第30話 艶やかに華ひらく




「お嬢様」



 透き通った穏やかなテノールボイスが私の鼓膜を震わせた。


 漆黒の燕尾服をまとった専属執事は私を庇うように目の前に降り立つ。彼の腰から垂れているふたつに分かれた黒い布がふわりと揺れていた。


 それが愛しい人だと理解した途端に私の心が凪いでゆく。

 たとえ背後に広がるのが瓦礫の山でも、崩れ落ちそうな王城でも、アレスの背中はこんなにも頼もしい。


 風になびく艶やかな濡羽色の黒髪は太陽の光を受けて、深い青に輝いていた。振り返る彼の夜空のような瞳は、灼けつくような熱を孕んでいて目を逸らせない。



「お嬢様、私の幸せは貴女の幸せです」



 ええ、あなたはいつもそう言ってくれていた。

 でも私は王太子殿下から離縁されるような女なのよ?

 得意なことと言ったら魔道具の開発で、女らしいところなんてひとつもないのよ? そんな私が幸せになれるというの?



「私はお嬢様の願いを叶えるために存在するのです」



 お願い、そんなことを言わないで。

 せっかく抑え込んだ気持ちがあふれだしてしまうから。



「ロザリア様。私は貴女の憂いをすべて取り払いたい。貴女でないとダメなんです。貴女だけが欲しい。貴女が微笑わらってくれるなら、この世界だって手に入れます」



 そう言って差し出された手はトレードマークだった白手袋をつけていない。

 戸惑う私の手をすくい上げて、指先に艶めく唇を落とした。そのまま腕の中に囚われてしまえば、私の瞳に映るのはあなただけ。


 離れなければいけないと頭では理解しているのに、歓喜に震える私の身体はピクリとも動かない。

 このまま、私の心のまま選んでもいいの?

 それでもあなたは後悔しないの?


 私の揺れ動く心を見透かしたように、彼は追い打ちをかける。



「俺はロザリア以外なにもいらない」



 それは執事としてではなく、アレス自身の言葉。



「同じ気持ちなら、俺にキスして」



 ずっと私を想ってくれていた。

 ずっと私に気持ちを伝えてくれた。


 本当は自分の気持ちなんてとっくにわかってた。

 もうこの夜空の瞳から逃げられない。

 違う、もう逃げたくない。



 まだ間に合う?

 一度は諦めようとしたけど、私はアレスを望んでもいい?



「私…………私は————!」






 私の脳裏に甦るのは初めて会ったあの日のことだった。

 走馬灯のように駆け巡る記憶には、いつもアレスの穏やかな夜空の瞳と深く一途な愛情があふれてる。


「————アレスが特別なの」

「うん、知ってる」

「でも、酷い内容の手紙を書いてしまったわ」

「ああ、ロザリアが俺の愛の深さを理解してないから教えに来た」


 あの手紙を読んでも、なお来てくれたと言うの?

 ああ……アレスはわかっているんだわ。

 あの手紙は私が心を押し殺して書いたものだと。そして私を変わらず信じてくれている。


「ロザリア、愛してる。早く俺のものになって」


 もう、いいわよね?

 もう、私が欲しいものを手にしてもいいわよね?


 あんなに私の人生を終わらせようと覚悟していたけど、終わらせるのは耐えるだけの人生だ。

 こんなにも私だけを愛してくれるアレスがいる。世界中の何よりも大切だと思えるアレスがいてくれる。

 ————我慢するのはもう止めだ。


 私は自分の心を自由にしよう。

 我慢しても奪われるのなら、心のままに大切なものを守るのよ。

 私はもう何も諦めたくない!


 決心した私はアレスに偽らない心からの笑顔を向ける。アレスは息を呑んで目を見開いた。



 可憐に、苛烈に、何よりも艶やかに咲き誇る一輪の華のように微笑む女が、その夜空の瞳に映っている。

 固く閉ざされていた蕾が、一途で深い男の愛によってようやく華ひらいた。




「アレス、私も愛してる。あなただけを、世界中の誰よりも愛してる!」




 夜空の瞳が歓喜に震えて潤んでいく。さらに美しく煌めく瞳から目を逸らせない。

 そっとアレスの頬を包み込んで、触れるだけのキスをした。


「これが返事よ。私をアレスの伴侶にしてくれる?」

「……っ! 当然だ。俺のロザリア」


 さらにキツく抱きしめられて、深い深いキスを交わす。アレスの柔らかな唇と熱い舌に翻弄されてなにも考えられなくなっていく。愛しい人との口づけは甘くとろけるような幸せを私に与えてくれた。


「まっ……アレ……んふっ」


 もう力が入らなくなりそうで止めてほしいのに話す隙もない。強めに拳を打ち付けて、やっと止まってくれた。


「ごめん、やっと俺のものになったから嬉しすぎて止められなかった」

「もう……力が、入らなくなっちゃう……」

「いいよ、あとは全部俺に任せて。もう一瞬たりともロザリアと離れたくない」

「あっ、待って、アレス……んんっ!」



「おっ、おっ、お前ら!! 何をしているのだ!?」


 その叫び声にハッと我に返る。

 深く繋がっていた唇が離れて声の主に視線を向けると、ボロボロになったウィルバート殿下が立っていた。怒りに染まって醜く歪んだ顔は、キラキラと輝いていた頃の面影もない。


「何って、番と熱い口づけを交わしているんだ。邪魔するな」

「つがい……? 何を言っている、その女は私の妻になるんだ! その手を離せぇぇっ!!」

「……誰が誰の妻になるだと?」


 ゆらりと揺れるように立ち昇る魔力は以前のアレスとは別物のように強大で、それだけで平伏したくなるような覇気をまとっていた。ウィルバート殿下はハクハクと口を動かすだけで後ずさる。


「アレス、待って! お父様とお母様が投獄されているの。先に助け出さないと危険だわ」

「ああ、それなら母上たちが対処してる。父上も合流したから問題ない。ロザリアを縛りつけるものは何もない」


 その言葉に今度こそ力が抜けた。お父様とお母様が助かるなら、私がここでウィルバート殿下の言いなりになる理由はない。


「よかった……! それだけが心配で、お父様とお母様に何かあったらって……!」

「あと数分で伯爵夫妻は救出できる。安心して」

「お前ら、ボクを無視するな! この国の王太子だぞ!! クソッ、邪魔な奴から片付けてやる!」


 そう言ってウィルバート殿下は至近距離で全力の火炎魔法を放ってきた。アレスの張った結界によって魔法は防がれて私には熱さも届いていない。

 反射的につぶってしまった目を開ければ、アレスは私を抱きしめたまま片手で魔法を握りつぶした。


 えええ! 魔法を素手で握りつぶすなんて、いくらなんでも強くなりすぎだわっ!

 このままアレスだけで片をつけるつもりかしら!?


「待って!! 私、自分で片をつけたいの!」

「いや、ロザリアにそんなこと……」

「アレス、お願い。一発ぶち込まないと気が済まないわ」

「……なるほど、さすが俺のロザリアだ。この気の強さも愛しくてたまらない」

「アレス、結界も解いて。手出しは無用よ」

「わかった」


 アレスの結界を解いてもらいウィルバート殿下を魔道具で治療していく。勿体なかったけど、あとで文句を言われないように魔力回復の飲み薬まで与えた。何を勘違いしたのか「やはりボクのことが……」と呟いていたけど、サラッと無視しておく。


「ではウィルバート殿下。全快なさいましたね?」

「ああ! ロザリアのおかげでいつもより調子がいいくらいだ!」


 キラキラと輝くような笑顔を復活させたウィルバート殿下が、絶好調といった様子で胸を反らす。今までの流れでどうしてこうも自分の都合のいいように考えられるのか逆に知りたい。

 私は立ち上がりウィルバート殿下を見下ろして宣言する。



「それでは私との決闘を受けてくださいませ」



 お父様もお母様も無事ならば、私はもう我慢する必要がない。

 言葉の通じない相手なら、力でねじ伏せる。



 このまま何もなかったように許すなんて絶対にしないわ。


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