傘と迷子


3 傘と迷子


大学3年生 梅雨 新理


残暑が続いた秋口に、都内に秋雨が降り注いだ。

バケツをひっくり返したような という表現がとても合う大雨だった。


就職セミナーの帰り道。

未だ慣れないリクルートスーツに身を包み駅の入り口の隅で地面に打ち付ける大粒の雨をガラス越しに眺めながら腰を下ろしていた。


電車は遅延。

すし詰めになりながら30分遅れで乗り換えの駅にやっとついたところで運転見合わせ。

大型施設が隣接した駅には人がひしめきバスもタクシー乗り場も長蛇の列。

この大雨のせいで交通機関はほぼ全滅。


歩く覚悟をして駅構内のコンビニに行くも傘は売り切れ。

待ち人が多く座る場所も椅子もない。

昨日うっかりしていてスマホの充電も8%。

セミナーと電車での疲労で、施設内を楽しむ余裕はない。


日常のちょっとした不幸が全て流れ込んできたような日に、香田新理こうだしんりは深くため息をついた。

周囲にいる人間も、どことなく疲れているような顔をしている。

都会の雨と電車の遅延は上京して3年が経過した今でも慣れる事はない。


とにかく傘を買おう。


そう思い立ち上がると、彼は残り少ない電池を頼りにスマホを見る。すると混雑の影響か全く電波がない事に気が付いた。


仕方なく重い腰を上げて施設内のざわめきから逃げるように電波とコンビニを探しながらその場を後にした。



*



駅の最寄りのコンビニ2件に寄るも、やはり傘はなかった。


靴と髪が濡れ、少し嫌な気分になりながら雨を避けるように歩いていると、いつの間にか人通りの全くない通路にさしかかっていることに気がつく。


見覚えはなく、まるでトンネルの中のような、高速道路の高架下のような灰色の寂しく冷たい道。


傘を求めて歩いているうちに随分と遠くまで来てしまったのかと辺りを見渡す。



遠くで雨の音と、時々どこからか漏れているのか水の音が聞こえる。流し台で、蛇口を弱く捻ったままの時の雫が滴る、あの音。街灯はあるが、まだ夜には早い時間だからか電気はついていない。蛍光灯は古く、蜘蛛の巣がかかってた。


スマホを見ると、先ほどよりも電波は弱く新理は来た道を引き返そうとする。



振り返ろうとした途端、雫の音と共に、背中に寒気が走る。


先ほどまで気配のなかった人の姿に動きと視線を止めた。


濡れた、青白い足がすぐ後ろにあった。

水の滴る音はすぐそこで鳴っていたのだ。


すぐに前を向くと、周囲が先ほどよりも暗く湿った空気に変わる。

雨の音は聞こえない。車も、人の歩く音もしない。


聞こえるのは背後からの

ぽたっ… ぽたっ…

と水の滴る音のみ。


長い耳鳴りが脳内に木霊し、どくんどくんと脈打つ鼓動と嫌な汗を全身に感じながら思考を巡らせる。



振り向いてはいけない。

この場にいてはいけない。



彼は直感でそう思ったものの動くのを躊躇った。


帰らなくてはいけないのに帰り道がわからない。


早く帰らなくてはいけないのに、ここがどこなのか全く見当がつかない。

とてつもない不安が押し寄せ、怖くなった。


雫の落ちる音を耳にしながら新理は恐怖で瞼を閉じた。

うつむいたまま、力が抜けたようにゆっくりと地面にしゃがみ込み、腕の中に顔を埋める。


じっとりと背中に汗が流れる。

こうしてどのくらいの時間が経ったのか、彼には見当もつかなかった。


なぜか先ほどから水の音はぴたりと聞こえなくなった。

しかし後ろにある 重く湿った空気と気配がそこにまだある。


−−−いっそもう目を開けてしまおうか




「傘、忘れてここまできたの?」




聞き慣れた優しい声が頭上から聞こえる。



「新理君」



白い光を感じて、新理は顔をゆっくり上げる。


目を開けると、そこには傘をさし見慣れたセミロングを揺らした彼女が立っていた。


夕方の太陽が、後光のように晶を照らしビー玉のような琥珀色の瞳が光る。



「大丈夫? 気分悪いの?」



呆然とした顔でしゃがみ込む新理を不思議に思ったのか、彼女は軽く首を傾げた。


新理は唾を飲み込んで口を開く。



「……あきらちゃん……なんでここに?」


「今日この辺でご飯食べる約束だったでしょ。探したよ」



風に乗って、彼女の香水の香りと濡れたコンクリートの匂いがした。



「ほら、行こ」



白くほっそりとした手を差し出す。

呼ぶ声に導かれ、手を取り新理はゆっくりと立ち上がるとその場を後にした。




「携帯見た?」


「あ、

ああ、そうだ」



すっかり忘れていた携帯の存在を思い出し、間の抜けた返事をすると、スマホがポケットで振動し友人やセミナー、晶からのメッセージが一斉に流れ込んできた。


電波がどうにか復活したらしい。


スマホに光が反射して顔を上げると、先ほどの雨は嘘のように止んでおりビルの合間を縫って雲の合間から水色の空と橙色の光が差しているのが見える。


妙に体が軽く、いつの間にか汗も引き、清々しい気分に新理は腕を伸ばしながら息を吐いた。


軽く雨を振るい、晶は透明なビニールの傘をとじた。



「なんか……変なものを見たような気がする。

傘を求めて駅から歩いて来ただけなのに。

道に迷って、しかも帰れなかったらどうしようって不安になっちゃったよ。なんか子供みたいだな」



笑顔でごまかす彼に、晶は少し考えて言った。



「セカンドハンド・ストレス。

新理君は疲れてるみたいだね」


「セカンド…何?」


「私は傘があったから、雨にも道にも困らなかったけどね。

ところでスーツの上着の裾、汚れてるよ」


「うわっマジで!?

最悪だ……」



慌てて上着を脱ぎ、裾へ目をやると愕然と肩を落とす。

あの場にしゃがみこんだ事を後悔した。


晶が見かねてたまたまカバンに入っていたおしぼりを気休めに新理に手渡すと、彼は笑顔になって礼を言った。



「ありがとう。 さすが晶ちゃん」


「いえいえ」



続けて晶はこう言った。



「道に迷いやすいよね。

雨の日はお互いに」



晶はそれ以上何も言わなかったが、新理は先ほどの青白い足を思い出した。


雨の匂いと秋の訪れを感じながら2人は駅へと歩いていった。



後日、新理は記憶を頼りに歩いてみたが、結局二度とその場所に行くことはできなかった。



雨の日はこの時のことをよく思い出す。


あの子も無事帰路につけただろうかと思いながら新理は傘をさし歩く。



傘と迷子 end


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