眠る

鈴宮縁

眠る

 そのとき、私はバラが綺麗に咲いているという公園にいた。実際、バラは綺麗に咲き誇っていた。私の目を奪い続けるには充分な美しさだったと思う。でも、すぐに私の目はバラから離れた。

 バラ以上に美しい少女が、花壇の上に寝そべっていたのだ。その少女は、死んでいるんじゃないかと思うほどに青白く、細い指の先すらも動かなかった。その姿は、花よりも、星よりも、宝石よりも、この世のどんなものよりも、綺麗だった。私の目は、その少女しか見えなくなった。



 私がぐっすりと花壇の上で眠る少女を見つけてから随分経った。あのとき、彼女を起こしたことから、私と彼女は毎日花壇の前で話すようになった。私が公園へと向かい、眠る彼女を起こし、起きた彼女と日暮れ近くまで話す。友人になったのだ。

 彼女は紫苑と名乗った。世間知らずで、花と眠ることが好きで、よくしゃべる。それ以上のことは、あまり知らない。彼女は自分のことを話すより、人の話を聞きたがるタイプなのだ。


 紫苑は、綺麗だ。きっと彼女を見れば、100人中100人が見惚れるんじゃなかろうか。……少なくとも私はそう思う。私は彼女を毎日見てもその美しさに飽きることなく見惚れているのだから。何度も繰り返すけれど、それほどまでに彼女は、紫苑は綺麗だ。

 白い、陶器のような肌。触れれば壊れてしまいそうなほど華奢な身体。吸い込まれそうなほど綺麗な黒い瞳。手触りの良さそうな、光沢のある黒く長い髪。黒いユリのように、凛とした佇まい。まるで人形のように均整の取れた美しさだった。この世の美を結集しても紫苑には敵わないと思う。世界で一番、なによりも美しいのは、紫苑だと断言してもいい。私の全財産も命もなにを賭けたっていい。


 今日も紫苑はぐっすりと眠っている。声をかけてもなかなか起きないくらいにはぐっすりと、深い眠りについている。

 屋外で、しかも、花壇の上でよくもこんなにぐっすりと眠れるな。毎度毎度、そう思う。そもそも花壇の上で眠るというのはどうなんだ、とも思うけれど。紫苑はそもそもそこにいるだけで綺麗なのに、そこに花まで加わると、……なんと言えばいいのだろうか。この瞬間を切り取って、絵画にしたい、と言えばいいのだろうか。とにかくその状況があまりにも綺麗なので、私は咎めることもできずにいる。


「紫苑さん、起きて」


 その華奢な身体を揺り動かしながら声をかけると、ようやく「ん〜」と声を漏らしながら、うっすらと目を開ける。私に起こされた紫苑は、眠そうな眼で私の姿を捉えた。


「紫苑さん。おはよう。今日もぐっすりね」

「晴……、おはよう……。いつもありがとう……。紫苑で、良いのよ」

「そう言われても……」

「一回でいいから呼んでみて。私、晴に紫苑って呼ばれてみたいわ」

「えっと、し、紫苑……さん」

「……呼び捨てって言ったのに」

「ごめんごめん。その、紫苑さんのこと、呼び捨てするのはハードルが高いんだよねえ」

「あら、どうして?」


 紫苑は首を傾げる。紫苑は出会った日からいつも「呼び捨て」で呼んでほしいと言う。

 私はというと、心の中では何度でも紫苑と呼ぶことができるのに実際に声に出して紫苑、と呼ぶのは未だできていない。もちろん、紫苑と呼んでみたい気持ちはあるのだけれど、なんだか、むず痒いというか、恥ずかしい、というか。なにより、なんだか失礼な感じがするのだ……。


「紫苑さんって、なんかお嬢様って感じするから呼び捨てするのは失礼な感じがするっていうか……」

「そうかしら?」

「うん、仕草とか……その話し方もお嬢様って感じ」

「そう……」


 紫苑のことをお嬢様のように感じるのは本当だ。話し方はもちろん、仕草の一つ一つは優雅で、おまけに世間知らずなところがある。

 紫苑はそのまましばらく黙った。考え込んでいるようで、少し眉間に皺が寄っている。その肌に皺ができることが心配にもなったが、それでもなお美しいと感じるのだから不思議だ。友人の贔屓目を抜いても確かに美しいのだ。紫苑の美しさはどんな瞬間でも消えることはないのではないだろうかと思った。ふと、彼女の視線がこちらに向く。私が彼女の顔をずっと見ていたからだろう。不思議そうにこちらを覗き込んできた。


「何?」

「あ、えっと、紫苑さんって、美人だな〜って思って」

「そうかしら……ありがとう?」


 紫苑は少し困って視線を彷徨わせたのち、頬を赤く染めながら、微笑んだ。紫苑の微笑みは、聖母の微笑みよりも慈愛をふんだんに含んでいる。そして、思わず見惚れる。さらにほうっと感嘆のため息が漏れる。私は紫苑の微笑む瞬間が大好きだ。彼女の生み出す瞬間の中で、その美しさが二番目に際立つ瞬間だからだ。

 では一番美しい瞬間はなんであろうか? 一番目は、もちろん眠っているときだ。

 思わず息を呑むほど、美しい人の寝姿を見たことはあるだろうか? 私は無い。人の寝姿なんて、寝起きドッキリを仕掛けられた芸能人や授業中に椅子から落ちそうになっている同級生、ただただ寝ている両親くらいのものだ。その寝姿に美しさを感じたことなど一度も無い。

 それに対して、紫苑の寝姿を初めて見たとき、時間が止まった気がした。近くを通る車の音も元気一杯泣いていたどこかの赤ちゃんの鳴き声も一瞬世界から消えた。私が本来見にきていたはずの咲き誇る色とりどりのバラも消えた。世界に存在するのは私と紫苑だけ。そんな錯覚に陥った。今でも眠る紫苑を見ると、そう思う。


「ねえ、晴」


 微笑んだ紫苑に見惚れていた私は、私の名前を呼ぶ紫苑の声に意識を引き戻された。


「晴」


 紫苑は、間髪入れずにもう一度私の名前を呼んだ。


「どうしたの?」


 紫苑は次の言葉を紡ぐことを躊躇っているようだった。でも、次の瞬間には意を決したように口を開いた。


「私ね、死にたいと思っていたの。どうかしら?」

「……え? ど、どうかしらって……」


「私の家はね、荒れてるの。晴以外、友人もいなかったわ。私が死んで、悲しんでくれる人はいないの。だから、死んでしまおうと思っていたの」

「生きて、寂しい思いをするよりも、死んで、何も感じなくなった方がいいと思ったの」


 紫苑は淡々と、それでいて少し寂しそうに私のことを見ながらそう話した。


「ねえ、晴。貴女は、私が死んだら悲しむ?」

「あたりまえでしょ!だ、だって、紫苑は友達で、私は紫苑のことが大事で……」

「そう。……ふふ、嬉しいわ。悲しんでくれる人がいてよかったわ」

「も、もう、死にたいなんて思わないでよね……私がいるんだから」


 少し、照れ臭くなって、つい目を逸らした。

 紫苑は視線を彼女の方に戻した私の目を見て、嬉しそうに微笑んだ。

 その瞳に、少し熱がこもっている気がしたのは気のせいだろうか。気のせいか、気のせいじゃないか、考えようとはしたけれど、考えられるほど頭は回っていなかった。私はいつも通り、彼女に見惚れていたのだ。美しく私に向けて微笑む紫苑に。


 ぼんやりと微笑む彼女を見つめていれば、彼女の顔が私に近づく。なんだろうかとは思うけれど、私は動くこともなく、彼女のことを見つめていた。

 唇に、柔らかいものが優しく触れる。

 そして、視界いっぱいに紫苑の顔。

 何が起こっているかなんてわからなかった。私は、紫苑に世間知らずなところがあるのは確かだ。紫苑はやはりお嬢様なのだ。……きっと、今キスされているのも、紫苑の世間知らずさから起こったことだろう。それか、お嬢様であるがゆえの気まぐれであって、特別な意味ではないでろう。そう考えていた。あまりにも驚いたものだから、現実逃避をしていた。ただ、私の鼓動だけが現実を直視していつもと違うリズムを刻んでいた。

 紫苑は私から離れると、じっと私の目を見た。紫苑の私を見る目は、気のせいではなく、確かに熱を帯びていた。少し、頬が赤く染まっている気がした。


「私、今のがファーストキスなのよ」


 紫苑は悪戯っぽく目を細めて、微笑んだ。今の彼女には黒い百合よりも精巧なお人形よりも小悪魔という言葉がピッタリかもしれない。私の顔は熱くなった。今なら湯を沸かせるんじゃなかろうか、そんなくだらないことが頭をよぎった。そういえば、そして、すぐに消えた。だんだん現実を頭が理解してきたのだ。そして、頭の中は真っ白になった。放心状態だ。


「晴は?」


 放心する私に、紫苑は聞く。真っ白な頭の中にどうにか記憶を引きずり出しながら、どうだっただろうか、そう考えたところで、私は今までの人生で人を好きになったこともないことを思い出す。初めてでなければなんなのだろうか。私のファーストキスの相手は確かに紫苑だ。


「今のがファーストキス、かな」

「それならよかった。私、今とっても幸せなのよ」


 不意に立ち上がった紫苑を見上げると、彼女はとびきりいい笑顔だった。初めてみる顔だった。思わず、「私も幸せ」と声に出た。紫苑の初めての相手が私だということがわかって、私の初めての相手が紫苑だとわかって、紫苑の初めてみる顔を見ることができて、幸せだった。

 少し、心臓のあたりがきゅう、となった。本や漫画に書いてあった「きゅんとする」というのは、こういうことを言うのだろうなと思った。多分、私は紫苑のことが好きなのだろう。紫苑はどうなのだろうか。私のことが好きだろうか。


「私、晴のこと大好きよ」


 私が聞く前に紫苑はそう言った。嬉しくてたまらなかった。紫苑が、私のことを好きだと言ってくれたのだ。「私も、紫苑さんのこと大好き」というと、紫苑は嬉しそうに笑った。私の顔は、さっきよりも熱くなった気がした。


「晴、好きよ、大好きよ」

「私も、し、紫苑のこと、大好き」


 ようやく、紫苑のことを紫苑と呼べた。少し照れ臭いけれど、慣れていけばいこう、と思った。紫苑はこれまた嬉しそうに笑った。少し涙ぐんでもいた。


 こんなに人間らしい紫苑を見るのはその日が初めてだった。


 最後でもあった。

 翌日、紫苑は死んだ。いつもと同じ花壇に寝そべって、一層青白さを増した顔をして、眠っているかのように死んでいた。それでもなお美しかった。今までで一番美しいとも感じた。



 自分が死んでも悲しむ人はいないから死にたい思っていた、と言った彼女が死んだ。私が悲しいと言った翌日に。



 今幸せだ、と言った彼女が死んだ。私も幸せだと伝えた翌日に。



 私のことを大好き、と言ってくれた彼女が死んだ。私も大好きだと伝えた翌日に。



 紫苑がなぜ死んだのか、私にはさっぱりわからなかった。息がうまくできなかった。心臓は昨日ともまた違ったリズムで動き、昨日とはまた違った感覚できゅう、となった。紫苑が死んだという事実は悲しくてたまらないのだ。私には耐えられそうもない。

 悲しむ人として私がいるのに、幸せなのに、私に好きと言ってくれたのに、紫苑は死んだ。いつも通りの場所で、いつも通りの時間に、いつも通りの姿で。私が息をすることすら忘れて見惚れるほどの美しさで、静かに。わからなかった。わかりたくもなかった。


 きっと彼女は歳をとっても美しかっただろう。今でさえ、私は彼女は死ぬべきじゃないと思っている。だから、死因が自殺でも他殺でもそれ以外のことでも、彼女が死んだという事実を受け入れることができなかった。その事実を恨んだ。彼女が死んだこの世界を恨んだ。この運命を決めたであろういるかもわからない神を恨んだ。彼女の存在以外の全てが酷く憎かった。


 人は死ねば、そのうち腐る。それは彼女も同じだ。今も少しずつ彼女のその陶器のように白い、華奢な身体は腐敗が始まっているのだろう。それが一番許せなかった。いっそ、彼女をこのまま剥製にしてしまうのはどうだろうか。一番美しい彼女を、この世界に腐らせることなく、永遠に残せる。……もちろん、そんな人の道を外れたことは、できないけれど。悲しいことに私にそんな度胸はない。

 次に頭に浮かんだことは、紫苑の後を追うかどうかだ。紫苑の困った顔が思い浮かんだ。微笑んで迎えてくれるのは、きっと私が寿命をまっとうしてからじゃないだろうか。案外、後を追っても幸せだと言ってくれるかもしれないけれど、紫苑に会えるとは限らない。


 意味がないとわかっていたけれど、思わず救急車を呼んだ。待っている間に、紫苑の服のポケットにメモ用紙を小さく折り畳んだものが入っているのを見つけた。そこには確かに「晴へ」と書いてあった。開くと、「私を忘れて」の一言だけが綺麗な字で書かれていた。


 皮肉にも花壇で紫苑の周りを囲むのは青い青い勿忘草だった。

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眠る 鈴宮縁 @suzumiya__yukari

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