第4話 平和な一日
事件の翌日の昼下がり。大家の田村青子は花壇の黄色いユリを眺めていた。事件から丸一日が経ち、警察は全員撤退して野次馬も来なくなった。
ギラギラと照りつける日差しを浴びながら、彼女はいつもの平和な日々が帰ってきたことに安堵していた。ただ、殺人事件が起こったアパートになってしまったことに少なからず不安を覚えていた。
もしかしたら住人が出て行ってしまうかもしれない、もう誰も新しい人が来ないかもしれない。
彼女にとって住人との関わりは、生きがいであり、心の支えであった。それを失うのが、なによりも恐ろしかった。そんな彼女に男が声をかけた。彼女はその声に聞き覚えがあった。
ハッとして振り向くと、そこには茶色いヨレヨレのコートをなびかせる金田始が立っていた。真夏の昼下がりになぜそんな格好をするのかと違和感を感じたが、それも束の間、彼が帰ってきたことに彼女は喜んだ。
「金田さん、釈放されたんですね」
「はい。僕は犯人じゃないって証明されましたから」
「やっぱり。金田さんはそんなことする人じゃないですものね」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
なんとなく、素っ気ない態度で彼は返事をした。顔は微笑んでこちらを向いているのに、心ここにあらずと言った感じで、言葉が乾いていた。
「そのユリ、綺麗ですね」
「あっ、はい。公亮さんがくれたんです」
その言葉を聞いて、彼はへぇと頷き、花達を一瞥すると、手を振ってその場から歩き去った。始は階段を上り、自分の部屋の前まで来た時に、後ろから声をかけられた。
振り向くと、目の前に神瀬剛と白梅綾花がいた。二人とも、始が帰ってきたことに驚きと安堵を隠せずにいる。そんな二人の頭の上に手をポンとおいて、始はこう言った。
「ただいま、もう心配しなくていいよ」
「ホント心配したんですからね!自分の事は何も出来ないからどうなっちゃうか夜も寝られなかったんですよ!」
「そうですよ!帰ってきたら始さんが逮捕されたって言われてどれだけ焦ったと思ってるんですか!でも……」
「「よかったぁ」」
二人は言いたい事を言った後、安心からか、その場にへたり込んだ。始はそれを見て微笑むと、しゃがんで二人に視線を合わせた。
「ごめん。やっぱ頼りないよね、僕って」
本当に申し訳なさそうな顔で、まるで自嘲してるかのような声で謝罪した。二人は、その対象が自分たちではないように思えた。この言葉は、ぶつけようのない感情のやりどころに迷い、その心を吐露したのだろうというのが、今の彼を見てとれた。
だが、その感情が一体どういうものか、二人には分からなかった。そんな彼をいたたまれなく思い、二人は話の方向を変えた。
「それより、真犯人はわかったんですか」
「いや、あの二人が調査中だよ」
「そうですか……始さんはこれからどうするんです」
「今日は休むよ。いろいろ疲れたし。じゃ」
さっさと話題を切り上げてふらりと自室に足を向けた。それを、二人は、今は一人にして欲しいというメッセージのように見えた。だから、まだ聞きたいことがあるが、二人は引き下がった。
二人がその場から立ち去り、始が自室の前まで来た時、隣の部屋の扉が開いた。そこから、吉山公亮と真弓が、小林優弥を連れて出てきた。四人の目が会うと、すぐさま、優弥は笑顔で始の胸に飛び込んだ。始はそれを少しふらつきながら受け止めると、吉山夫妻に目を向けた。二人は再開した始と優弥を温かい目で見つめていた。
「始さん!出てこれたんですね!」
「うん。真白と轟さんのおかげで、無事にね」
「よかったぁ。あっ、公亮さん、真弓さん、一日お世話になりました」
「優弥をありがとうございました」
一通り再会を喜び合い、二人は吉山夫妻に丁寧に一礼して感謝の気持ちを伝えた。
「いえいえ、来年には子供も生まれますから、予行練習になってちょうど良かったですよ。始さんこそ、災難でしたね」
「始さんが釈放されたってことは、真犯人が捕まったのか?」
「いえ、ただ僕が犯人ではないと分かっただけです」
始は、優弥を受け止めた時に着崩れたコートを直しながら、公亮の疑問に答えた。
「お二人はおでかけですか?」
「はい。今のうちにいろいろ揃えておこうと思いまして」
「昨日来た轟刑事が、必要になるものをいろいろ教えてくれたんです。あと、育児に必要な心構えとか」
「どんなことです?」
「とりあえず、何をするにしてもしっかり話し合うこと。片方に任せきりにしないこと。って感じで、いろいろです」
「へぇ、轟さんって意外とそういうこと言うんですね。それじゃあ、道中お気をつけて」
「はい。始さんもしっかり休んでください」
始の疲れ切ったような顔を見て、真弓はそう言った。始はそれに対して一礼してから、踵を返して自室の扉を開けて中に入った。開けっ放しの扉を後から入ってきた優弥が閉めると、カーテンを開けた。
夏の日差しが窓越しに室内を照らす。土曜に片付ける予定だった部屋は、未だに散らかったままだった。始は溜息をつくと、暑さに限界が来たのか冷房をつけた。暑いならコートなんか着なければいいのにと優弥は思った。
「昼ごはんは食べた?」
「はい。吉山さんのところで」
「そっか、ぼくはまだだから先に片付け始めといて」
始はポットに水を入れて湯を沸かし、棚を開けてカップラーメンを取り出して湯を入れた。その頃になると冷房も効き始めて過ごしやすい温度になった。
テーブルにカップ麺を置いて、箸で蓋を押さえた。優弥の手際が良いせいか、それとも元々あまり散らかってなかったのか、部屋はほとんど片付け終わっていた。
「始さんの仕事はなさそうですね」
「そうだね。……まぁ、これから大仕事だから体力は残しときたい」
「そんなこと言って、もう疲れ切ってません?」
「やっぱ辛いよ、この仕事」
「始さんは優しいですからね」
始はラーメンを食べ終わると、ルンバを発進させた。ルンバはヴーと音を立てながら自らの使命を全うするため部屋を移動し始めた。
「これ、ちゃんと綺麗にできてると思う?」
「セールで買った安物ですからそこまで頼りにはなりませんよ。端っことか埃が残ってましたし」
「やっぱり自分でしないとダメかな……そういえばワトスンは見つかった?」
「まだです。ほんとよく居なくなりますよね」
「一番よく探す猫が自分のなんだからなぁ……」
彼はそうぼやくと、頭をかきながら寝室の方に足を向けた。
「疲れたからもう寝るよ。夕食になったら起こして」
「食べた後に寝たら牛になりますよ」
「豚の次は牛かぁ」
優弥の警告をスルーして、始は寝室に入った。そして時間が過ぎ、始は家のチャイムの音で目が覚めた。彼がフラフラと扉の前まで来た時には、すでに優弥が来客と応対していた。
訪問者は大家の青子だった。そして、彼女が抱えていたのは、いなくなっていた飼い猫のワトスンだった。そいつは自分が心配されていたのにも関わらず、ふてぶてしい顔で青子に抱かれていた。
「始さん起きたんですか」
「うん。それより、そいつはどうしたんです?」
「いつの間にか部屋の前で丸まってました」
「ほへぇ、そうですか。ありがとうございます」
始は、大家にお礼を言って猫を受け取った。ぐでんと太った腹が腕にのしかかり、負荷をかけてくる。相変わらずワトスンはそれを全く意に介さず、果ては欠伸まで敢行した。
「こいつめ、少しは申し訳ないと思わんかい」
「ハハ、猫ってそんなもんですよ」
ニコリと笑う彼女の顔を見ると同時に、ちらりと外を見た。すでに日は落ちていて、チラチラと光る星達がが夜を告げている。
「ほんと、ありがとうございました」
「いえいえ、それじゃあまた明日」
青子は別れの挨拶をしてから扉を閉めた。ガチャンと扉が閉まると同時に、ワトスンがヒョイと始の腕を飛び出して、床にドンと飛び降りた。すると、濁った鳴き声で餌を要求してきた。
「罰として餌減らしてやろうかな」
「アリかもしれませんね」
そんな会話をしながらも、いつも通りの量を入れてやった。優弥は料理の途中だったらしく、切った野菜がボウルに入れられていた。
「今日は夏野菜カレーですよ」
「あれ、そんなに野菜ってあったかな」
「おすそわけですよ。真弓さんの実家の農家から送られてきたらしいです」
優弥はそう言いながら人参を鍋に投入した。彼が料理をしている間に始は風呂に入り、出た後にしばらくテレビを見ていたら、カレーが完成した。
運ばれてきたカレーはぶつ切りの大きなカボチャやナスがゴロゴロと入っており、まさにカレーといった感じだ。しかし、その中にはあるものが入っていなかった。
「……お肉ないの?鶏肉とか」
「始さんがもう少し稼いでくれたら考えますよ」
「あっ、はい」
あっさりと論破された。収入が安定しないのを申し訳ないと思いつつ、始はカレーを食べ始めた。
「うーん、自営業だからなぁ。どうしたら収入が増えると思う?」
「多分、今のままだとだめです」
「ひどいなぁ」
「でも、それで良いんじゃないですか?それが始さんの良いところですし」
「ん?どういうこと?」
そこ問いに答えることはなく、優弥はカレーをかきこむと皿を片付けてから風呂に入っていった。食べるのが遅い始は、優弥が出てきたころにようやく食べ終えた。
「また異常気象だって」
「毎年こう言ってますよね」
「なら異常じゃなくない?」
「ハハッ、いえてますね」
彼らはニュースを見つつ駄弁っていた。時間は十時を過ぎていたせいか、優弥は眠そうに目を擦った。
「疲れた?」
「まぁ……この前夜更かししちゃって」
「お泊まりの時ね。しちゃうよねー、夜更かし」
「やっぱりこういう時間って貴重だからすぐ寝ちゃうのはもったいなくて。じゃあ、ぼくは歯磨きして寝ますから、始さんはテレビと冷房消してから寝てくださいね」
「りょーかい」
始は軽く返事をしてテーブルに置いてあるコップを手に取った。中の氷はほとんど溶けていて、横に振るとカランと音が鳴った。
優弥が寝室に入ってしばらくしたら、始のスマホに電話がかかってきた。真白からだ。サッとスマホをとって電話に出ると、彼女の真剣な声が聞こえてきた。
「始、あんたの言う通りだった」
その言葉で、始は自分が今置かれている現実に引き戻された。ほんの少し、自分が忘れようとしていたそれを唐突に突きつけられ、彼の意識は少しの間、どこか別のところに放り出された。
「始?聞いてるの?」
「え、あぁ、うん」
聞き慣れた、少し懐かしい声で始は意識を取り戻した。
「どうする?今すぐそっちに行けるけど」
「いや……明日まで待って」
始はカーテンを開けて夜空を見上げた。時間はすでに十一時を過ぎており、民家の明かりも少なくなっていた。
「今日は、平和な一日で終わらせよう」
夜空には、満天の星空と夜を照らす満月が浮かんでいた。
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