第6話 これからのこと
私の目の前で青い炎がゆらゆらと揺れている。
すべてを飲み込んできたこの十年間が終わりのときを告げようとしていた。
魔法誓約書は私がサインし終わると同時に空中に浮かび上がり発火して、制約が果たされた証として灰になっていく。欠片も残さずに燃え尽きると、私の肩にのしかかっていた重圧も一緒に消え去った。
私はこの瞬間王太子妃ではなくなった。
それなのに私の心は羽のように軽い。こんなにも負担に感じていたなんて一ミリも気づいていなかった。
魔法誓約書が灰になったという知らせは、すぐ各方面に伝わるだろう。その前の充分な根回しはウィルバート殿下がきっと済ませていると思うけど、もしできていなくても私にはもう関係のないことだ。
「それでは、今後この部屋はボニータが使うことになるだろうから、一刻も早く立ち去ってくれ。残った政務はボクが処理するからこちらに回せばいい。誓約書にある慰謝料については用意してあるから、すぐに使いを送る」
六年間も夫であった人からの最後の言葉は思いやりの欠片もないものだった。ボニータに惚れ込んでからは、さらに冷めた対応だったのを今更だけど思い出す。
「かしこまりました。すぐに支度して王城を去ります」
私の最後のカーテシーに振り向きさえせずに、ウィルバート殿下は執務室をあとにした。
* * *
処理の途中だったものだけ終わらせて、残りは補佐官に事情を話してウィルバート殿下の執務室に運んでもらうよう手配した。執務室にある物は処分してもいいものばかりなので、そのまま置いていくことにする。
早く立ち去れと言われたので、その通りにしようとアレスと私室に戻ってきた。
ドレスのままでは支度しにくいので、お忍びで着るようの簡易的なワンピースに着替え大きな鞄を取り出した。
ウィルバート殿下の命令で侍女たちもすでに引き上げているから、私室には私とアレスだけだ。荷造りを手伝ってもらいながら私は考える。
この九年間ずっと私の専属執事として仕えてくれた。主従契約があるとはいえ、変わらずにそばにいてくれたのは彼だけだ。
だからこそアレスには一番幸せになってもらいたい。どうしたら彼は幸せになれるのだろうか?
このまま一緒に伯爵家に戻ったとしても、王家からの圧力がかかるのは目に見えている。婚姻してから家族にすら一切の接触を許されなかったのだ。大切な人達の側に私がいれば迷惑がかかる。
アレスだけなら充分に実績を積んでいるから、最悪ほかの屋敷でも執事を続けられるはずだし、これだけ優秀なら他の職業でもやっていけるだろう。だから彼の幸せを考えるなら私と一緒に居続けるのは愚策でしかない。
「ねえ、アレス……貴方はどうする?」
「どうすると申しますと?」
「私は王太子妃でなくなったわ。一度実家に戻るけどすぐに国を出るつもりよ。だから主従契約はここでお終い。貴方はどうしたい? 伯爵家に戻りたい? 必要なら紹介状も用意するわ」
アレスは古ぼけたオルゴールを手にしてじっと見つめている。
それは私が初めてアレスから贈られた誕生日プレゼントだった。聞いたことのない曲だったけど、その不思議な旋律は心地よく私の心を癒してくれて、いつしか大切な宝物になっていた。
「ロザリア様は私と出会った時のことを覚えていらっしゃいますか?」
「ええ、もちろんよ。九年前になるかしら?」
「はい、私がボロ切れのようになって死にかけていたのを助けていただきました」
「懐かしいわね。あの時は私よりも背が低くて幼かったのに、今では頭ひとつ分はアレスの方が大きいもの」
「はい、お陰さまでしっかりと大きくなりました」
ふふっと笑い合って、まだ私が心から笑えていた時を思い出す。
「でもまさか、本当に私の専属執事になるとは思わなかったわ」
「それは……命を救っていただいたのです。当然のことです」
アレスは視線を上げオルゴールをカバンの中に入れてから、私の正面で忠誠を誓う騎士のように膝を折った。
「ロザリア様。私はあの時から生涯貴女様ただひとりにお仕えすると決めました。ご迷惑でないなら、これからもお傍に置いてくださいませんか?」
予想外の返答と真摯に見つめてくる夜空の瞳に、すぐに答えることができなかった。
だって私は何も持っていない。王太子妃でもなければ、伯爵家の娘であることも捨てようとしているのだ。
慰謝料として結構な金額をもらえるが、これから先のことを考えるとアレスを雇い続けるのは難しい。
「アレス……貴方の気持ちは嬉しいわ。そんな風に思ってくれて本当にありがとう。でも私には給金を支払い続けるのが難しいの。魔法契約も解除するから自由にしていいのよ?」
「給金など必要ありません。ロザリア様の専属執事こそが私の天職なのです。貴女様のお傍を離れるなど考えられません。必要であれば私が稼いでまいりますし、契約解除も必要ありません」
とんでもない申し出だ。どこの世界に主人のためにお金を稼ぐ執事がいるというのか。主人が対価を支払うから仕えてもらえるというのに。それともこの世にはそんな関係も存在するのかと一瞬だけ考える。
「え? それはありなの? いえ、そんなことないわね。あの、本当に私はただの庶民になるのよ? だから専属執事なんて大袈裟なことはできないの」
「……承知しました。それでは私をこの場で殺してください」
そう言ってアレスは胸元から取り出した護身用の短剣を私に差し出す。本来であれば刃物を持つことは許されないが、私が何度か暗殺者に狙われ許可されたものだ。
「どうしてそうなるの!?」
いきなり殺してくれと言われてもそんなことできないし、そもそもアレスに幸せになってもらいたいだけなのだ。
「私にとってはロザリア様がすべてなんです。お傍にいられないなら生きている意味がありません」
真剣な表情でアレスは言い放つ。どうやら本気らしい。本気で傍にいなければ生きている意味がないと思っているようだ。どうしてここまで忠誠心を向けられるのかわからない。
「ちょっと待ちなさい。私はただアレスに幸せになってもらいたいだけなのよ?」
「っ! そんな……なんて慈悲深きお言葉……! ですが、それなら簡単でございます」
もう答えは想像がつくけど、もしかしたら違うかもしれないから聞いてみましょう。
「そう、何がアレスの幸せなの?」
「私の幸せはロザリア様と共にあります。このまま専属執事を続けるのが私の幸せでございます!」
……そんなキラッキラした瞳で言われたら、もう断れないじゃない。
「わかったわ……充分な給金は払えないけど、衣食住は用意できるように頑張るわ」
「ロザリア様! ありがとうございます! 給金なんて気にしないでくださいね。私が稼いできますから! それではサクッと慰謝料をいただいて、サクッと出ていきましょう!」
最近あまり見ることがなかったアレスの満面の笑顔が目に染みるほど眩しかった。
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