女子トイレ

13 女子トイレ


大学1年生 梅雨 新理



梅雨になり、雨の絶えない毎日。大学構内もにわか湿度が高い今日この頃。とうとう直らなかった頑固な寝癖を香田新理こうだしんりは手で撫で付けた。


連日の雨で気分は下がっているというのに、前髪のあたりだけは朝からぴょんとはねて元気そうだった。


新理は前髪をしきりに気にしながらサークル部室へと向かう。彼の所属するサークルとは古都研究会。お世辞にも人気があるサークルとは言えないが、彼は気に入っていた。ドアを開けると冷気がすーっと足元に当たる。部室内はこれでもかというほどクーラーが効いていた。古都研究会の部長、田渕たぶちが新理に気がつき椅子に座ったまま振り返る。



「お疲れ、香田君」



何故3つあるサークル等の最も古い棟に、しかもこの弱小サークルにクーラーが?というのも、古都研究会の部室には何故か鍵付きの学校の資料棚が置かれている。おおよそ弱小サークルが故に物置にされているのだと以前田渕が話していた。つまり資料保持の為に設置されたクーラーをこれ幸いと利用しているのである。



「今日も雨よ。ほんと勘弁して欲しい。電車は遅れるし、肌はベタつくし、髪の毛は広がるし……これからどんどん暑くなっておまけに就活始めなくちゃなんないし……」



田渕は快適な部屋にいる割に暗い表情で愚痴をこぼし、机に顎を乗せると深くため息をついた。



「大変ですね」


「本当よ……あーあ誰かが勝手に私の好きそうな勤務地をいくつか用意してくれればいいのに。ていうかどこも人は足りてないって言ってるのに内定率が低いって何?意味がわかんない……昔より良くなったとか聞くけど昔とか知らないし……」



新理はいつか自分もこうなるのかと田渕を眺めていると、彼女が視線に気がついたように顔を彼の方へ向け、すぐさま笑顔になった。



「香田君、寝癖ついてるじゃん!かわいい!」



個人的には『かわいい』よりも『かっこいい』と言われたい、と新理は思った。


田渕はひとしきり笑うと背筋を伸ばし「そういえば」と話し始めた。



「香田君が好きそうな部誌をいくつかピックアップしておいたよ。こないだの話、すごく面白かったから」



こないだの話、とは前回サークルに集まった際「暑いから怖い話をしろ」という田渕の要望に応え新理は同窓会での肝試しの話をした。彼女にはかなり好評だったようだ。ちなみに部誌は歴代の物が部室の奥に何百冊もある。そこから選出するとなるとかなりの骨の折れる作業だったに違いない、と新理は考え田渕に礼を言った。



「どれを読めばいいのか見当がつかなくて困っていたんです。ありがとうございます」


「いいの、部長なんだし?たまにはいい所見せなくちゃね」



彼女は照れ臭そうに笑った。



「部長は文芸部の方が向いていそうなのにどうしてここに入部したんですか?」


「当時の古都研の部長がものすごくイケメンだったからよ」



不純な動機に新理は田渕への尊敬の眼差しを即座にやめた。とはいえ、彼は彼でサークルをサッカー1本に絞らず出会いを求めて古都研究会に入部している為何も言えなかった(余談だが今の所女性関係の出会いはこのサークルにおいては皆無である)。


部誌の一冊を手に取りめくると、田渕が言った。



「8月か9月に香田君も部誌を作ってね。一応活動の一環だから」


「こんなに分厚いのを?できるかな……」


「まぁ、10ページくらいあればいいわ。表紙、裏表紙、もくじで3ページは稼げる。あとは写真で埋める。この手法はレポートでも使えるわよ」



得意げに田渕はそう言うと、続けてあっと声を上げる。



「そうだ、テーマが決まらないならこの間言ってた大学の怪談!あれをまとめてみたら?大学だって古い歴史的建造物の1つなんだから全然アリよ」


「相変わらず広範囲ですね、でも楽しそう。考えてみます」


「そうでしょう。範囲が広い方が新しい発見も多いしね。えーっと怪談は“封鎖された階段”に“サークル棟の空き部室”……“3階の女子トイレ”だっけ?知らないだけで他にもきっとあるんじゃないかな。ほら、あとは写真を撮れば良いだけよ」



新理の通うこの大学にはいくつかの怪談が囁かれている。春の飲みサー新人歓迎会で新理はほんの少し面倒な事態に巻き込まれたものの、結果的には良い方向に転がったので、今では彼の良い思い出の一つになりつつある。


それはそうと田渕の提案を聞き、新理もなんとか部誌制作に乗り気になってきた。


しかし、彼には一点懸念があった。



「あの……さすがに俺が女子トイレを撮影するのはちょっと……部長撮ってきてくれませんか?」


「いやよ。私興味ないもん。高橋たかはし君か中岡なかおか君に頼んだら」



“3階の女子トイレ”は大学の東館の文字通り3階に存在する。昨年、その女子トイレ内で心霊写真が撮影され一時期生徒の間で話題になり、今では大学の怪談の一つとなっている。


田渕にさらりと断られ、新理は困った様に顎に手を当てた。せっかく意気込んできたテーマが写真撮影ができないせいで白紙になるのは少し悲しい。しかも同サークルの高橋・中岡は男で、撮影に赴けば彼ら共々怪しげに見られることは想像に難くない。もしもトイレを利用する生徒に出くわしたりなどしたら最悪だろうと新理は考えた。



「それか夜に撮れば?昼に比べて人気はないでしょ」


「夜……」



田渕の一言に、新理はある事を閃き、スマホを取り出した。



「まぁ怪談を知ってる人は“3階の女子トイレ”なんて絶対に使わないから……今行っても人はいないと思うけどね……」



彼女のこの呟きは、残念ながら新理には届かなかった。



*



夜の21時。大学の最寄り駅に一際目を引く腕組みをした女性、新理の幼馴染、深瀬晶ふかせあきらがそこにが立っていた。


すらりとした身長に指通りの良さそうなストレートヘアを揺らしながら、大きな琥珀色の目でじろりと新理を見た。顔立ちが端正なので不機嫌な時はすぐにわかる。



「なんで私が新理君の資料写真撮影に付き合わなくちゃいけないの」


「本当にごめん。でも他に頼めなくて……」



晶は“予感”を察知できる不思議な能力の持ち主。新理は彼女のその“予感”に期待していた。もしも“3階の女子トイレ”に“何か”がいた場合、彼女なら絶対に察知できる筈だからだ。それを激写できれば資料の見出しとしても相応しい。それに万が一トイレの撮影が誰かに見つかったとしても女性である晶がいれば怪しさも回避できると考えたのだ。


彼女は不機嫌ながらも、シンプルな白いTシャツにグレーのジーンズという活動的な格好をしていた。



「これから学校に行くけど、撮影だけしたらすぐに帰っていいから……っていうか……深瀬、終電平気?」


「多分平気。それより勝手に大学に侵入しているのが見つかったら困るの私なんだけど」


「“3階の女子トイレ”の場所は大学の東館で研究棟じゃないから大丈夫だと思う。それに大学生1人1人の顔なんて誰も覚えてないよ」


「見つかったら新理君のせいにするからね」



文句を言いながら、晶はおもむろにトートバックから眼鏡を取り出してかけた。普段は裸眼の彼女だが、読書やPC作業時などに眼鏡をかける。おおよそ変装のつもりなのだろうが、珍しい晶の眼鏡姿に新理は興味深々で見つめた。



「何」


「いや、眼鏡似合うね」



新理がそう言うと、晶は拳で彼の肩を横から軽く叩いた。



*



「あっちが大学の東館。手前の西館から渡り廊下で繋がってるけど東館には外階段があるからそこから入る。少し歩くよ」



新理は得意げにそう言うと、大学敷地内の等間隔に並んだ外灯をなぞる様に歩き始めた。持参したカメラで夜の校舎を数枚撮影していると、斜め後ろから晶の軽ろやかな足音が聞こえる。



「建物がモダンでいいね。明るい時間にちゃんとみてみたい」


「夜だと、かなり不気味だけどね……今度改めて来てよ。学祭とかでさ」


「それはちょっと楽しみかも」


「ほんと?ああ、見えてきたよ。あれが東館ーー」



新理がそう言いながら東館を指差すと、1階の廊下の窓に白い閃光が横切った。目を見開いて彼は思わず足を止める。



「今、何か……」



新理は晶の方へ振り向くと、彼女も東館を見たまま立ち止まっていた。



「ふ、深瀬、今1階に……」


「……え?1階?」



新理は晶の不思議そうな顔に、唾を呑みこんだ。




今、自分にしか見えなかったのか?




「新理君?」


「な、なんでもない。行こう」



新理は引きつった様な笑顔のまま前を向いた。早まった鼓動を落ち着かせる様になるべくゆっくりと歩く。


後ろにいる彼女の複雑そうな顔には気づかずに。



生徒も普段使用する広く大きな外階段を上り、2人は東館3階の扉を開けた。普段は開け放たれているが夜になると扉は閉じられる。新理の大学の研究棟は24時間、その他は22時まで開いており警備員が巡回する。


長い廊下をまっすぐ行った先の突き当たり、そこに“3階の女子トイレ”はある。


新理はスマホのライトを点け、足下を照らしながら歩き始める。長い廊下は夜の闇のせいか、いつもよりも距離が伸びた様に感じた。


すると突然、晶が新理のTシャツの裾を握った。新理は足を止めすぐに振り向くと、思ったよりも近くにいた晶と体が少しぶつかってしまう。驚いて一歩後ろに下がると、彼女は大きな琥珀色の瞳を新理に向けていた。



「……どうしたの?」


「足音が聞こえる」



いつになく心配そうな彼女の声を聞き、新理は周囲の音に耳をすませた。


分厚い靴底の音と、金属が擦れる様な音が廊下の向こう側から聞こえてくる。その音がするのは“3階の女子トイレ”がある方角だった。音がどんどん2人の方へと近づいてくるものの、隠れる場所もない直線の廊下に2人は立ち尽くす。


音が一番近くに達した瞬間、目の前が白い光に包まれた。



「おお!?生徒さん?驚いた、こんな時間に何してるの?」



懐中電灯からの白い光に2人は手のひらで光を遮る様に顔を背ける。その人物は、構内の見回りに来た年の若い警備員だった。



「あ、いえ。その……」


「今日の夜提出〆切の課題用USBを探しに来てたんです。彼、この辺に落としたみたいで」



狼狽える新理のかわりに、背中に隠れていた晶が顔を出し、はっきりとした声で言った。



「そ、そうです。さっき家で気がついて……」


「そうだったの。USBは見つかった?」


「はい、さっき、無事に。今帰るところです……」


「そう、じゃあ一緒に下まで降りようか」


「……はい」



晶と固まったままの新理は顔見合わせて、2人は深くため息を吐いた。



*



分厚い靴底の音と、金属が擦れる様な音。それは警備員の足音と彼の持つ鍵の束の音だった。



「忘れ物の時でも、夜の大学構内を歩くときはなるべく警備員に伝えてからの方がいいよ」


「すみませんでした」



2人が謝ると、彼は弱く笑いながら話を続けた。



「でも生徒さんでよかったよ。話し声が聞こえて足早に3階に向ったんだ。もし不審者だったらどうしようかと思った」


「はぁ、それは本当に……」



新理の見た白い閃光は、懐中電灯の光。思っていた正体とは違うことが判明し、新理は肩を撫で下ろした。



「驚かせてすみませんでした」


「いや、こちらこそ。それじゃあ暗いから気をつけて。課題も頑張って」



2人はお辞儀をして東館を後にした。優しい警備員で新理はホッとしたような、しかし複雑な心境で歩く。


すると、またもや彼女がぐいとTシャツの裾を握る。晶の方を振り向くと彼女はそのまま上を見上げた。彼女が見上げた方向を新理も見ると、そこには真っ黒な影が立っていた。


場所はくだんの“3階の女子トイレ”の窓。室内は真っ暗なはずなのに、なぜかはっきりと影の形がわかる。影は左右にゆらゆらと揺れている。



「あれは……」



唖然とする新理に、晶は何も言わずにゆっくりと頷く。


先ほど、新理が警備員の懐中電灯の閃光を見て驚いていた時、彼女も足を止めていた事を新理は思い出した。あの時、彼女は1階ではなくあの影を見ていたのだ。


新理は窓を見上げる晶の横顔を再度見ると、彼女は何故か悲しげな顔をしていた。


影をずっと見つめていると時折なぜか耳鳴りがする。黒い影は、あの冬の同窓会、肝試しで見た影にとても似ていた。



『話し声が聞こえて足早に3階に向ったんだ』



あの時、2人はほとんど会話をしていない。


彼は一体、誰の声を聞いたのだろうか。


じっとりとした汗をかきながら窓を見上げる2人を、梅雨の生暖かい風が通り過ぎていった。



*



「あ。写真、構内を3、4枚撮っただけだ」



駅への帰り途中、新理がポツリと呟く。晶は眼鏡をしまいながら新理に釘を刺すように言った。



「……トイレは昼間に外観を撮るだけにしておきなよ」


「うん。……にしても、面白い写真は撮れなかったなぁ」



すると彼女が「カメラ貸して」と手を差し出した。新理がカメラを渡すと、その場でシャッターを切りながらぶんと腕を振り回した。



「これはどう?」



手渡されたカメラに映る写真は、夜のわずかな街の明かりと、濡れた路面に反射した光がかなりブレて写っていた。新理からすればなんの変哲も無い夜景だが、何も知らない者が見れば少し恐ろしいかもしれない。



「いつの間にか撮れてた写真とかにすればいいんじゃない」


「すげー即席心霊写真。そう言われてみればそれっぽく見えるかも」


「でしょ」


「にしても、晶ちゃん。すごいねその“予感”。的中率はかなりのものじゃない?」



“廃病院”、“封鎖された階段”と来て今回“3階の女子トイレ”のこともあり新理は写真を見ながら嬉々として話す。



「全然。こんなの、大したことない」



冷たく言い放つ彼女の声に新理は驚いて顔を上げる。数歩前にいる彼女の顔は新理には見えない。



「じゃあ、またね。今度呼び出す時はお昼にしてよ」


「あ、うん!昼飯奢るよ」



ぱっと振り返った晶はいつもの笑顔で新理はほっと肩を撫で下ろす。彼女と共に改札を抜けると、そのまま晶は小さく手を振りながら駅のホームへ続く階段へと歩いて行く。



「深瀬!」



彼の呼び声に、晶が顔を上げる。



「深瀬はやっぱりすごいと思うよ」



晶は何も言わず弱く微笑みながら階段を降りて行く。彼女の姿を見送りながら新理も別のホームへと降りて行った。



駅のホームで1人、電車を待つ晶はぼんやりと足の爪先を見つめている。風で時折頬に張り付く髪を耳にかけ、肩に下げたトートバックの持ち手を握りしめた。



『深瀬はやっぱりすごいと思うよ』



新理の優しい声と、電車の到着音声が響く。



「でも、私じゃあ、誰も助けられない」



彼女の小さな声は電車の音にかき消され、夜の闇に溶け込んでいった。



女子トイレ end

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