知らないままで、さようなら
箕田 はる
知らないままで、さようなら
ただ嫌になっただけ。
僕はリュックにお菓子や漫画を詰め込むと、家族が眠る家を出た。
道の先は暗く、僕は一瞬怯みそうになる。
それでも僕は、リュックの紐をぎゅっと掴んでから、その暗闇に沈んでいる先へと足を向けた。
小学五年生にして、初めての家出のスタートだ。
行き先は決まっている。ここから十分ほど先にある、大きな公園だった。そこはよく、友達と遊ぶ場所でもあって、一番安全かなと思ったからだ。
夜中に一人で、誰もいない道を歩くのは初めてで、僕は少しだけ怖じ気づきそうになっていた。
それでもお母さんや弟に対する怒りが上回り、僕の足を止めることはなかった。
公園につく。もちろん人はいなさそうだった。夜の公園は虫の鳴く声と、風に揺れる葉擦れの音ぐらいしか聞こえない。
街灯が付いていて、思っていたよりも明るく感じられた。
さて、どうしようかと、僕は周囲を見渡す。藤棚のベンチの下で野宿しようと決め、そちらの方に足を伸ばす。
今の時期ならちょうど花も咲いていて、綺麗な屋根みたいになっているはずだった。
さっきまでは、怖さで緊張していたけれど、今は少しだけワクワクしていた。
公園の反対側に向かうと、藤棚が見えてくる。そこで僕は、ハッとして足を止めた。そこには既に、人が二人座っていたからだ。
スーツを着た大きな背と、僕と変わらないぐらいの白いシャツの背中。
まさかこんな時間に、親子連れがいるだなんて、想像していなかった。
僕の足音に気付いたのか、二人がこちらを振り返る。
若い男性と、僕と同じくらいの男の子だった。目が合ってしまい、僕は金縛りにあったみたいに固まった。
「君の友達?」
お兄さんは少し不機嫌そうに、隣に座る男の子の顔を見た。よそよそしい感じから、親子ではなさそうだった。
「違うよ。知らない奴」
男の子がぶっきらぼうに言った。
「何? 君も家出少年?」
僕に向かってお兄さんが聞いてくる。怒られなかったことにホッとして、僕はそちらに近づきながら「うん」と答えた。
「なんで? 小学生の間で、家出が流行ってんの?」
僕は苦笑いしながら、「さぁ」と答えた。
「同じ学校?」
お兄さんが隣に座っている少年と僕を交互に見る。
僕たちは顔を見合わせると、お互いに学校の名前を口にした。同じ学校であることが分かり、僕は思わず興奮して「一緒じゃん」と声を上げる。
「おい、静かにしてくれよ。バレたら、怒られるだろ」
お兄さんに怒られ、僕は慌てて口を手で塞ぐ。
「でも、俺、明日には転校するんだ。転校ばっかで、もう嫌になって逃げてきた」
男の子は顰めっ面になる。
「引っ越ししちゃうんだ」
僕は男の子の隣に座りながら、同情していた。転校なんてしたことがないけれど、それが辛いことなのは想像出来る。
「俺も、明日には転勤で、他の県に行くんだ。地元にいたいからって、今の会社に就職したのに、まさかって感じだよ」
お兄さんも溜息を吐く。
二人とも明日には、この土地を離れてしまうと知って、出会って間もない別れに何だか寂しい気持ちになっていた。
「どうにかならないの?」
二人に向かって言った僕の声は、切羽詰まっていた。
「どうにもならない」「ならないから、ここにいるんじゃん」
二人が同時言う。
「お前は? 何で家出したの?」
男の子に言われ、僕はむっとしながら「お前って言っちゃいけないんだよ」と注意する。
「僕はお母さんにムカついたんだ。お兄ちゃんなんだから、我慢しなさいとか、勉強しなさいとか、何でもかんでも命令してくるんだ」
思い出すだけで、怒りが込み上げてくる。弟も弟で、僕が怒られるとニヤリと笑うのだ。わざとやっているみたいで、僕は弟が嫌いだった。もっと小さい頃は、お兄ちゃんお兄ちゃんって言って、可愛かったのに……
「あー分かる。うちの親もそうだもん。ゲームしてないで、勉強しなさいとか言ってくるから」
男の子の同意に、僕は何だか嬉しくなっていた。
「そんなの、大人になってからも変わんないよ。理不尽なことで怒られるし、嫌なことだって沢山しなきゃなんないんだから」
「えっ? そうなの?」
僕は驚いてお兄さんを見る。お母さんはいつも怒ってばかりだから、大人は怒る側の人間だと思っていた。
「そうだよ。たぶん、死ぬまで怒られ続けると思う」
「……それは嫌だな」
死ぬまで怒られなきゃなんないのに、どうして生きなきゃいけないのか分からなかった。僕は絶望的な気分になる。
「じゃあ、どうしたら怒られずに済むんだよ」
男の子が問い詰めるようにして、お兄さんに聞く。
お兄さんはうーんと言いながら、腕を組んだ。少し考えた末に、「偉くなるか、賢く生きるしかないな」と言った。
意味が分からず、僕たちは首を傾げる。
「偉くなって社長になれば、怒られることは減るんじゃないかなぁ。あとは、人の求めることを自らすれば、怒られることはないよ。まぁ、それが出来たら苦労しないんだけどね」
よく分からなかったけれど、お兄さんも大変なんだということだけは伝わってきた。
「子供には分からないだろうけど、子供のうちにしかない自由もあるからね。お金を稼いだり、家事をしなくていいのは、子供の特権だから。将来、嫌でもしなきゃなんなくなるし」
それからお兄さんは、腕時計を見て「うわっ」と声を上げた。
「もう、こんな時間か。明日は引っ越しもあるから帰らないと」
お兄さんが慌てて、立ち上がる。
「君たちも帰った方が良い。送っていくから」
怒られたくないだろと促され、僕たちは立ち上がる。家出してきたはずなのに、家に帰らないとという気持ちにさせられていた。それは大人がいる安心感から、子供だけになる恐怖を思い出したからかもしれない。
お互いにだいたいの家の場所を言うと、男の子、僕の順番で向かうことになった。
男の子の家は、僕の家とは逆の方向だった。
見たことのない道を歩きながら僕たちは、近づく別れを誤魔化すように、学校の話をしていた。お兄さんも学生時代の話をしてくれて、僕たちは笑い合った。
「ここだから」
男の子が、マンションの前で足を止める。
「じゃあ」と言う男の子に、僕は「元気でね」と言った。本当は寂しかったし、もう会えないと思うと泣きそうにもなる。多分それは彼も同じで、早々に向けた背が丸まって見えた。
「頑張れよ」
お兄さんがその背に声をかける。男の子は格好よく、手を上げて返していた。だけど、すぐさま袖で目元を拭っていたのを僕は見て見ぬ振りをした。
「行こうか」
お兄さんも察して、僕を促してくる。
それから僕たちは、二人で愚痴を言い合いながら僕の家へと向かった。
お兄さんは会社の上司に対する愚痴。僕は親や先生に対する不満。でも吐き出すうちに、自分の怒りや不満が一緒に口から出ていくみたいで、心がすっきりとしていた。
お兄さんも同じなようで、「子供にこんな事いうなんて、大人失格だな」と言いつつも、その顔はすっきりしていた。
「大人とか子供とか関係ないよ。嫌なものは嫌なんだ」
僕はお兄さんと話すうちに、大人なりの大変さに気付かされていた。
「まさか、子供に励まされるとはね」とお兄さんは笑う。
僕の家が見えてくる。最後の別れが近づき、僕の足取りは鈍くなる。
それでも、あっという間に着いてしまう。
「お兄さん、ありがとう」
僕はお礼を言った。多分、一人だったら、ずっとはあの場所にいられなかったと思う。それにお兄さんやあの男の子と出会ったことで、悩んでいるのは自分だけじゃないって知ることが出来たのだ。
「お互いに頑張ろうな」
「うん。お兄さんも鬼上司に負けないでね」
お兄さんは「おう」と、笑顔を見せる。
僕は手を振ってから、家の門扉を開けた。
本当は「また会えるかな」と聞きたかった。だけど、それを聞いたところで、お互いに困ることは分かっていた。
あの男の子が名前を聞いてこなかったのも、僕があえて聞かなかったのも、寂しさがもっと増えるのが分かっていたからだ。
それでも、僕にとっては一生忘れられない出来事になっている。
玄関のドアをこっそりと開ける。音がしないように気をつけながら、そっとドアの隙間から体を滑り込ませた。それから、閉じかけた扉の隙間から外を見る。
すでにお兄さんの姿は、見えなくなっていた。
知らないままで、さようなら 箕田 はる @mita_haru
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