本棚


11 本棚


大学1年生 冬 新理



冬休みに入ったばかりのある日。

気まぐれにサークルの部室に立ち寄ったばっかりに、大学の図書室の大掃除を手伝うことになってしまった。


「暖かいから大丈夫」と言う彼女の笑顔を頼りに図書室の扉を開けると、途端にひやりとした風が首筋を通り過ぎ、彼は思わず上着のチャックを上まで上げる。


大掃除の際は埃が舞うため少しだけ窓を開ける。図書室は広く、窓も多い。当然の事を忘れ部長について来てしまった自分に、ほとほと嫌気が差しながら外と変わらない寒さに香田新理こうだしんりは絶望した。



「あとで暖かい飲み物でも奢るから」



古都研究会部長の女性、田渕たぶちは先ほどよりも嬉しそうな笑顔でそう言った。


この田渕の友人が文芸サークル所属らしく、人手が足りないようで手伝いを頼まれたところに丁度新理が部室に顔を出したというわけだ。



「さっき藤本ふじもともいたんだけど、テニサーがあるからって逃げたんだよね。さすが香田君。あいつとは違うね!」


「そもそもなんで俺たちが掃除を?」


「図書室の大掃除は文芸サークルの毎年恒例行事らしいの。

そりゃ掃除してくれる人はいるけど、棚や本までは行き届かないんじゃない?」



「私もよくは知らないけど」と田渕は付け加えた。



「ここの図書室の本は虫干しとかしないんですか?」



新理は手をすり合わせながら夏にバイトをした仲村の古本屋をふと思い出した。



「よく知ってるね!

でも、最近は図書室や図書館で虫干し自体をやってるところは少ないと思うよ。環境自体が本の保存に配慮した設計になって湿度の調節もできて虫がついたり、かびたりしにくいの。あとは紙自体の質も変わってきてるからそもそも虫がつきにくくなってたりするしね」


「それは知らなかった……てか部長物知りですね」


「こう見えて高校は文芸部だったからね。

まぁさっき友達から聞いたんだけど」



部長からスラスラと言葉が出てきたことに新理は驚きと尊敬を覚えたが、その一言ですぐに忘れてしまった。



*



大掃除を始めて1時間程度経ち、掃除も終わりに差し掛かると全員で手分けして窓を閉め始める。


すると部屋の角にある、小さな本棚が新理の目が止まった。

他とは明らかに高さも小さい古い木の棚でかなり埃被っている。


小さくて誰かが見逃したのか、それとも大事な本だから掃除ができないのかと理由を探す。しかしぱっと見さほど重要そうな本は見当たらない。この棚が発見されればどうせやるのは自分だと思いながら、本に気を使って新理は軽く埃を布巾で払い取った。


一番上の棚に並べられていた本を何気なく手に取りめくる。


すると、後ろから誰かが短い声をあげた。


振り向くと、掃除に参加していた上級生の女子生徒だとわかる。

サボったところを見られ思わず本を後ろに隠し、新理は怒られる事に身構えるが何やら様子がおかしい。まるで怯えたような目で新理の方を凝視している。



「あの」


「本、戻して」



新理の問いかけに被せるように一言発すると、彼女はそのまま緑のロングスカートを勢いよく翻し、踵を返す。慌てて本を戻すと、新理は彼女の後を追った。



「すみません。勝手に触っちゃ駄目な本でしたか?」



彼女は遠慮がちに振り向くと、焦った新理の顔を見て申し訳なさそうに頭を軽く下げる。



「ごめん、急に叫んで。びっくりしたよね」



いたって普通に謝られたが、顔は曇ったままだ。



「いえ、あそこ勝手に掃除しないほうがよかったですか?

わざとじゃないんですけど……埃がすごくて……」



彼女はばつが悪そうに視線を逸らしたまま口を開く。



「……今から言うこと変だと思うし、信じなくてもいい。

私自身が関わったことじゃないから、確証はない。

でも本当の事だから」



新理は彼女の言葉の意図がつかめず困惑する。

彼女は服の袖を握りしめると、小さな声で言った。



「……あそこの本、呪われてるみたいなの。

読むとその後、誰かが……“来る”って」


「え……」


「それじゃ」



新理が質問をしようとすると、図書室の施錠の為退出するように田渕部長から促され本棚を調べる暇もなく部屋を出る。

彼女もこれ以上話したくないのか足早に去って行ってしまった。



*



田渕に鍵を借り古都研究会の部室に戻ると、先ほどのことが気になった新理は学校の歴史について部室にある資料やネットで調べ始めた。


古都研究会の部室には、鍵付きの学校の資料棚が置かれている(多分弱小サークルだから物置にされている)。


しかし本は購入したか寄付されたもので、とくに目立った内容は記されてはいない。



『あそこの本、呪われてるみたいなの』



あの本棚に並べられていた本も特に呪いと関連性のあるものには思えなかった。新理がめくった本は「すぐ役に立つ 家庭の医学」という本だったからである。内容は全く覚えていないが呪いと関係は低いように思えた。


この大学にも怪談話はいくつか存在する。封鎖された階段、サークル棟の空き部室、3階女子トイレの話等……。大学に入学し一年が経とうとしているが、新理が図書室の本の呪いの話を聞いたのは初めてであった。


考え込んでいると、軽く部室のドアを叩く音がした。


田渕なら勝手に入って来るだろうと思い、奥の部屋にいた新理はノックを無視した。




「だれかいる?」




甲高く抑揚がないその声に、ぞくりと鳥肌がたった。


田渕の声とは全く似つかない。

それに彼女なら今部室のドアに施錠がされていない事を知っている。その上ノックをするのは異様な行動に思えてならない。


新理は返事をせず無言のままじっとドアを見つめる。




「だれかいるー?」




また、声がした。


よく聞くと甲高いものの、しゃがれたような声だと気がつく。開けるのも、返事をする事もしてはいけないような気がして新理はそっとファイルを棚に置きドアから目が離せず、体を強張らせる。


すると静寂が訪れ、新理は誰かのいたずらかとホッとした。



『あそこの本、呪われてるらしいの』


『読むとその後誰かが』


『“来る”って』



先ほどの会話がふと脳内に繰り返し再生される。



次の瞬間、ドン!と物がドアにぶつかったような、まるで拳でドアを叩いているかのような勢いのある音が部室内に響き、驚いて体が跳ね上がる。




「出してーー」




ドアを叩く音と、ガリガリと爪で何かを引っ掻く音が交互に響き、新理は思わず持っていたコートを被って耳を塞いだ。


耳を塞いでも聞こえてくる高いしゃがれ声に震えが止まらない。

この状況下で新理は考えたくはないことが頭をよぎる。



まるで、新理じぶんにドアを開けさせ、招かせようとしている。


『あそこの本、呪われてるらしいの』


それとも外でなく、もう部屋の中にいるのではないか?


『読むとその後誰かが』


いや、そんなはずはない。そんなはずはない。


『“来る”って』



突っ伏すように頭を抱えたまま体を丸め、震えと寒気とともに嫌な汗が彼の背中に流れる。



田渕部長、先生、高橋、中岡、誰でもいい。


早く 誰か早く 誰か



「新理君」



彼女の呼ぶ声が頭に浮かんだと同時に、スマホのバイブがポケットで小さく唸る。


極度の焦りと不安に押しつぶされそうになりながら、震える手でポケットからスマホを取り出し、新理はメッセージを送った。



*



しばらく無言を決め込んでいると、声は消えたが今だに持続的にドアを叩く音と引っ掻き音は消えない。しかし次第に音は弱まり、ついに消えた。


すると遠くから大きな足音と音楽が聞こえ始め、部室のドアを開ける音がする。

近づくその人にゆっくりとコートをめくられた。



「何してんの?」



大音量で吉幾三の「俺らこんな村いやだ」を流しながらサークルの1学年上の先輩、藤本が不思議そうな顔で覗き込んでいた。



藤本はバッグの底にあった中華スープをマグカップに淹れると、新理に1つ差し出した。

新理はお礼を言いながらゆっくりスープを飲むと、少しずつ落ち着きを取り戻しゆっくりと息を吐いた。



「“陽気な音楽を流しながら何も言わずに部室に来てほしい”

なんてメッセージが来たから、罰ゲームの類かと思ったぞ。

丁度テニサーに顔出してて帰るところだったからいいけどさ」


「ありがとうございます。あんな文面を見て来てくれて」


「お前顔色悪いな。なにかあったのか?」



新理は一連の 大掃除から今に至るまで全てを藤本に説明した。


説明を聞くと藤本は珍しく神妙な面持ちでスープを啜った。



「図書室の本……誰かが“来る”……?

聞いたことない話だ。危害は加えられてないんだよな?」


「信じてくれるんですか?」


「お前の顔色を見て温かい飲み物を出してやらねば、と思ったくらいだぞ。

こんなこと聞くのも悪いけど悪戯とかじゃなかったか?

田渕部長が仕組んでるとか、声が誰かに似てたとか」


「わからないです。

俺が知ってる人の誰とも違う。甲高いような……でもしゃがれていて……

確かに誰かがドアの外にいる感覚がありました」



甲高い声、ドアを叩く音、引っ掻き音……どうにかなりそうで、コートかぶって耳を塞いでいた先ほどの事を思い出す。やはり誰の声とも似つかない。


藤本は新理の言葉に耳を傾けると、スープを全部飲み干し席を立つ。



「よし、その先輩に話を聞こう。何か知ってそうだし。

部長に連絡取れ。掃除に来てたなら文芸部だろうからすぐにわかるだろ。

「藤本が話を聞きたい」って言っているといっとけ。

俺のオカルト好きを知らない奴はこの学校にはいない」


「藤本先輩も行くんですか?」


「当然。真偽を確かめに行く」



藤本はリュックを背負い、「絶対にオカルト関係だから気になっているんだろう」と思いつつもスープを飲み干すと新理は「ありがとうございます」と呟いた。



*



田渕に連絡を取ると、すぐに返事が返って来た。

彼女の名前は森田もりた。田渕とはゼミが同じで親しく、藤本の見立て通り文芸部で、渋々会ってくれるとのことだった。自宅へすぐ帰宅してしまった為、大学から数駅離れた駅前のファミレス2階で待ち合わせになった。


窓際の4人席に並んで座った新理と藤本はドリンクバーを飲みながら森田という女性を待った。



「すぐ自宅に帰るなんて絶対に何かあるな」


「よっぽど俺と関わりたくなかったみたいですね」


「中途半端に言葉を濁して出て行くなんて一番あやしい行動だ。

森田さんが悪戯をしている可能性も否めないぞ。

お前はもっと人を疑っていい。一番怖いのは人間なんだぞ」



新理の隣にいる藤本は、いつも半ば強引で真意の定かでないオカルト話を信用しているやや情けない人物にはとても思えなかった。



「それに心霊関係だとしたら重大な事件だろ。お前には知る権利がある。

このままじゃ対処のしようもないしな」



藤本はかなり強めの口調で言い放った。


すると入り口から、鮮やかな緑のスカートの女性がまっすぐこちらへ向かってくる。先ほど図書室で会った、文芸部の森田だった。

どことなく顔色はあまりよくない。



「……どうも」


「森田さん!いきなり呼んですみません、どうぞ席に座ってください」



彼女のぶっきらぼうな挨拶に藤本はパァっと笑顔になり席を座るように促した。



「ドリンクバーは頼んであるので。飲み物は何がいいですか?

こいつがとってきますよ!」


「……じゃあ、カフェラテを」


「わかりました!香田、頼む」



藤本に右肘で小突かれた新理は、そのまま席を押し出されるように渋々ドリンクバーへと向かって歩いた。その間も藤本は森田に笑顔でここへ呼んだ理由をつらつらと話している。


新理には藤本が疑っているように彼女ー森田が悪戯をしているとは到底思えなかった。部室を出る際、音の鳴っていたドアや壁付近を何度も見たが、叩いた跡や引っ掻き傷は見当たらなかったからだ。それに動機がわからない。


すでに知れ渡った怪談話を悪戯で模倣するのはわかるが、あの藤本も知らないような怪談を悪戯に使う意味がわからない。



『あそこの本、呪われてるらしいの』


『読むとその後誰かが』



彼女はきっと何か知っていると新理は思わずにいられなかった。


席に戻ると、森田も先ほどよりは表情が柔らかくなっているように見えた。



「ご苦労。香田、森田さんがお前に図書室の本について話してくれるって」


「あなたもオカルト系好きなんだね。

そこまでのめり込んでなんてちょっと意外だけど」



新理は藤本が彼女に余計なことを色々と吹聴したのだと察した。



「……ぜひ聞かせてもらえますか?」



彼女はふっと鼻で笑う。



「大して面白い話じゃないよ。

あんまり思い出したくないし……この話はほとんど誰にも話したこともない。

広めるつもりはないし、あなた達にもそうしてほしい」



暖かい店内の中、午後の昼下がり。

両手でカップを包み込んだまま彼女は話し始めた。



*



森田が文芸部に入部して間もない1年生の頃、上級生に仲の良い先輩がいた。彼女の名前は村上むらかみ。4年生で特に役職などにはついておらず物静かな女性だったが、面倒見がよく優しい人柄で、なかなか部に馴染めていない森田を気にかけてくれた人物だったので森田もよく懐いていた。



「村上先輩、ここの図書館の本って寄贈されたものがあるんですね」


「そうだね。近くの市営図書館が閉館された時のものがいくつか寄付されたって聞いたことがあるよ」


「じゃあ、あの木の本棚もそうなんですかね?」


「木の本棚?」


「ほら、あそこ、壁際のところにある低いやつですよ。」


「ほんとだ……!いつからあったんだろう。

ここにある本はもうほとんど読んだと思ってたけど」


「先輩も気が付かなかったんですか?随分埃かぶってますけど……」


「ね、倉庫にあったやつを司書さんが出してきたのかな?

これも全部卒業前に読めたらいいけど」



村上は就活と資格取得の勉強を並行していた為、寂しく思いながらも村上と会うことは徐々に減っていき、それに比例するように文芸部以外にも森田には仲の良い友人が少しずつ増えていった。


彼女に異変が起こり始めたのはその年の秋の終わり頃。

最近彼女が大学に来ていないと他の先輩に聞いたのだ。


就活で忙しいだけなのかと思われたが、連絡も疎らで同じアパートを借りている人が見ても部屋からもあまり出ている様子がないらしい。


森田は村上に連絡を取り、会いに部屋へ訪れた。「部屋から出ている様子がない」理由は明らかだった。彼女のアパートの郵便受けにはたくさんチラシや封筒が入れられたまま溢れ出していた。


アパートにいた彼女は、怯えるような表情で森田を迎えたらしいが、森田だとわかると少しずつ穏やかな表情になっていった。しかしかなり痩せて顔色も悪かったらしい。


彼女の部屋の中の状態もかなり悪かった。リビングには服や書物が溢れかえり、シンクには食器が重ねられ、台所にはゴミが溜まっていた。

森田は彼女に様々な事を話したが、彼女は虚ろな目でかすかに頷くだけだった。


しかし、そんな彼女が唯一大きく反応したものがあった。


森田が話している途中で玄関の呼び鈴が鳴った。



「こんにちは、宅配便ですー」



映し出されたインターホンから荷物を持った宅配便の男性が見える。

すると、村上はいつのまにか耳を手のひらで硬く塞いで体を丸めていた。



「村上先輩?どうかしたんですか?」



彼女は震えながら、ブツブツと小声で何かを唱えている。



「来るの……あの子が……私を呼んでる……」


「先輩……?」


「声がする……本……図書室の本……あの子が……呼んで……」



震える彼女の部屋の隅に図書室の本が一冊置いてあった。

それはあの古い本棚に置かれていた海外の文献だった。


彼女の異様な脅えようとその言葉を聞き、古い本棚を確認する為翌日森田はその本を持って大学の図書館へ赴いた。


図書カードには、確かに村上の名前とその本の名前が記されており、そして埃かぶっていたはずの本棚が綺麗になっていた。おおよそ、村上が本を手に取るついでに掃除をしたのだと森田は推測した。



『倉庫にあったやつを司書さんが出してきたのかな?』


『これも全部卒業前に読めたらいいけど』



彼女の言葉を思い出す。


村上の様子がおかしくなったのは秋頃。


図書カードの日付は9月半ば。



『来るの……あの子が……私を呼んでる……』


『声がする……本……図書室の本……あの子が……呼んで……』



だとしたら、この本を読んだ彼女がーー



「呪われた……?」



気味が悪くなった森田は、その本すぐ隣の棚に押し込み足早に図書室を出た。

その足で、森田は村上のアパートへ再度赴いた。


彼女は村上のアパートのドア前で何度か呼びかけたが、応答はない。



「先輩、村上先輩、いますか?」


「………森田さん」



彼女は長い沈黙の後、かすかに呟いた。



「………………出して」



そう呟くと、彼女が森田の問いかけに再度反応することはなかった。



*



「それっきり、会ってない。

てか、消えちゃったの。その人」


「消えた?」


「失踪ってことですか……?」


「失踪だったらまだ……」



森田は強い口調でそこまで言うと、口をつぐんで飲み物を流し込んだ。深く長く息を吐くと彼女は話を続けた。



「いろんな人に聞いたけど、そんな人いたっけ?とか言われるの。まぁ、元々目立つ人じゃなかったんだろうけど……アパートだっていつの間にか別の人が住んでたし……文字通り“消えちゃった”みたい。どこに行ったかなんて……こっちが聞きたいよ……」



最後に大学で村上を見かけた生徒は「また呼ばれている」と彼女がずっと怯えるように呟いていた森田は聞いたらしい。


森田はそれ以降特に何も話すことはなくドリンクバーの代金を置くと静かに店を出て行った。



「……先輩の失踪を、誰も覚えてない……か。

信じ難い話だけどわざわざ作ったふうでもなかったな」


「でも本棚があるのは確かです。

……俺もそこにあった本を読みました」


「そうか。俺の入学前じゃ上級生はわからんし。

……慕ってた先輩だったなら、彼女かなりキツイだろうな」



藤本は窓の外から彼女が去っていく後ろ姿を見送っている。



「……俺ももしかしたら近いうちにいなくなるのかもしれませんね。だとしたら藤本先輩が俺を見た最後の人になるのかも」



新理がそう言うと、後ろの席から吹き出す男の笑い声が聞こえた。驚いて振り向こうとする新理の肩へ藤本が力強く手を置く。



「そう悲観的になるなよ。大丈夫、専門家を呼んでおいた」


「……随分と困っているみたいだね」



黒髪、切れ長の目、よく知っている香水の香り。新理が立ち上がって席を覗くと、そこには見知った人物が座っていた。



仲村なかむらさん!?いつからそこに……」


「はじめからだよ。今日は浩介こうすけに呼ばれたんだ」



古本屋兼古美術商の店主、職業は祓い屋の仲村一なかむらはじめは未だに少々笑いながら目を細めた。



*



夕方の大学構内を新理は図書室に向かって歩く。隣を歩く仲村の首には「見学」と書かれた札が首からぶら下がっている。藤本もついてこようとしていたが、仲村に止められて渋々帰って行った。



「大学なんて久しぶりに来たなぁ」


「仲村さんはどこの大学だったんですか?」


「知りたい?」


「いや、別に……」


「スタンフォード」


「まさかぁ」



仲村はにっこりと笑ったまま何も言わない。



「え……?

本当なんですか?ちょっと、ヒントとか……」



時刻は16時半を過ぎた頃だが、冬は日が落ちるのが早く、外は暗闇になりつつある。


ちなみに図書室の鍵は「大掃除の際忘れ物をした」と嘘をつき借りた。


図書室はより一層暗く、人はいない。ドアを開けるとひんやりとした空気がまだ残っている気がした。入り口付近にある電気をつけると、仲村は遠慮なく図書室に足を踏み入れる。



「本棚はそのまま真っ直ぐに進んだ先の、部屋の隅です」



仲村は本棚を見るなり「ああ、なるほど」と呟いた。



「これは、本の方じゃなくて、そっちだね」



仲村が指差す方角には本……ではなく、本棚があった。



「本棚……?」



仲村は本棚に立てかけてある本を上から鷲掴みにし、床に置き始めた。



「ちょっと!仲村さん!?」



焦る新理を無視し、仲村は全ての本を床に置くとしゃがみ込んだままじっと本棚を見ている。


仲村の真似をするように、新理も後ろから覗き込むように本棚を見る。改めて古い本棚だと思うと、新理はふとあることに気がついた。一番上の棚板の裏に引っかき傷のようなものがついていたのだ。よく見て見ると、本棚の裏側にはいくつかの傷が見えた。



「……恐ろしいな」


「え?」



仲村はそう呟くとゆっくりと立ち上がる。



「これは本来ここにあってはいけないものだ。元々は本棚じゃない。別のものを、誰かが本棚にしたんだよ。そしてここに置いた」


「……いったい誰が、なんのために?」



仲村は何かを考えたまま、黙り込んで本棚に触れる。



「あの……」


「本棚はこっちで引き取るよ。

話を聞いてあげないとね」



仲村はにっこり笑うとコートの内ポケットからハンカチを取り出す。広げるとそれはかなり大きな風呂敷で仲村は本棚を手際の良く包み始めた。新理は呆然としながらその姿を見つめた。



「新理君、体調は?もう声は聞こえない?」



新理は仲村の声にはっとして顔を上げる。思えばあの本棚の前にいるというのに全く寒気は感じず声も聞こえない。



「大丈夫そうです」


「なら、よかった。

本は大丈夫だから片付けて貰ってもいい?」



新理は20余冊ある本をバラバラに適当な場所に押し込んだ。



*



図書室を出た二人はまた昇降口に向かって歩き出す。



「変だと思われないかな。本棚がなくなって」


「大丈夫。これに気付く人はそうそういなかっただろうから。俺こそ心配だよ。こんな大きな荷物持って出て行くの見られるの」



珍しく困ったように本棚を持つ彼の顔に新理は少し笑った。


ふと仲村の言葉を脳内で繰り返す。



『これは本来ここにあってはいけないものだ』


『元々は本棚じゃない。そしてここに置いた』



本棚これに“触れてしまった”から、“来て”しまったんだろうね。君の所にも、彼女の所にも」



新理の考えていることがわかるかのように突然仲村は呟くように話し始めた。



「たまたま波長があってしまったんだろう。

見つけて触れたことで“あちら側”に引き寄せられてしまった」



新理は勢いに任せて仲村に問う。きっと期待した答えは返ってこないと思いながら。



「あの、失踪した……人は」



仲村は遠くを見るようにまっすぐと前を見ている。



「一度“あちら側”に引き込まれてしまうとね、戻ってくることはとても困難なんだ。俺が関与してあげられるのは、ここまで」



言葉を飲み込む新理に、仲村は「でも」と言葉を続けた。



「その人を覚えている人がここにいるのなら、あるいは、また会うことが出来るかもしれない」



仲村は目を細め新理を見つめた。



「君達も十分に気をつけるんだよ」



昇降口に到着すると、藤本が階段に座って待っていた。



「藤本先輩!待ってたんですか?」


「ここまできたら気になるだろ。お前もう大丈夫なの?」


「あ、はい。平気みたいです」


「本当?仲村さん。え、何その荷物」


「うん大丈夫。さっきからよく笑ってるし」


「俺、そんなにやばそうでした?」


「お前、顔が土色だったんだぞ!鏡見てないのか」



いつもは騒がしい藤本が珍しく1日を通して真面目で、新理は不謹慎だと思いながらも少し笑ってしまった。



*



後日、大学内の生協に向かう途中、新理は森田とばったり出くわした。

新理の顔を見ても特に何の反応も示さないが、森田はそのまま踵を返す。



「森田さん」



新理の呼びかけに森田は少し肩を震わせてゆっくりと振り向いた。彼女の顔は明らかに嫌そうだった。



「……何よ」


「こないだは……すみません。

色々と踏み込んだ話をさせてしまって」


「別にいいよ。用はそれだけ?」



森田は新理の顔を見ずに、財布についているキーホルダーをずっと手で弄んでいる。



「あ、はい」


「そう。……あんた本当になんともないの?」


「はい、あの……森田さんがあの時すぐに教えてくれたおかげで平気みたいです」


「……ああ、そう……じゃあね」



彼女はスカートを翻す。あの日、ファミレスを去る彼女の背中を思い出す。



「ーーあの!」



新理は思わず呼び止めてしまい、森田も動きを止める。新理は口を開いたものの、言おうとした言葉を飲み込み、少々情けない顔で微笑んだ。



「……今度、気が向いたら古都研ことけんに遊びにきてください。暇なときお茶でも飲みに」



彼女は彼の言葉に耳を傾けたが、特に何の返事も言せず去って行ってしまった。


しかし、新理は確かに聞いた。呼び止める直前、「じゃあね」と言った去り際の瞬間、かすかな声で優しく寂しげに「よかった」と呟く森田の声を。



本棚 end

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