ、そうして考えるように眉を顰めました。ふっくらとした白い頬のほんのりと赤く染まるは私に彼女もまた人であることを思い出させました。途端に顔が熱を帯びました。格好のせいで後姿うしろすがたは小太りに見えましたが、その顔には余計な肉などついておらず整然としております。私は口元すら動かすことが出来ず、視線だけを交わしておりました。彼女は、すると、口ごもった声で私に何かしらを尋ねましたが、それは言葉というにはあまりにも不明瞭で形を成しておりませんでした。その後、意を決したように大きく息を吸い込み、こほこほと小さく咳をしてから、はっきりとした声音で尋ねてきました。

「どこの子、キミ」私は姓名を名乗ろうとしました。けれども緊張からか、はたまた寒さからか、口元が震え容易に話せませんでした。そうして口を開いたとき、ここらでは家名で名乗るのが一般的であることを思い出しました。春先のひな祭りの一環として各家のひな人形を見て回り、同時に菓子をもらうというハロウィーンのような習慣があるのですが、その際「どこの子」と聞かれ、祖父母の姓を答えたものの分かってもらえず、恥をかいた(それが恥であるかどうかは判然としませんが、当時の私にとっては多大なる恥だったのでございます)経験がございます。後に家名で名乗るのが普通と母に教えられ、なぜそんな風習がと思ったものです。彼女の尋ね方は老婆のそれと一緒でございましたので、私の脳裏によもやという予感が走りました。私は慎重になっていたのでございます。口を開いたままの奇妙な表情が数秒間続きました。力強い瞳が私をさらにどぎまぎさせました。私は迷ったのちに、すっかり乾ききった口で祖父母の家名を答えました。「あー」と視線を漂わせる少女。しまったと思いました。すぐさま祖父母の姓に訂正すると彼女は「ああ、かずくんの」と納得したように微笑みました。かずくんとは私と同じ年のいとこの愛称でございました。その笑みは安堵と安らぎをもたらしました。しかし一方で、私の胸に空気が、明確な質量と曖昧な形相をもって入り込んでもきたのです。「どうしてここに」「少し散歩をしていたのです」そんな会話をしてようやっと、少女の鉛筆を握る素肌に気づきました。彼女は膝にのせた木版の上の紙に目前の家を描いておったのです。その右手は悴み、震え、赤く染まっておりました。

 日差しが翳りを帯び、途端、輝いていた彼女の姿に途方もない弱々しさと儚さが付与されたように感ぜられました。細い腕も色の薄い唇も先端の赤い鼻も僅かに細められた瞼も、際立って私の目に飛び込んできたのでございます。いえ、彼女に内在するそういった印象が表面化したと言ったほうが正しいでしょうか。私は幼いながらに居た堪れない気持ちになり(私は時折このことを思い出して己という人間の身勝手さを恥じることがございます)、尋ねました。「どうして絵なんて描いているのですか」彼女は言うか言わまいか悩むそぶりを見せた後、そうだねー、という間延びした前置きと共に続けます。「どうしてもこうしても、描きたいから描いてる、じゃあダメかな」それだけの理由でこの雪も凍るような環境にいるというのがどうにも信じられず再度尋ねるも、彼女の答えが変わることなどなかったのです。


だめかな。

風邪をひいてしまいますよ。

いいよ、風邪くらい。わたし、体強いし。


 ペン回しをしようとしたところで鉛筆は指先から宙に飛び立ち、地面に舞い降り、乾いた音が二三度、転がり、私の足元まで届きました。「なら、いいと思います」私はそれを拾い上げ彼女に返してやりました。「それで納得するんだ」と彼女は驚くとも笑うともとれぬ表情をしました。「まあいいや。ありがと。あと、敬語なんて堅苦しいから使わないで」私は一呼吸置いてから分かったと答えました。「うん、おねがい」彼女は、けれども気にしていない様子でそう言うと、もう一度紙の上に鉛筆を滑らし始めました。覗いてみれば描いているのは確かに目前の家でありました。しかし手の震えが影響しているのでしょう、線は左右に大きく揺れ、家は緩い粘土を無理やり乾燥させたようでございました。


 ごうと木々が靡きます。彼女は口元を両手で覆うと深呼吸をしてから再開します。下唇を噛み、寒さに必死に耐え忍ぶ姿は脆く今にも壊れてしまいそうでした。指先でちょっと触れただけでばらばらの氷片となってしまいそうだったのです。今でなくともいつか害となって外に現れることは明らかでした。同じ動作だけを繰り返す止まることの知らない機械が、全身にひびを入れ、鎮座しておったのです。見るに堪えませんでした。しかし彼女がやるというのですからやはり私に止める術はなかったわけで、そうは言ったものの心配せずにはいられません。そこで、せめて彼女の家に戻るまでを見届けようと思いました。そこには何の利害もありませんが、とにかく居ようと思ったのです。彼女はしばらくの間(それは体感でしたので、実際にはほんの数分間かもしれません)他に惑わされることなく手を動かしておりましたが、その後

顔を上げると怪訝な様子でいつまでいるのと聞いてきました。当然のことでございます。いくら同年代とは言え見知らぬ男が側にいるなど恐怖でしかありません。けれどもその瞳に宿るのは純粋な疑問のみで、汚れを知りませんでした。「描き終わるまで」「なんで」「ひまだから」彼女は私のほうに向き直りました。その瞳と視線が通ったとき、私はすぐに視線を落としました。くすりと小さな、ささやくような笑い声が耳をくすぐりました。「じゃあそろそろ帰ったほうがいいよ。もうすぐで日も落ちちゃう」空を見上げてみれば、確かに、暗い青色の空が広がっておりました。彼女は立ち上がり「じゃあね」と言ってその家へ椅子を引き摺って行きました。――と思うと、思い出したように私の下へ駆け足で寄ってきて、


今日のこと内緒でね、かずくんとかには。許さないから、話したら。


 魔法をかけるように、人差し指を口元に添えるのです。愛嬌のある微笑を湛えた口元とそれに封をする人差し指、ウインクをする茶目っ気のある透き通った瞳に悪戯っぽい表情のすべてが私を捕らえて離しませんでした。小動物のように小走りで去っていく彼女が家の扉を閉めるまで、私の心は彼女に向いておりました。いえ、それからずっと彼女に囚われたままだったのです。私は半ば幻の中にいるような感覚でオレンジ色の帰路につきました。祖父母の敷地に入るころ、真赤な太陽は体のほとんどを山に隠し、欠片ほどの形のみを成しておりました。




 暗くなるまで外に出ては危ないとひとしきり叱られたのち、私はその夜を、例の少女と会えた嬉しさ、ある種の秘密を共有できた興奮、そしてまた、ばらしてはいけないという緊張感の三つに迫られてそわそわと浮ついた気分で過ごしました。未だに彼女はこの世の者ではないと思うほどでした。少女に対する神秘性がどこに起因するかは私の知らぬところでしたが、現在になって思い返してみれば、単なる偶然だったように思われます。当時の私の心理状態と彼女のいた状況、出会い方、日の当たり方から風の吹き付け方まで、そういったものの歯車の全てが丁度よく噛み合って一時を構成したのです。

 その夜はあっという間に過ぎてゆきました。いつもは食いつくように見るテレビ番組も宿題も何もかもが手につきませんでした。何をしようと悪戯顔やはにかむ笑顔が私の思考に割り込んでくるのです。弟に何をしていたのかと聞かれる度に、適当に歩いていたと言うのですが、その内ではあの少女と相まみえたという優越感が勝っておったのです。寝ている間も寝ていない間も夢の中にいたのでございます。

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