第5話 真贋
なんとなく、吉山公亮はいつもより早く起きた。早く、といっても普段よりというだけで、すでに妻は起床して朝食を準備していた。
「おはよう、今日は早起きなのね」
「まぁな。なんかいつもより早く目が覚めた」
「すぐ準備するから待ってて」
彼女はそう言って目の前のフライパンに卵を落とした。テレビをつけると、異常気象やら、暴力団の抗争やら、物騒な話題が多かった。ため息をついてソファに深く座ると、台所から妻の鼻歌が聞こえてきた。
その小鳥のような繊細で心地よい音色を聴いて、彼は早起きして良かったと思った。少しして、妻が朝食を運んできた。壁にかかった黒い時計を見ると、その針は八時を指していた。
綺麗に焼けた目玉焼きとソーセージ、皿に綺麗に盛り付けられたサラダ、ブルーベリーソースのかかったヨーグルト、文句のつけようのないほど完璧な焼き加減のトーストといった、なかなか豪華な朝食だ。月曜日はこうやって少し豪華な食事をして、英気を養うのだ。いただきますの挨拶をして、少し談笑しながら食事をした。
妻は少食なので、夫のと比べて半分程度の量だ。そうなのにも関わらず、公亮は妻よりも先にペロリと朝食を食べ終えた。公亮は食器を片付け、スーツに着替え、カバンを持ち、出勤の準備を終えた。
「いってきます」
「いってら…ちょっと待って」
真弓は何かに気がついたのか、席を立って公亮に近付いた。
「ネクタイ、ズレてるよ」
夫の胸元を見つめ、妻はそういった。ネクタイに手をかけてズレを直すと、ポンと彼の胸を叩いてニコリと笑った。
「これでよしっと、いってらっしゃい」
「ありがとう。じゃあ、いってくる」
公亮は妻の天使の笑顔に笑い返し、振り返って数歩進むと、突然足を止めて彼女の方に再び振り返った。どうしたのかと、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「真弓、子供が生まれたらさ、このアパートを出て一軒家を買わないか?」
「え、なに?突然」
「いや……なんとなく今言っとこうと思ってな。それで、どうだ?」
「うん……うん!いいと思うわ」
彼女は手をパンと合わせて、満面の笑みで同意した。それを見て、公亮は満足そうに、そして、照れ臭そうに笑い返した。
公亮は真弓を優しく抱き寄せて額にキスをした。突然の夫の大胆な行動に困惑しながらも、彼女は顔を赤らめて、それを嬉しく思った。
「子供がのびのびと、自由に暮らせる大きな家だ。楽しみにしててくれ」
彼女の耳元で、そう優しく囁くと、公亮はパッと手を離して真弓を解放して、玄関へ向かった。その足取りは、ご機嫌な朝食を食べたのにもかかわらず、何故か二日酔いをした時のように重かった。
ガチャリ。いつものように取っ手を回し、扉を押して開ける。そして、彼の目に映ったのはいつもの朝日の白でも、空の青でもなく、スーツの黒だった。
彼は顔を上げてそのスーツを着た者の姿をとらえた。それは紛れもなく、つい昨日会ったばかりの、轟上次郎と木虎真白だった。二人はサッと警察手帳を彼に見せてこう言った。
「署までご同行願います」
二人とも冷静で、貫くような鋭い目つきをしており、昨日とはまるで違う態度だった。異変を察知したのか、真弓も玄関のほうに出てきた。そして、三人のただならぬ様子を見て、彼女は恐る恐るこう言った。
「主人がなにか……?」
「……すこし話をするだけですよ」
やんわりと轟が断るが、それでも心の不安は拭えず、どうにか食い下がろうとした時、隣から声をかけられた。
「どうかしたんですか?こんなに集まって」
神瀬が白梅を後ろに連れてこちらに歩いてきた。すると、厄介なことになったという顔で、二人の刑事は話し合いを始めた。数秒して、結論が出たようでこちらを向いてこう言った。
「気になる、というのなら下に降りてきてください」
それだけ言うと、公亮を連れて下に降りて行ってしまった。真弓達もそれについて行った。
下に降りると、始が門前に並べられた花壇の黄色いユリを愛でながら待っていた。彼は真弓達に気付くと、ゆっくり立ち上がり、彼女達を一瞥した。
「これで全員かな」
「全員って、何のこと……って、まさか!」
「犯人がわかったんですか!?」
驚いた神瀬と白梅の質問に、うんと頷くと大きく深呼吸をして、羽織っているコートの襟をピンと引っ張って形を整えた。
「この事件の犯人。それは、あなたです。吉山公亮さん」
彼がそう言って指差した方向に視線が集まる。吉山公亮は、少し俯いてその視線を避けると、くぐもった声でこう言った。
「どういうことです?なにを根拠にそんなことを言ってるんですか」
「そうですよ!いくら公亮さんが木山が嫌いだからってそれが動機になるわけないです!」
「証拠が揃ったんです。……不幸なことに」
神瀬を無視して、始はコートのポケットに手を入れて真っ直ぐ彼を見つめていた。その瞳は、少なくとも探偵が犯人を見つめるようなものでは無かった。
「じゃあ、推理を聞かせてくださいよ」
冷静に、彼は切り返した。始はそれに対して頷くと、推理を話し始めた。
「まず、あなたが犯行の手順を説明します。犯行に必要なことは二つ。「凶器の入手」「死亡推定時刻に自由であること」です。凶器の入手については、僕の部屋の合鍵を持っているから、簡単に説明できる」
「だが、俺にはアリバイがある」
「そうです。だから、そのアリバイを崩します」
彼は一切の躊躇いをせず、そう断言した。それを見て、公亮の眉がピクリと動き、住人達がざわついた。
「容疑者達はアリバイの証明の際、何をしていたか以外にある事を警察に話します。それは、どうやってそれを証明するか。大家さんの場合は、近隣住民からの目撃情報。北地さんの場合は、マックの店員の目撃情報です。これらのものは殆ど疑いようの無いものです。しかし、あなたは違う。あなたのアリバイを証明するのは、真弓さんだ」
「じゃあなにか、真弓と俺は共犯だってのか」
「確かにそれで説明はつくけど……証拠がないですよ」
神瀬と公亮の指摘に対し、始は首を横に振った。
「共犯ではないよ。犯人は、彼一人だ」
「じゃあどうやってアリバイを崩すんですか?」
「思い出してみてよ、真弓さんが、どうやって公亮さんが外出した時間を確認したか」
「えっと、確か家にあった壁掛け時計を……まさか!」
白梅が手を顎に当てて考えると、何か思いついたようで、手を顎からパッと離した。それを見て始は大きくうなずき、話を続けた。
「そう、ズラしたんだよ。時計の針をね。具体的にいうと、針を一時間分遅くして、八時を九時に誤認させ、真弓さんにアリバイを作らせながら、死亡推定時刻の中自由に動けるようにする。そして、木山を殺した後、本来自分がジムに着く時間にジムに行った。これがあなたの犯行手順です」
「はっ、何をいうかと思えば。それもただの推測じゃないか」
「いや、これにはバッチリ証拠がある」
ハッキリと言い切った始に、公亮は一瞬、気圧された。彼は首をブンと振って気を取り直すと、再び始を見つめた。それを待ってましたと言わんばかりに彼は黒い壁掛け時計を見せつけた。それを見て、公亮は誰から見てもわかるほど動揺した。
「あなたの部屋で見つけたものです。時間が一時間早く進んでいて、時計の針を調整できるネジからあなたの指紋がハッキリと検出されました」
「そんな馬鹿な!俺のうちにはちゃんと時計がある!お前が持ってるはずないだろ!」
「すり替えておいたんです。そのチャンスが僕には……いや、正しくは僕達にあった」
「たち……?まさか、小林くんを!?」
「そうです。僕が警察に通報したのが九時半ごろ。警察が来て現場を封鎖したのが大体十時過ぎ。その頃、あなたはジムでトレーニングをしていました。アパートからジムまでは一時間かかる。ということは、あなたが帰ってくるのは早くても十一時から十二時。実際に帰ってきたのは一時でしたね。つまり、十時から一時の間、あなたの時計は無防備だったわけです。僕はすぐさま署に連れて行かれましたが、優弥に「怪しいものがないか調べてほしい」と言っておきました。そして、優弥がこれを見つけたということです」
スラスラと推理を述べる始。自分が苦戦していた事件をここまで呆気なく解き明かしてしまうとは、真白は少し悔しく感じた。一方、公亮は酷く動揺しているが、それでも認めていないようで、こう言い返した。
「……あぁ、そうだった。忘れてたよ。その時計は俺が弄ったんだ、時間を調節するために」
「公亮さん、あなたが……!?」
「勘違いしないでほしいな。確かに俺は時計を弄ったが、それはアリバイ工作の為じゃない。その時計は壊れていたんだ。そんで、それを直したが時間を合わせるのを忘れてたんだ」
「なっ、そんなの通るわけないでしょ!」
「勝手な言いがかりはやめてくださいよ。本当にそうなんですから。それとも、俺が嘘をついている証拠でもあるんですか」
あまりに突飛な言い訳だ。しかし、この事について彼が嘘をついている証拠はない。食ってかかった真白は、歯軋りをしながら公亮を睨みつけた。
「だけど、アリバイは崩れた」
「ゴウくん。私はそれもあんまり意味がないと思う。だって、アリバイがないのは始さんも同じだもの」
真白は、今の状況があまり好転していない事を冷静に分析した。だが、始は全く怯んでいなかった。むしろ、彼の顔は最初の険しい顔つきから、少しだけ余裕ができたように見えた。まるで、何かの確信を得たように。
「忠告です」
「え?」
「ここからはあなたの秘密について迫っていきます。今のうちに罪を認めないと、それをあなたの奥さんにも言わなければなりません。それでも、抵抗しますか?」
「……なんで真弓の名前が出てくる」
「それはあなたが一番知ってるはずです。吉山大河さん」
その名前が出た瞬間、周りが一気にざわつき、公亮はまるで信じられないものを見るような目で始を見つめていた。
「おまえ、まさか全部知って……!」
「それはあなたが吉山大河だと認めたということですか?」
「っ……!何を馬鹿なことを、兄貴はもう死んでる。俺は吉山公亮だ、それ以外の何者でもない」
始はその発言を聞くと、何かを決意したような顔をしてから語り始めた。
「あなた達兄弟は十年前に肺炎にかかりました。ほぼ同じ時期です。仲の良い兄弟だったと医者や看護師が語っています。体の弱い兄を弟はいつも気遣っていたらしく、双子だからか、兄や弟といったものはあまり意識していなかったようです。ただ、別れは突然やってきました。兄の大河の容態が急変し、医師達は何もできず吉山大河は亡くなりました。……と、ここまでが皆が知る吉山兄弟の闘病生活です」
「なにかおかしなところがあるんですか?」
「ここには何もない、本題はここからだ。実は、吉山公亮は大学に通っていたようです。体の弱い兄とは違い、順調に回復していたようですからね。そこで真弓さんと出会った」
「その通りです。それがこの事件となんの関係があるんですか」
「そして、この大学にはある人間もいました。今回の事件の被害者、木山典雄です」
「偶然ですよ」
「探偵はあらゆる可能性を考慮します。だから、このことも詳しく調べてみました。すると、あなたと木山にはもう一つ接点があったんです。木山はほんの数週間ですが、あなたと同じ病院に入院していました」
「だからどうしたんですか」
「その数週間の間に大河さんが亡くなっていました。そこで僕は怪しく感じ、大河さんとあなたのDNAを照合しました。すると、百パーセント一致したんです」
衝撃の事実に、神瀬達は呆気にとられてしまった。このことは、昨日木虎たちが調べたものだ。だが、彼が二人に注文したのは木山を調べろといった、アバウトなものではない。ピンポイントで、この公亮と死んだはずの大河のDNAを照合してほしいと言ったのだ。
他の情報は、木虎たちが自分で裏を取るためにやった調査で手に入れたものだ。最初から彼は、吉山真弓の夫が犯人だと気がついていたのだ。
「……違う」
「何がですか」
「違う」
「何も違いません。あなたは吉山大河です」
「違う!!俺は、俺はあんな弱い奴じゃない!」
明らかに彼は取り乱していた。しかし、刑事二人は、その原因は正体を見破られた事では無いように見えた。彼が行っているのは身分の詐称では無く、自己否定だ。
「もし、公亮が強い人間で、大河が弱い人間であると言うのなら、それが何よりもあなたが吉山大河である事の証拠です」
「なんでだ、俺は……!俺は真弓のためにあいつを殺した!真弓のために殺しまでしてなんで弱い人間なんて言われなきゃダメなんだ!」
周りが沈黙に包まれる。自供だ。彼が今行ったのは自供に他ならなかった。しかし、何故、彼がこの時に自供をしたのかを理解できていたのは傍にいた人間だけだった。震えながら立ち尽くす男に、始はこう言った。
「あなたにどんな理由があれ、殺しに走った時点であなたは弱い人間です。……あなたが罪人になったら、誰が一番悲しむと思ってるんですか」
その言葉を聞いて、男は真弓の方を見た。彼女は肩を震わせながら下を向いていた。顔は見えないが、どんな顔をしているかは、想像に難く無い。
それを見て彼は、立ちくらみをして、地面にへたり込んだ。その時、花壇に尻餅をつき、黄色いユリがへしゃげた。
「話してくれますか。あなたがしてきた事全部」
彼は少し間を開けた後、無言で頷いた。
○○○
弟は、公亮はいい奴だった。それでいて、頼れる奴で、優しくて、俺なんかよりずっと出来がいい奴だ。俺は昔っから体が弱くて、引っ込み思案だった。それなのに、あいつは俺を兄として慕ってくれてた。
肺炎を患った時も、あいつはいつもとなんら変わりなくて、順調に回復していった。しまいにゃ、恋人まで作ってきていつも俺に自慢してきたよ。
『兄さん、俺に恋人が出来たって言ったらどう思う?』
『え?そりゃ、良いことじゃんか』
『良かった!なら、俺に恋人が出来たんだ』
『……え?あぁ、そうか。今さっきの質問は何だよ』
『いやさ、俺だけ大学通ってて、恋人が出来たっていきなり自慢したら怒るかなーって思ってさ』
『そんなことないよ。お前が幸せなら俺も幸せだよ』
正直言って俺は、あいつの元気な姿がいつも羨ましかった。アイツばっかりいろんなもの持ってて妬ましいとさえ思った。でも、そんな感情は、あいつの笑顔を見る度にどうでも良くなった。
そして、ある日俺はあいつにこんな事を聞いてみた。
『ねぇ、真弓って子のことはどれくらい大事だって思ってる?』
『ん?なんだよ、藪から棒に』
『少し気になったからだよ。いつもあの子の話ばっかりするからさ』
『あー、なるほどね。まぁ、単刀直入に言うと世界一愛してるな』
『よくもまぁ、そんな歯が浮くようなセリフ言えるね』
『事実だからな。俺はあいつを幸せにしてやりたい。それが俺の人生の意味だとさえ思ってる』
一点の曇りもない瞳で彼はそう言っていた。そんなあいつを見て、少し意地悪な質問をしてやろうと思った。
『……じゃあさ、その子を悲しませる様なことしたら、どれくらい後悔する?』
『そんなことしねぇよ』
『いや、もしもの話だよ』
『……もしそんな事があったら、誰かがするのは許せない。俺自身がしたなら、俺は自分を殺すほど恨む』
『うーん、それはダメじゃない?』
『え?なんでだよ』
鳩が豆鉄砲をくらったみたいな顔をしてこちらを向いた。ほんの少し感じたあいつの言葉への違和感。あいつらしくない言葉に対する説明を、なんとなく言葉にしてみた。
『公亮が優しくなくなる事も、死んじゃう事も、その子が知ったらどんなことよりも悲しむよ』
『……ハハハッ!確かにそうかもな、いや、兄さんが言うなら間違いない!』
『そ、そうかなぁ?』
『いや、ありがとう兄さん。そうだな、俺は死んだらダメだな。よっしゃ、そうと決まれば一年以内に病気治してここを出るぞー。もちろん、兄さんと一緒に!』
あいつは、屈託のない笑顔をで向かいのベッドにいる俺に向かって手を伸ばした。届くわけないのに、あいつは手を伸ばしていた。でも、それで生きる気力が湧いてきた。届くはずのない手を伸ばして、俺はそう思った。
しかし、あの日に事件は起きた。
『……元気ないな?』
『え、別にそんな事ないよ』
俺は不安だった。この日の前日、あの公亮が急に体の不調を訴えたのだ。ここまで順調に回復していた筈だ。大学にだって問題なく通えていた。それなのに、あいつは突然帰ってきた。
良からぬ事が起こる前触れかもしれない。そう、一度は考えてしまうと、その不安は消えなかった。
『公亮こそ、ここに戻ってきたばっかりなんだから安静にしてなよ。僕のことは気にしなくていいから』
『うーん……いや、兄さんがそんなんだったら俺は不安で気が休まらない。俺に何かできることはないか?』
あいつらしいセリフだった。だが、あの時はそっくりそのまま返してやりたいセリフでもあった。
『なら安静にしてて。僕は公亮が心配なんだよ。ここまで順調だったのに、急に帰ってくるんだからさ』
『えっ、そうだったのか。そうだよな、そりゃあ心配かけちまうよな……あっ、それなら俺と場所を交換しないか?』
『……え?突然何?』
『いやさ、兄さんが俺になる。んで、俺が兄さんになる。そうすれば、お互い心配し合わなくていいだろ』
『どういう原理さ、それ』
突飛すぎて理解できない提案に、説明を求めた。すると、あいつは少し頭を掻きながら、直感的に思いついた自身の提案の説明をはじめた。
『兄さんはさ、自分が死ぬと思う?』
『そんなわけないだろ』
『そうだよな。俺だってそうだ』
『それとこれがなんの関係があるの』
『俺たちってさ、相手のことは死ぬ心配をするけど、自分はしてないんだよ。だから、目に映るのを相手じゃなく自分にすれば心配する必要が無くなるかなーって』
『……そんなもんかなぁ?それに、ベッドを変えたら病院の人に迷惑だよ』
『いいの、ちょっとした悪戯くらい許してもらえるよ。じゃ、了解も得られたしやろう!』
了解をした覚えは全くないが、ニシシと悪戯っぽく笑ってこちらに歩いてくるあいつをみて、断れないなと思った。結局、位置を交換した。
いつもとは違った位置から見た病室は、思ったよりも違って見えた。公亮はこちらを見てクスリと笑った後、こう言った。
『どうかな、何か変わったかい?』
その声は、いつもとは違ったトーン声。覇気のこもっていない女々しい声だった。それは、まるで自分がもう一人いる様な錯覚を覚えさせた。
『すごい。めちゃくちゃ似てるよ』
『双子だからかな?すごく簡単だったよ。兄さんもやってみたら?』
自分の声で兄さんと言われ、なんだか不思議な気分になった。それ程、本当によく似ていた。少し息を整えて、公亮をイメージして声を出してみた。
『なんか、すっげぇ変な気分だわこれ……』
『フフッ、ハハハッ!兄さんもすごく似てる!なんか気持ち悪い!!」
『フフッ、確かにそうだね。ハハハ!』
なんだか可笑しくて、さっきまでの心配は何処へやら、俺たちは笑い合った。それが、最後の兄弟の会話になる事を知らずに。
いつの間にか、疲れて眠ってしまったようだ。そして、そんな俺は、最悪な音で目を覚ました。誰かが咳き込むような音、この病室にいるのが俺と公亮であるため、その声の主は明らかだった。
ベッドから飛び起き、あいつの方を向いた。あいつは、ただ咳き込むばかりでこちらに気がついていない。苦しそうに、辛そうに、痛そうに、あいつはベッドの上でもがいていた。
急いでナースコールをする。現状を伝えると、少しして医者と看護師が急いでやってきた。医者は公亮の状態を見ると、急いで病室から運び出した。そこから、俺は待つことしかできなくなった。
不安に押しつぶされそうになりながら報告を待つ。そして、その日の夜。その日はちょうど満月で、天に向かって公亮が死なない事を願っていた。そんな願いも虚しく、俺は死を伝えられた。
『残念ですが、お兄さんは亡くなりました』
その名前は、俺が予想していたものとは違っていた。だが、あいつの死でそんな細かいことは気にしなかった。あいつが死んだ。あまりにも唐突に、俺の目の前から姿を消した。
さらにその翌日、その日に、俺の運命が決まった。あいつがいなくなって意気消沈していた俺に、ある人間が訪問してきた。それが、真弓だった。
真弓は公亮に会いにきたのだ。公亮の兄の訃報を聞いて駆けつけたようだ。俺は、どうするべきか迷った。ここで俺の正体を打ち明けてこのおかしな状況を終わりにするか、秘密にするか。
俺を公亮だと思っている彼女は、落ち込む俺を心配そうに見つめていた。俺は何もいうことができず、ただ俯いていた。すると、真弓は急に俺を抱きしめてこう言った。
『大丈夫だよ。今は辛いかもしれないけど、私はそばにいるから。いつか一緒に、幸せになりましょう』
その言葉と彼女の温もりで、公亮が惚れた理由がわかった気がした。その瞬間に公亮の言葉が蘇ってきた。
『俺はあいつを幸せにしてやりたい』
『俺は死んだらダメだな』
その時に、俺は決意した。俺は、吉山大河を殺すと。あいつの望みを叶えるため、あいつの言葉を嘘にしないため。元より、公亮以外には求められてなかった命だ。殺すのに躊躇はない。
『ありがとう』
初めて公亮として発した言葉。それに彼女は大きく頷くと共に、さらに強く抱きしめた。いつの間にか、俺は目から大粒の涙を流していた。
その日から、俺は吉山公亮として生きることを決心した。そして、病気が完治して病院を出た。そこからはもっと大変だった。出来の悪い俺はなかなか就職先が見つからず、はじめの頃はバイトで食いつないでいた。なんとかいい会社に就職し、生活が安定してきた頃に俺は真弓と結婚した。
少しの苦労はあったが、俺達は幸せを手に入れた筈だった。その筈だったのに、あいつは現れた。
『やぁ、吉山大河さん』
その名前を見知らぬ人間に言われた瞬間、目の前が真っ暗になった。木山は俺と公亮のやりとりの一部始終を見ていたらしく、俺の正体を知っていた。
あいつはそれを使って俺を脅し、金をせびりとった。それでかなり生活が苦しくなった。本来の収入の半分を持ってかれていたのだから。それでも、生活はできていた。だが、子供ができた。
子供に不自由はさせられない。真弓にも、もう苦労はさせたくない。だから、俺は木山を殺した。
○○○
「犯行の手順は始さんの言う通りだ」
跪く彼は虚ろな目をしていた。自分を殺してでも、彼がただひたすら隠し通し、積み上げてきたものがここに瓦解したのだから仕方ないだろう。真白が手錠を握って近づこうとした時、真弓が階段から駆け下りてきて、夫の目の前に立った。彼は彼女を見上げて、虚な目のまま、自嘲するようにこう言った。
「無様だろ?自分を否定して、ただ弟の幻影に取り憑いて生きて、弟の最愛の人を騙し続けてきた。その成れの果てがこのザマだ。……もう、俺のことなんて」
彼が何か言おうとした瞬間、真弓は彼を抱き寄せた。急なことに呆気にとられる彼に、彼女は手を震わせながら語りはじめた。
「もう、公亮さんがいないことは、なんとなく気付いてたの」
「……え?」
「最初は気付かなかったけど、一緒に生活を始めて、だんだんとわかってきたの。あなたは公亮さんじゃないって。……だって、あなたは不器用すぎるもの。だけど、不器用なりに一生懸命だった。そんなあなたに私は恋したの。いいえ、もしかしたらそうじゃないかもしれない。ただ、公亮さんを重ねてるだけかもしれない……本当に「あなた」を愛しているか、その真贋を見極められなかった」
真弓の震えた手はさらに強く彼を握りしめ、その目には涙を溜めていた。
「だから、子供が生まれた時。私たちの愛の証ができた時、あなたにこの心を伝えようって思ってた。だけど、こんな事になるなんて……ごめんなさい。私がもっと早く決心してればよかった」
涙を流しながらそう語る彼女の顔は、哀しみにあふれていた。だが、彼女はその涙を精一杯押し殺し、震えた声でこう言った。
「もう、遅いかもしれないけど伝えます」
彼女は決意した顔で、夫の唇にキスをした。そして、唇を離してこう言った。
「あなたを愛してます。大河さん」
屈託のない笑顔で、目元を赤くした彼女は笑った。それを見て、大河の目から涙が溢れてきた。そして、大河は真弓を抱き寄せて感極まった声でこう返した。
「僕も、あなたを愛してます!弟のためとか関係ない!支えてくれるあなたが好きだ!いつも明るいあなたが好きだ!頑張り屋なあなたが好きだ!」
感情が昂り、両者ともに涙を流しあった。そして、落ち着いた時、真白が大河に手錠をかけた。
「吉山大河、殺人の容疑で逮捕します」
「……はい」
頷いたのを確認すると、真弓はパトカーに足を向けた。それに大河がついていこうとした時、後ろから、真弓が呟いた。
「待ってますから、いつまでも」
大河は振り返らず、ただ、頷いた。真白は、大河を後部座席に乗せた。すると、何かに気がついた彼女は何処かへ走り去ってしまった。轟はそれをチラリと見ると、問題ないと判断したようで、パトカーを発進させた。
「……どうするつもりだ、大河さん」
「絶対に帰ってきますよ」
「そうかい……俺のアドバイスは役に立ちそうかい?」
「はい。とても、身に染みてわかりましたよ」
大河の顔は目元が赤くはれていたが、それでも憑物が落ちたように清々しそうだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます