第9話

「橘、なんで呼ばれたか分かるよな?」

机の上にある紙を人差し指で叩きながら、笑顔でそう言ってくるのは担任の和泉凪紗いずみなぎさである。

ところ構わず煙草を吸っているせいで生徒からはあまり好かれていなく、笑っているところも見せたことがないので怖がられている。

俺は今までなんとも思っていなかったのだが、今日この時を持ってこの人への印象は変わってしまった。

「た・ち・ば・な?」

普段笑っているところを見せてこないからこそ今笑顔なのがすごく怖い。

誰かに助けを求めたくても、今のこの時間は偶然なのか必然なのか、国語準備室には二人しかいなくどうすることも出来ない。

「……(にこっ)」

「すみませんでした」

無言の笑顔の圧に耐えきれなくなり、頭を下げ謝罪の言葉が口から溢れ出る。

この人絶対一人ぐらい殺ってるよ。謝ったし早く解放してくれないかな。

「謝ればいいと思ってる?」

「そ、そんなことないです」

心を読まれたのか思っていたことがバレてしまう。

「まぁ正直私の担当教科じゃないし別にどうでもいいんだけどね」

「あ、それじゃあ帰ってもいいですか?」

ここから出ていこうと背を向けると、ドンと音が鳴る。

「ですよねー」

振り向くとそこには笑顔で右手をグーにした状態で机に乗せている。

「とりあえず座りな」

「はい」

言われた通り今は留守にしている誰かの席に座る。

「これ、どういうこと?」

こうなった全ての元凶である紙を指差す。そこには赤い文字で二十三点と書いてある。

「どうもこうも見ての通りです」

数学の小テストで五十点満点中のこの点数が今の俺の実力で言い訳のしようがない。

「入試の点数いくつ?」

「ええと」

脈絡のない質問に答えるべきか戸惑うが、言えという圧に耐えきれなくなり口を開く。

「……確か五教科だったから。五百点です」

「四月のテストは?」

新学期始まってすぐに行ったテストのことか。あれは春休みに出された課題から出す形式だったから、テストというより覚えたかの確認と言った方が正しいだろう。

「国、数、英だったんで……。三百点です」

「じゃあこれは?」

「……二十三点です」

小テストの紙を人差し指と親指で持ち、ヒラヒラさせて見せてくる。

「というか先生国語教師じゃないですか。なんで数学のことで呼ばれるんです?」

居心地の悪い空気を変えようと気になっていた部分を尋ねる。

「数学の佐藤に投げられたんだよ。はぁ」

そこで吸っていた煙草を灰皿に捨て、二本目に火をつけた。

生徒の前で吸いすぎだろと思ったが余計なことを言うと今度こそ何かされそうなので黙っておく。

「橘お前なんで今まで何も言われなかったか分かるか?」

一瞬なんのことか分からなかったが会話の流れからすぐに思い当たる。

「諦められてるからですかね」

授業中に起こされても起きることをしなかったら俺に対してそうなるのも無理はない。というか自ら望んでそうなったとも言えるだろう。

「それもあるかもな。先生も人だ。人である以上好きで贔屓にするやつもいれば、嫌いで放っておく奴もいる。義務教育でもない高校なら尚更な」

「じゃあ先生はなんで俺に構ってるんですか? どう考えても俺は後者ですよね」

客観的に見た時に俺は嫌われる部類に入るだろう。だとしたらこうやって時間を取ってまで呼び出す理由が分からない。

「ん? 私はお前を嫌っていない。むしろ好いてる方だぞ」

「どうして?」

予想もしていない言葉に、敬語も忘れ食い気味に聞いてしまう。

「私は結果しか見てないからな」

「寝てた結果がこれですけど」

机に置かれている少テストを指で指す。

「これは過程でしかない。私が言ってる結果はテストのことだ。丁度月末にある試験な」

「テストでいい点取れば過程はどうでもいいってことですか?」

「纏めたらそうなるな」

「そんな滅茶苦茶な」

俺としては願ったり叶ったりだけど教師としてそれはどうなんだ。

「とは言えこれは私の意見でしかない。他の人は結果といえば成績表の事だと思うしな」

言われてみれば確かにテストも過程に過ぎない。大きく見れば成績表すらも過程の一部にしかならないだろうが、こと学校という場所であれば成績表が結果だろう。

「まぁお前をここに呼んだのは体裁のためだ。私は結果しか見ないからな。もう帰っていいぞ」

手で出ていけとジェスチャーをしていたが、だとしたら気になる点があるので聞くことにした。

「ここに来たとき、怒ってたのあれ何でですか?」

「あー。それな、別にお前に怒ってたわけじゃない」

「え? じゃあ誰にですか?」

「数学教師の佐藤だよ。どうもあいつはいけすかない。お前には八つ当たりしたにすぎん」

生徒に対して包み隠さずに言い過ぎだろ、本当に教師かこの人

「言ったろ、教師だって人で嫌いなやつもいるって。私にとってそれは佐藤なんだよ」

顔に出ていたのかそう言ってくる。

「そもそも担任ってだけで国語教師に数学でのことを投げてくるなよ。何か言いたいことがあればお前が言えって話だろ」

地雷を踏んだと気づいた時にはもう遅かった。先生の愚痴は止まることを知らない。

「そもそもなんであんなやつが生徒から人気なんだ? あんな顔だけのやつ。私の方が好かれるだろ」

どんなに贔屓目に見てもそれだけは無いですよ。

「なぁ橘、どうやったら生徒に好かれると思う? やっぱ愛想なのか?」

愛想がないのは自覚しているらしく、だとしたら問題は1つしかない。

「煙草じゃないですか。あっちこっちで吸ってたら、世の中煙草嫌いも多いですし嫌われるのではないですか」

「これはダメだ。私のアイデンティティだからな。それにイメージ的に国語教師は煙草吸ってるのが普通だろ」

どんな普通だよ。この人の中では色々とズレてることが多いな。

「はぁ。何で去年の生徒は卒業してしまったんだ。せっかく好かれてたと思ったのに私を捨てて行くなんて」

何度目かの教師とは思えない発言にもうなんとも思わなくなってしまった。

それよりも目が真剣で冗談ぽく言ってないのが恐い。

「先生落ち着いてください。俺は先生のこと好印象ですから」

「……。はぁ」

やっと現実に戻ってきたかと思えば俺の顔を見てため息を吐く。

せっかく人が慰めているのに失礼な人だと思ったが、この人はこれが平常運転なのだと納得してしまう。

「入試満点の奴がいるクラスを持つことになって、これを機会に煙草もやめて最初から好かれる先生を目指したのに、蓋を開けてみれば問題児ばっかのクラス。いつの間にか煙草にも手が出て。はっは、私終わってるな。そう思わないか橘」

「ははは、大変ですね」

「お前に私の何がわかる」

俺はなんて答えるのが良かったのだろうな。

いつの間にか先生の表情はいつもの凛とした顔でもなく、会った時の笑顔でもなくなっていた。

「……案外可愛い表情もできるじゃないですか」

「なんか言ったか?」

「いえ、なにもいってません」

目付きの鋭さだけは変わることは無い。

「まだ終わってないぞ。ここまでいったら全部聞いてもらうからな」

今更帰れと言われた時に帰らなかったことを後悔する。

その後愚痴は止まることを知らずに十分ぐらい延々と聞かされた。

時折話を振られたがその場その場で適当に相槌を打つだけで、俺からは基本なにも喋らなかった。というか先生の話を聞けば聞くほど悲しくなってくる。

二十五歳で、生まれてこの方男は一回も出来たことはなく、まともに連絡する友達すらいないらしい。去年卒業した生徒と連絡先を交換して影で喜んでいたのに、今では誰とも連絡していないと失笑していた。

もっと色々言っていたが聞いているだけの俺が泣きそうになるぐらい悲惨だった。

とりあえず可哀想すぎたので帰り際「時間ある時は絶対返すので、いつでも連絡ください。」と言って俺の連絡先を渡しといた。

その時の喜んだ顔が俺に刺さって心が痛くなる。

俺は当初の予定にプラスしてズタボロになったメンタルを癒して貰いに、空に会いに行くのだった。

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