第61話 アレスのお願い


 白い光が収まり、目を開けると高級そうな宿屋の前だった。

 夜空には煌々と月が輝き、優しい光を振りまいている。もう日付が変わりそうな時間になっていた。


「ロザリア。今日はもう遅いから、明日からゆっくり回ろう」

「あ、そういえばそうね。私は眠らされていたから、妙にスッキリしていて気が付かなかったわ」

「そうだと思った。眠りたかったら俺が手伝うから安心して」


 いや、それはむしろ眠れないのでは……!?

 なんて言ったら墓穴を掘りそうだったので、おとなしくアレスの後に続いた。


 こんな時間なのに爽やかな笑顔を浮かべ、手早く受付をしてくれる宿屋の主人に頭が下がる。用意された部屋は最上級とはいかないまでも、ゆったりと過ごせる十分な広さがあった。

 特に浴室が豪華で通常の一・五倍はある浴槽に、湯船に浮かべるための花びらや色とりどりのアロマキャンドルまで用意されている。


「ここはカップルや夫婦に人気のある宿屋なんだ。気に入ったか?」

「ええ、もちろんよ。とても素敵なバスルームだったわ。これならゆっくりとリラックスできそうね」

「それならよかった。では一緒に入ろう」

「入る? どこに?」

「決まっているだろう、湯船だ」


 一瞬思考が停止した。

 アレスと、一緒に湯船に入る? なぜ?


「どうして、アレスが一緒に入るの?」

「どうしてって、もうロザリアと離れたくないからに決まっているだろう?」


 離れたくないのはわかる。だけど湯浴みまで一緒というのはどうかと思う。


「……アレス、湯浴みはひとりでもいいと思うの」

「ロザリア。今回の素材探しは忍耐の旅と言っても過言ではなかった」

「そ、そうね。アレスを付き合わせて申し訳ないと思っているわ」

「それなら——」


 アレスは私を抱きしめ、額から頬へ、そして耳へと口づけを落としていく。

 ぐずぐずに溶けそうになっている私に、耳元で甘く囁いた。


「必死に耐え忍んだ夫に、ご褒美をくれないか?」


 だけど私だって、この二年の結婚生活で多少の抵抗力はついているのだ。五回に二回はアレスの甘い罠から逃げ出せる。ここは流されてはいけない。頷くのは、念のためご褒美の中身を確認してからだ。


「ご、ご褒美って……?」

「今度は俺のお願いを聞いてくれる?」


 さっきまでの獲物を狙うようなアレスは身を潜めて、今度は捨てられる子犬のような目で私を見つめる。潤んだ夜空の瞳はいつもよりきらきらと眩しく、私が見上げるほど大きいのに見事に庇護欲をそそってきた。

 こんなアレスになんと言って断れるのだろうか。


「……はい」


 こんな風に確実に惚れた弱みをつかれたら、断れるわけがない。

 私よりも私を理解していてさすが最愛の夫だわ、と開き直るしかなかった。


 そうして湯船の中でも散々愛され、私たちの新婚旅行は始まった。




 翌朝はたっぷり寝坊して、食事は部屋まで運んでもらいのんびりと過ごした。

 新婚旅行に行くのも急ぐことはない。竜王様のお墨付きで一カ月ももらえたのだ。アレスも一緒に寝坊したのが新鮮だった。だいたい私より先に起きて、さまざまな準備を進めている。

 食後の紅茶を飲みながら、アレスのくつろいだ様子を盗み見ていた。


「そういえば、今朝は執事じゃないのね」

「新婚旅行は夫婦で行くものだろう? 執事の方がよかったか?」


 なるほど、だから今朝は私と一緒にベッドで目覚めたのか。朝から大人の色気漂うアレスに、蜜月休暇を思い出したくらいだ。出先でもずっと夫のままなんて初めてかもしれない。

 執事のアレスはもちろんだけれど、私をぐいぐいリードしてくれるアレスだって愛おしくてたまらない。


「ううん、どちらのアレスも素敵だから大丈夫よ」

「そうか。では遠慮なく夫として振る舞おう」


 アレスはカップに入っていた紅茶を飲み干して、私を横抱きにする。


「えっ!? なに!?」

「なにって、夫として遠慮しないと言ったはずだが?」

「ええ、聞いたわ。だから旅行だし、どこか観光とか行くのではないの?」

「……その前に夫婦として、もっと大事なことがあるだろう?」


 もしかして、うっかりなにか取りこぼしていただろうかと真剣に考えた。

 アレスは新婚旅行を楽しみにしていた。それは今すでに実現している。その他に夫婦として、なにかあるのか?


 出発前のアレスとの会話を思い出す。

 確か……王太子夫妻のお役目について話して、それから——


『お役目……それは私にとっても重要なお役目ですよね?』

『もちろんよ! 私たちが力を合わせれば、ラクテウス王国の発展に繋がるわ!』

『それは、つまり……いえ、もう少し夫婦だけでよかったのですが……お嬢様が望むならやぶさかではありません』

『夫婦だけ……そうね、今は私とアレスだけだから、全力で取り組みましょう!』

『はあ、こんなにも熱くお嬢様から求められるとは思いませんでした。ですが、お望みであれば私も全力を尽くします!』


 そうだ、こんな感じの会話だったような気がする。

 でも、これのどこに取りこぼしがあるのかわからない。


 痺れを切らしたアレスが私に問いかけた。


「ロザリア、俺たちの愛の結晶を育みたいのではないのか?」

「あ——」


 愛の結晶。なるほど、そういうことだったのか。

 あああああっ!! 通りであの時、アレスがすごく嬉しそうに頬を染めて照れていたわけだわ!!

 私が子作りに全力で取り組むと勘違いしていたのね……!!


 全力……待って、アレスの全力とは!?


 私はそこで、かつてないほどの窮地なのではと思い至る。もしかしたら、ここまでの旅の間もアレスなりに真剣にお役目に取り組んでいただけなのかもしれない。


「もちろんアレスとの間にかわいい子供はほしいけれど、そんなに焦らなくてもいいと思うの。アレスは旅の間もずっと頑張ってくれていたのよね?」

「……いや、あれは嫉妬に狂ってロザリアにマーキングしていただけだ。全力は出していない」

「嘘でしょう!?」


 あれだけ毎夜毎夜、明け方近くまで夫婦の営みをしていたのに!? あれで全力ではないなんて……!!


「ちゃんと新婚旅行になってから、全力を出そうと思っていた」

「つまり……」

「これからが本番ってところだな」


 そう言って妖艶な笑みを浮かべるアレスに抗う方法があったら、誰か教えてほしい。

 気が付けばベッドに逆戻りして、記憶が途切れてもなお愛を注がれた。


 アレスは今まで全力を出していなかったと、やっと理解した日だった。




 それから一週間後、今日こそアレスに物申したいと目が覚めた瞬間に思った。


「……アレス、おはよう」

「おはよう、ロザリア」


 目を開けると、つやっつやの顔を綻ばせアレスが口づけしようと近寄ってくる。私は反射的に自分の唇を手のひらでガードした。アレスはかまうことなく柔らかな唇を押し当てる。


「ロザリア、手を避けて」

「いいえ、避けません。今日という今日は私の話を聞いてもらうわ」

「……なんだ?」


 寝起きのキスができなくて少し拗ねながらも、私の話を聞こうとするアレスに胸を撫で下ろす。


「あのね、お役目もわかるけれど、アレスと旅行も楽しみたいの」

「うん、わかってる」


 アレスはなにを言っているんだという顔をしているけれど、少しも理解していないのは間違いない。なんだか前も似たような会話をしたと思うのは、気のせいじゃないはずだ。


「だからね、こういうことは夕食の後だけにしましょう」

「……新婚旅行なのに?」

「新婚旅行だからよ。これでは蜜月との違いがわからないわ」

「……そうなのか?」

「ええ。場所が変わったのと食事が運ばれてくるだけで、まったく、なんにも、一ミリも変わらないわ」

「……っ!」


 ハッとして、天井を見上げるように寝転び、右手で顔を覆っている。

 指の隙間から夜空の瞳が覗いて、バツが悪そうに呟いた。


「ごめん、ロザリアと新婚旅行が嬉しくて暴走した」

「いいわ、この後ちゃんと旅行できるなら許してあげる」

「わかった。どこか行きたいところはあるか?」

「そうねえ……」


 こうしてやっとのことで、最初に来た宿から移動することができたのだった。



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