第5話 愛妾が懐妊したので離縁されました
「ロザリア、聞いてくれ。大事な話がある」
「ウィルバート様。突然いかがなさったのですか? 先触れを出していただけたら、準備してお待ちしておりましたのに」
数ヶ月ぶりに見たウィルバート様は相変わらずキラキラと輝いていた。私の執務室に直々に足を運ぶくらいだから、余程のことなのだろうとアレスにお茶の用意を頼む。
「単刀直入に言おう。ボニータが懐妊した」
……ボニータが懐妊した? 聞き間違いかしら?
私の記憶違いでなければ、愛妾のボニータとは子を作らないと魔法誓約書まで用意したはずだけれど。
ああ、もしかして今日が六度目の結婚記念日だからサプライズ……ではなさそうね。そもそもそんな些細なことを覚えているのは私とアレスだけだもの。
「……もう一度仰って下さいますか?」
やはり聞き間違えたかと念のため確認してみる。
「だからボニータが懐妊したのだ。確かお前とは魔法を使って誓約書を交わしていたはずだな?」
「はい、魔法誓約で書類を用意いたしました。……あの、本当にボニータが懐妊したのですか?」
「なんだ、ボニータを疑うのか!? ちゃんと王宮医師にも見てもらって間違いはない! それよりも誓約書を早く出さないか、気が利かん奴だな」
聞き間違いではなかった。
あれほど子は作らないでと約束したのに何故……それよりも魔法を使った誓約書だから書かれた約束事は必ず守らなければならない。
あの時、誓約書に書いた内容は————?
あまりのことに頭がうまく回らない私に、アレスが誓約書をそっと手渡してくれる。いつもこうして私が言わなくても尽くしてくれるけど、今回だけは素直に受け取りたくなかった。
それでも震える手で受け取った誓約書をウィルバート様が奪い取って、濃紺のベルベットに包まれた台紙を開く。
「ほら、ここを見ろ!」
ウィルバート様が指差した先に書かれていたのは。
「ボニータが懐妊したら、離縁すると書いてあるぞ! これでボクはやっとお前から解放されるのだ!」
私はもう言葉が出てこなかった。
この人は何を言っているのだろう?
解放される? 誰が? 私がいつウィルバート様を縛りつけたの?
どんなに冷たくされても、どんなに理不尽な文句を言われても、どんなに私を顧みなくても、私がウィルバート様に何かを求めたことなどこの誓約書以外は一度もなかった。
何より私は大切な人たちの安寧を守るために嫁いできたのだ。
私に求められたのは王太子妃として腕を振るうことで、ウィルバート様の愛情を受け取ることではなかった。
だから私に回されたウィルバート様の政務も、王妃殿下の政務も処理するのが役割だと黙って受け入れた。私がこなした政務はウィルバート様の実績として周知され、弱者に寄りそった政策は国民たちからも絶大な人気を得ている。
ウィルバート様が愛妾を囲い込み、日々愛する女性と過ごしているのにも何も言わなかった。王立学院の時からわかっていたことだ。王城に召し上げるタイミングはもう少し考えていただきたかったけど、それも過ぎたことだ。
私が望んだことはたったひとつ。
世継ぎ問題を引き起こさないように、愛妾とは子を作らないことだった。
それが私が王太子妃として望んだ、たったひとつの矜持だった。
誓約書には両名ともに愛妾が懐妊したと知った時から、一ヶ月以内に離縁するものと書かれている。確かにそう取り決めた。当時アレスの助言に従って罰則も盛り込んだのは万が一の保険だったのだ。
それを逆手にとって、離縁したいというの……?
「ひとつ伺ってもよろしいですか?」
「うん? なんだ、最後だから何でも答えてやるぞ」
「どうしてそこまでして私を排除したいのですか?」
まるで感覚がないほど冷えた指先を固く握って、ウィルバート様に問いかける。
これでも王太子妃の仕事は精一杯やってきたつもりだ。ウィルバート様の評判も悪くない。なのにそれすらも認められないというのだろうか。
「ふん、そんなことか。そもそもお前のような地味な女は私の妻にふさわしくない。頭脳は明晰だったがいつもいつも比較されて、極めつけは何でもわかっているというようなお前の冷めた目が嫌で嫌で仕方なかったんだ」
え、それが理由でしたの……? ウィルバート様はもともと勉強があまりお好きでないようでしたし、学園ではボニータとほぼ毎日遊んでいらっしゃったから、差ができるのは当然よね。
それに冷めた目と言われても……むしろ歩み寄ろうと必死だったのだけど。
でも反論したら罵声が返ってくるだけだか、ここは沈黙いたしましょう。
「いいか、女は少し足りないくらいがちょうどいいのだ。それにな、ろくに人付き合いもできないような女が王太子妃など務まらんのだ!」
「人付き合いというのは、どういった意味でしょうか? 社交については失態を晒した覚えはございませんが」
バカにされていたのは知っているけど、政務はしっかりとこなしていたし面と向かって王太子妃に物申す強者なんていなかった。だから私が見ないふりさえすれば、表面上は問題なかったはずだ。
「ボニータが散々お茶に誘っているのにすべて断っていただろう!? ボクの妻として役目を果たしていないではないか!」
愛妾とはいえ男爵令嬢から誘われた茶会を、王太子妃の私が断ってなにがいけないのかしら? 何度か招待されたけど月末の一番忙しい時期だったし、決済が滞っては政務に支障をきたすからそんな時間も取れなかったのだけれど。
「たしかにボニータからの茶会は断っておりましたが、それは……」
「忙しいなどと言い訳するな! いくら時間がないとはいえ五年間も断り続けることはないだろう!!」
「五年間……でございますか? 最初の頃に何度かお誘いいただきましたが、それきりでございます」
「とにかくボクはお前との婚姻生活など続けていけないのだ!! いいかげん解放してくれ!!」
この婚約は王家から打診されて受けたものなのに、私が望んで王太子妃になったとでも言うの? それでもできるだけのことをしようと今まで心も体もすり減らしてきたのは、一体何だったのだろう?
…………ああ、そうか。
私がそんな風にしてきたことも、この人が知るわけないんだわ。
だって私のことをまともに見たことなんて、初めて会った時から一度もないんだもの。
諦めたはずだった。
私を見てほしいという気持ちも、私を認めてほしいという気持ちも、愛はなくとも私に寄り添ってほしいという気持ちも。大切な人たちのためにこの身を捧げるという誓いにうまく隠したはずだった。
ああ、これ以上は私も無理だ。
もう縋れるものが、何もない。
心の奥底に残っていた王太子妃として立つための矜持さえも、この瞬間に砕け散って私の体を巡る冷めきった血に溶けていく。
「わかりました。それでは誓約書にある通りウィルバート様とは離縁させていただきます」
誓約書の最下段に約束を反故にした際は、連名でサインして離縁できるように作成していた。
わずかに浮かべていたウィルバート様を気遣う気配を捨て去り、本気の冷めた視線を投げつける。私のまるで温度の感じない視線に驚いたのか、一瞬狼狽えたもののウィルバート様はしっかりと魔力を込めてペンを走らせた。
私も魔力を込めて最下段にロザリア・ヴィ・アステルの最後の署名を綴った。
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