第1話 敵地へ赴く者達

 育ったあの懐かしい屋敷を離れるときでさえ、こんなには緊張しなかったはずだ。沢山の思い出と別れた日のことをアレキサンダーは思い出していた。


 馬車の中でロバートは終始無言だった。表情の少ない顔からはわからないが、相当緊張しているのだろう。アレキサンダーの口の中も乾ききっていた。馬車を降りたら、始まりだ。舐められてはいけない。緊張など悟られてはいけない。


 アレキサンダーは、十六歳となり、成人したと同時に、王太子となった。半年以上経った今、視察は初めてではない。 


 だが、今回の視察は今までとは違った。この視察には、もう一つの目的があるのだ。アレキサンダーはそのための囮でもあった。


「アレキサンダー様。今のうちに休んでおかれませんか」

 ようやく口を開いたロバートの意図が、アレキサンダーにはわからなかった。


「懸念されているとおりであれば、夜、あまり休む時間がないと思われます」

 絶対に脱ぐなと言われた鎖帷子の重みが増したように感じた。


「お前はそれほどまでと思うのか」

 判り切ったことだと、アレキサンダーは口にしてから思った。

「わかりません。わからないからこそ、少しでも休んでおいたほうが良いと思われます」


 今晩宿泊する予定のカイラー伯爵家は、アレキサンダーの立太子に表立っては賛成している。だが、裏では、アレキサンダーの立太子に反対する複数の貴族をまとめているという情報があった。

 

 真偽のほどを確かめる。というよりも、証拠を掴むため文官達を潜り込ませるのが今回の目的だった。


 立太子に賛成を表明しているカイラー伯爵家が、アレキサンダーが視察のために一晩滞在したいと申し入れて断るはずもなかった。アレキサンダー自身は囮なのだ。同行している文官達は皆、腕に覚えがある者ばかりで、危ないことは彼らが片付けるから、何もしなくてよい。ただ、身を守ることに専念すればよいと、教えられていても、不安なものは不安だった。


「お前が休むなら休む」

アレキサンダーの言葉にロバートが苦笑した。

「アレキサンダー様がお休みの時、もっともお傍に居る私が休むわけにはまいりません。ご存じでしょうに」


 ロバートの正論に、アレキサンダーは顔を背けた。

「わかりました。ではアレキサンダー様が、先にお休みください。順番に休みましょう」

「わかった。ちゃんと着く前に起こせ」

 既に眠気を感じていたアレキサンダーは目を閉じた。


  アレキサンダーは、馬車から降りながらロバートを睨んだ。

「思ったよりも、早く到着しました」

 わかり切ったロバートの言い訳に、アレキサンダーは答えなかった。アレキサンダーはロバートに起こすようにといった。だが、ロバートの返事を確認する前に、寝てしまったのだ。ロバートは、アレキサンダーが確認をしなかったことをいいことに、堂々とアレキサンダーの命令を無視したのだ。


 アレキサンダーにも、夜、ロバートが休むつもりなどないことは分かっている。だったらせめて昼間休んでおけばいいと思う。だが、ロバートはそんなアレキサンダーの気持ちを、いつも全く理解してくれない。


「頑固者」

小さく悪態をついたアレキサンダーに、ロバートはわずかにほほ笑んだだけだった。


 カイラー伯爵家では歓迎の宴が催された。華やかな宴で、ロバートはいつも通り静かにアレキサンダーに付き添ってくれた。一切何も口にするなというロバートの言葉どおり、アレキサンダーはワインの盃は傾けるだけにとどめ、皿の上の料理はただ切って位置を変えるだけにした。


 当たり障りのない会話で、時が過ぎていった。

 打ち合わせ通りのロバートの合図に、アレキサンダーがわざとあくびを数回したことで、宴はお開きとなった。


 視察は、別の男たちの手により、既にこの屋敷のあちこちで始まっているはずだ。


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