テーボジィと「たんぽぽのコーヒー」

柴田 恭太朗

テーボジィと過ごした夏

 僕が『テーボジィ』と出会ったのは、

 小学校二年の夏休み。


 とても暑い日のことだった。


 近くの林でセミがジージー鳴いている。

 小川の水面には、メダカがうじゃうじゃいる。

 メダカの学校よりすごい。まるでメダカの盆踊り大会だ。


 小川の水は薄緑色。

 僕は玉網たまあみの竿を握りなおす。


 魚をおどろかせないように、ゆっくりと川の中をすくう。

 サッと川から網を上げた。

 中にはピチピチと跳ねる魚が五匹。


 やった!

 大きいメダカも捕れた。


 すくったメダカは、川の水をくんでおいたポリバケツに放りこむ。

 僕と一緒についてきた『ああちゃん』がバケツの横にしゃがんで、

 「リョウちゃん、たくさんとれたね」って、うれしそうにバケツのメダカをのぞく。


 ああちゃんは僕のひとつ下で小学一年生。

 小さいときから兄妹きょうだいのようにして育った幼なじみだ。

 真っくろに日やけしていて顔は男の子みたいだけど、じつは女の子。

 おさげ髪に赤いリボンだって結んでいる。


ぼう、何が捕れた?」

 僕らに声をかけてきたのは、ニコニコしたおじいさん。

 フローシャだ。


 着ている服はヨレヨレ、髪の毛は長くてボサボサ。

 ヒゲも白くてボウボウだから、フローシャだってすぐわかる。


 フローシャは堤防の向こうに広がる河川敷に住んでいる人。

 街の人たちからは人さらいだとか、人ごろしだとかいわれている人たちだ。


 ああちゃんがバケツの脇からパッと立ち上がり、僕のうしろに隠れた。

 僕もこわかった。

 でも、ああちゃんは、もっとこわいと思う。


 だから僕はお腹に力を入れて、がんばって答えた。

「メダカ」


「そうかメダカかぁ、」

 フローシャのおじいさんがバケツをのぞき込む。

「クチボソもいるじゃないか。おっ、ハヤもいるな」、おじいさんは僕の知らない魚の名前をつぎつぎと呼んだ。


 僕は魚の名前をあまり知らないから、

 ふつうのメダカと大きいメダカ、

 それにカッコいいメダカって呼んでいる。


 さっきから、ああちゃんが僕の手をひっぱっていた。

「人さらいと話しちゃダメって。おかあさんが」

 ささやきながら、もじもじと体を左右に回す。

 そのたびに赤いチェックのスカートが、アサガオのつぼみのように小さく開いたり閉じたりする。


「おじいさんって、人さらい?」

 ああちゃんが心配するから、僕は聞いてみた。


「アッハッハ、人さらいじゃないよ」

 おじいさんは、白いヒゲをふるわせ上をむいて笑った。

 楽しそうな笑い声を聞いて、僕はこの人は悪い人じゃないと思った。


 フローシャは歯が抜けている人が多いけど、このおじいさんは歯がキレイ。

 ちゃんと歯みがきしている証拠だ。

 だからいい人。


「フローシャは人ごろしだって」、ああちゃんが僕の服をツンツンひっぱった。

「おじいさん、人ごろし?」

「それも違うなぁ。はじめて会った人にそんなヒドイこと言っちゃいけないよ」

 おじいさんは優しい目で僕の顔をじっと見てきたので、僕ははずかしくなった。

「ごめんなさい」

ぼう、キミの名前は?」

「リョウ」

「リョウくんか。知りあった記念に『たんぽぽのコーヒー』をごちそうしよう」


――たんぽぽ?

――コーヒー?


 もし、おじいさんがお菓子やオモチャをあげるといったら、ぜったいに僕はついて行かなかった。


 でも、たんぽぽのコーヒーってなんだろう?

 わからないけど面白そうって思った。


 わからないことは、もうひとつある。


「おじいさんの名前は?」

「名前はないんだ。捨ててしまったからな」

 おじいさんは、さびしそうに笑った。


 大人になると名前を捨てることもあるのかな?

 あるんだろうな。悪い魔女に名前を取られてしまう絵本を読んだこともあるし。

 大人はたいへんなんだ、と僕は思った。


 でも、おじいさんを名前で呼べないと困る。

 だから、こう言った。


「名前を知らない人は、知りあいじゃない」

「ほォ? 知らないから知りあいじゃないか。なるほど一理ある。リョウくんは哲学者だな、」、おじいさんは目をまんまるにした。

「わしは堤防爺ていぼうじい。わしのことを、みなそう呼ぶよ」

「テーボジィ?」

「ンぁ? あぁ、それでいい」

「テーボジィ」、言葉の響きが面白かったのか、ああちゃんもつぶやいた。

「こっちのお嬢ちゃんは?」

「ああちゃんだよ」、僕は幼なじみを自慢したい気持ちで答える。

「よろしく、ああちゃん」


 そうやって僕とああちゃんはテーボジィと知りあい、家に招待された。


 ◇


 僕らがいた小川から長い階段をのぼって行って、おりたところが堤防の向こうがわ。

 広い河川敷がある。


 ほこりだらけの河川敷には、フローシャの家がいっぱい並んでいる。

 木と段ボールと青いビニールシートの家。


 テーボジィの家も、ほかの家と同じように板とビニールシートでできていた。

 ひとつ違うのは、家の横に小さな池があることだ。


 ◇


 電気がないから家の中は暗い。それに狭い。

 僕らはテーボジィの家の前に箱をおいてテーブルにした。

 椅子もないので、その辺にあった段ボールをしいて座る。


「さあどうぞ」

 テーボジィが僕らの前にカップをおいた。

 中身は濃い紅茶みたいな色。

 こげくさいけど、イヤなにおいじゃない。


――たんぽぽのコーヒー。


 テーボジィは、たんぽぽの根っこを干して、フライパンで焦がして作るんだといっていた。

 それでもコーヒーは、コーヒーだ。


 僕たち子どもは、コーヒーを飲ませてもらえなかった。

 お父さんとお母さんはいつも飲んでいるのに、子どもはダメって。

 夜寝られなくなるからって。

 自分たちは飲むのに。

 ずるい。


 コーヒーを飲めば、大人になれる気がする。

 きっと僕はテーボジィみたいに、ずるくない大人になる。


 そんなことを思ってカップを手に持つと、香りがもっと強くなった。

 僕は、たんぽぽのコーヒーを一口飲んだ。


 濃いお茶みたい。すこし苦い。

 そして、ほんのり甘い味がする。

 残りを全部いっぺんに飲んだ。


 おいしくないけど、

 僕はすこし大人になれた。

 それだけで満足だ。


 ああちゃんは僕を見て、

「ねぇ、お砂糖はー?」っておねだりしてきた。

 ちょっと首をかしげて。上目づかいで。

 さんだ。


 砂糖をいれたら大人になれないじゃないか。

 だから僕は知らんぷりした。


 すると、ああちゃんはテーボジィの方を向いて、

 首をかしげて上目づかいをした。

「ねぇ、お砂糖ー」

「ごめん、うちに砂糖はないんだ」

「えぇ! なんでぇ?」

 ああちゃんは目を大きくした。本当にびっくりしたみたい。

「アリが砂糖を食べちゃうからさ」

「アリさんがぁ? パクパクってぇ?」

 何がおかしいのか、ああちゃんはケタケタ笑い、細い足をのばしてジタバタさせた。

 ああちゃんは生え変わった前歯が大きいから、笑うと子リスみたいな顔になって、かわいい。


 かわいい子リスのああちゃんは、たんぽぽのコーヒーをちょびっと飲んで、

「ごちそうさま」と、カップをおいた。


 ああちゃんは、まだまだ子どもだ。

 僕とテーボジィは、顔を見あわせて笑った。


 ◇


 さっき僕が捕まえたメダカたちは、帰りにテーボジィの池に放した。


 この池はビオトープっていうんだ。

 テーボジィが、そう教えてくれた。


 ビオトープには魚や貝が住んでいる。

 そのうちトンボになるヤゴもいる。

 バクテリアっていう目に見えない生き物もいる。

 池のまわりは葦が生い茂っている。

 ときおり野鳥が遊びにくる。


 小さな池だけど、

 ここには小さな命がたくさん生きている。


 それから夏休みのあいだ、

 僕はああちゃんを連れて何度もテーボジィの家へ遊びにいった。


 林でセミがジージー鳴いているのは、セミしぐれ。

 川の水が薄緑色なのは、植物プランクトンがいるから。

 プランクトンって翼竜プテラノドンみたいだなって思ったのはナイショだ。


 そして、魚はメダカだけじゃない。いろんな種類がいる。

 いまでは僕も全部名前をいえるようになった。


 みんなテーボジィが教えてくれたから。

 いろんなことを知るのは楽しいし、ワクワクする。


 ◇


 それは二学期がはじまった日。

 だから9月1日。


 校長先生がみんなの前で『河川敷さいかいはつ』のお話をした。

 危険なので工事現場に近づいちゃいけませんって。

 フローシャのことは何もいわなかった。

 僕はテーボジィのことを考えて、胸がドキドキして落ちつかない気持ちになった。


 家に帰ると玄関にランドセルを放りだして、堤防へ急いだ。

 僕は息をゼエゼエさせながら、ずっと走る。

 すごくノドがかわいたけど、一度も休まなかった。


 堤防に着いて見おろした河川敷には、フローシャの家がひとつもなかった。


 ダンプが運んできた赤土を、ブルドーザーが黒い煙をはきながら動きまわって、河川敷に押し広げている。トーストの上にバターを塗り広げるみたいにして。


 河川敷には柵が作られていたので、堤防からおりられなかった。

 しかたなく堤防の上に立ってながめていたら、テーボジィのビオトープが粘りけのある赤土で塗りつぶされていくところが見えた。


 ブルドーザーのキャタピラが池に生いしげった葦をなぎ倒して、めちゃくちゃに踏みつぶす。魚や貝やヤゴ、それにバクテリア。たくさんの貴重な生命が生きていたビオトープを、大きくてじょうぶな鉄の板がたっぷりの赤土で埋めて、どんどん平らにしていく。


 その光景を僕は歯をくいしばって見ていた。

 テーボジィと僕らの思い出が、何もなかったことにされていく。


 テーボジィはいまどこにいるんだろう。

 どこかで、このようすを見ているのだろうか。

 見ているなら、どんな気持ちでいるんだろう。

 汗がひとすじ、ほっぺたを伝って流れおちた。


 堤防の空を、気の早い赤トンボが何度も行ったりきたりしている。


 きみもテーボジィを探しているの?

 心の中で話しかけると赤トンボはスィーとおりてきて、僕の肩に止まった。

 透明な羽をふるわせ、大きな眼が僕を見て虹色に光る。


 きみがテーボジィなの?

 堤防の風に吹かれ、赤トンボは僕の肩から離れてツィっと飛んで行った。


 『テーボジィ』を目で追った先には、

 どこまでも広く青い空と

 白くかがやく大きな入道雲。


――夏が終わる。

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テーボジィと「たんぽぽのコーヒー」 柴田 恭太朗 @sofia_2020

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