第二部

第37話 プロローグ



 ——どこにもいない。


 穏やかで優しい微笑みが。

 愛しげに私の名を呼ぶ声が。

 私を見つめる夜空の瞳が。

 いつも私を導いてくれる大きな手が、どこにもない。


「どこにいるの?」


 ねえ、アレス。

 私、ようやく知ったわ。


 テノールボイスの声も、夜空のような瞳も、大きな手の温もりも。

 とっくに私の半身になっていたのね。


 最愛の番を奪われそうになる竜人の気持ちが、どれほどの悲哀と激情を生むのか。


 喪失感? いいえ、そんな簡単なものじゃない。

 怒り? いいえ、そんな生やさしいものじゃない。


「私の番をどこにやったの?」


 私の中であふれ出した感情が渦をまく。

 そこにあるのは、敵を滅するための憎悪と、発狂しそうな焦燥。

 番に対する竜人の愛の深さを知らない、愚かな者たちへ制裁を。

 私の言葉は届いていないのか、目の前にいるふたりの男は言い争いをやめない。


「ああ!? ふざけんな、こっちだって譲れねえんだよっ!!」

「黙れ! ロザリアは私の妻にするのだ!!」


 シックで上品な部屋の雰囲気にそぐわない罵り合いが続いている。


「お黙りなさい!!」


 私の怒声で、やっと男たちが口を閉ざした。抑えに抑えてきた感情は激流のように私の内側で暴れ回る。

 私の細胞のひとつひとつが足りないものを求めて、暴発しそうになっていた。


「私のアレスはどこ?」


 私はゆっくりとソファーから立ち上がる。

 ふたりの男たちは、息を呑んで動かない。私の問いかけになにも反応がなくて苛立った。


「聞こえないのかしら? 私の夫、アレスはどこにいるの?」


 両手首には、鎖で繋がった魔封じの手枷がつけられて魔法は使えない。ならば、こんなゴミのような魔道具は壊してしまえばいい。


 これでも魔道具の開発担当者なのだ。王家の秘宝でもない限り、この手の道具は簡単に壊せる。いつも持ち歩いている工具を取り出し、左の手首についている手枷を分解していく。


 バラバラと落ちていく部品は、毛足の長いカーペットに微かな音を立てて埋もれていった。


 すぐにアレスの魔力を追ってみるけれど、やはりどこにも感じない。

 すっかり軽くなった両腕から、あふれる激情とともに思いっ切り魔力を解放する。右手には炎魔法を、左手には水魔法を練り上げた。


「なっ、二種類の魔法を同時に操れんのか!?」

「さすがロザリアだ……! それでこそ我が妻にふさわしい!」

「いい加減にして。私の夫はアレスだけよ。これ以上勝手にするなら、もう遠慮はしないわ」


 私はもう我慢なんてするつもりはない。

 大切なものを奪われないために、全力で抗う覚悟はできている。


「私のアレスを返して」

「くっ、おい! お前、ロザリアをとめろ!」

「はあ!? お前こそ、帝国の皇子なんだからとめろよ!」

「……もういいわ。貴方たちの顔など見たくもない」


 激情にまかせ、こんな屋敷ごと吹き飛ばすつもりで最高威力の魔法を放とうと魔力を練り上げる。

 私は沸々と湧き上がる怒りに身を委ねた。



「許さないわ。私の番を奪うのは絶対に許さない——!!」



 嗅ぎ慣れた柑橘系の爽やかな香りがふわりと鼻先を掠めるた気がした。

 愛しい人の残り香に、どうしてこんなことになったのかと思いを馳せる。


 あれは三カ月前の穏やかな晩冬の日だった——



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る