モラトリアムを泳ぐ・2
幼い頃、母から言われた「努力は報われる」という言葉が好きで何事にも人一倍練習してなんでも一番になることが――そう、生きがいだった。
未熟児として生まれた私は気管支が弱く、同級生となかなか外で遊べずやることが勉強しかなかったこともあったのか小学校のテストは学年で一位、二位を争うほどのものだった。
体育の方は肺活量の問題もあり、無理をしすぎると倒れてしまうので頑張りすぎないようにしていたせいか、クラスで最下位をうろうろしているような状況だった。
小学高学年になると全員必須で何かしらの部活に入らなければならなかったため、私は迷わず好きだったスポーツである水泳部に入部した。
丁度思春期に入ったくらいだからか、それとも自分の体型の変化に戸惑っているからか、私には分からないが女子が私を含めて二人しかいない部活だった。
男子と大して体型の変わらない、つまり胸の膨らみがない私はてんで構わなかったが、この部活を選んでしまったこともあの出来事を引き起こす要因の一つだったのだろう。
腕力はないが脚力はあったため、ビート板を使ってずっと練習をしていた私はふとプールサイドに立つ新入りを見つけた。
教師に連れられて何やら話し合っているようだ。
眼鏡がないと何もかもぼんやりとしかみえないほど視力が衰えていたのでその人物が誰なのか全くわからなかった。
しかし、相手がじゃぽんとプールに入って私の名前を呼んだせいで理解できた。
「プログラミング部に入ったんじゃなかったんだ」
嬉しそうにゴーグルを上下逆さまにつけて手を振る人物は、岩村だった。
いつも完璧に近く、そんな間抜けな姿を見たことがなかったので思わず吹き出してしまった。
「ゴーグル、逆」
「うわ、だからなんか変な感じだったのか」
帽子も一緒に脱げてしまったらしく、あわあわと慣れない手つきで直す彼の姿にふと胸が高鳴っていることに気付いた。
――まさか、ね。
「でも、泳げたんだ。意外」
「それはこっちの台詞。運動音痴で有名なのに泳げるのか。溺れない?」
「失礼だね。沈めてあげようか」
「プールの中で言われると洒落にならないから」
私からビート板を奪い取って泳ぎ始めてしまった。
「あ、ちょっと」
こちらを向いて片手でピースマークを作る。
「ほら、これでも使えって」
恨めし気に奪われたビート板を見やっていると、後ろから頭をぽんと叩かれた。
もう一人の女子部員であり、部長もつとめている一つ学年が上の先輩がにやにやと笑いながら自分が使っていたビート板を渡してきた。
「いやあ、とんだ奴が入ってきたなあ」
面白くなってきた、と笑う先輩に嫌な予感がしたのでありがたく受け取ってその場を離れようと壁を蹴った。
「ちょーっと待ちなさい。で、あの子とはどんな関係なんだい?お姉さん、気になっちゃうなあ」
蹴った瞬間、優しく足首を掴まれてしまう。
「なんでもありませんって。ただのクラスメイトです」
「ふーん?」
なにか含みを感じるその言い方にむっとして掴まれていない方の足で思い切り腹を蹴飛ばした。
身体を九の字に曲げて手の力を抜いた瞬間、私は全力でキックをした。
「あ、逃げたな!?」
このー、と言いながらゴーグルを付けた先輩を見て私はさらに早く泳ぐ。
そして、逆側から折り返してやって来た岩村を見て、はと思いつく。
「ストーップ!」
ビート板の前を掴んで止まらせれば不思議そうな顔でこちらを見てきた。
「新入部員よ、我が水泳部の部長を紹介しよう」
追いついた部長が私に何か言う前に岩村をぐいと前に押し出す。
「私じゃなくてこちらに質問をどうぞ。では」
教師の目が、女子の目が――部長は例外だ――ないこの時間は私の中で息抜きになっていたのだろう。
「あんな風にはしゃぐんですね」
優しい目で私を見ながら彼はぽつりと呟いた。
あれは夏休みに入る数週間前だっただろうか、ある事件が起きた。
些細なものであり、そこまで大事ではなかった――いや、あれは教師の独断でもみ消されたというべきなのか――が、今でも犯人が判明していない事件である。
席替えで岩村が後ろの席になり、あるグループからの視線に鈍い私でも気付くようになったある日。
休憩時間になって私も岩村も丁度教室から離れていた。
教室に戻り、ハンカチをポケットにしまいながら自分の席に向かっていると呆然と立ち尽くしている岩村の姿があった。
彼の机の上には自由帳が置かれ、何故か消しゴムのカスがたくさんあった。
休憩時間にちまちまと自分の好きなものを模写するのが好きだと言っていた彼は私に絵を描く際のコツを実際に描きながら教えてくれていた。
私は全く絵心はなかったが、真っ白な紙に立体的なものが描かれていく様子を見るのが好きだった。
その日もお互いに用を済ませたら絵を描く様子を見せてもらう約束をしていたのだが。
「どうしたの」
表情が一切ない彼の様子に驚き、状況を理解して一気に怒りがこみ上げた。
――彼が時間をかけて丁寧に描いてきた絵が消えていたのだ。
「なんであんなことをしたんですか。貴女は模範生であり、学年上位であり、下級生の手本の中の手本だったはずですが」
職員室に呼び出され、担任にねちねちと説教をされている。
私に不利益なことがあった時には真剣に対応してくれないくせに、逆の場合にはこんなに生き生きと話すのか。
「しかし、私は悪いことをしたとは思っていません。きちんとあのことに対して対処をしない先生に代わって独自に動いたまでです」
岩村が描いた絵が消されていた事件のことはきちんと担任に伝え、何かしらの対応をしてくれないかとその日のうちに言った。
しかし、担任は翌日の朝礼の際に「何か知っていることがある人は後で先生に言ってくださいね」と言うだけだった。
更に、ある女子から「井上さん――これは私の名前だ――が消しているのを見ました」と情報があったと言って放課後に私を呼び出して自作自演か、何をしたいんだ、悪いことをしたのならば被害者にきちんと謝れ、とそのことを事実だと決めつけ、私に本当の事なのかを確認するでもなく一方的に責めた。
いくら弁解しようが、「このことを教えてくれた勇気ある自分のクラスメイトを嘘つき呼ばわりするんですか」と更に私に指導するばかりで早々に担任と対等に話すという行為が無駄だと見切った。
だから、個人的にクラスメイトに聞き込み調査を行い、誰がその時間帯に何をしていたのかを調べた。
私たちの後ろの席の男子に聞き、「そういえばあの女子たちが岩村の席の周りに集まって何かしていたけど」という証言を得た時、私はぎょっとした。
担任お気に入りの生徒がいるグループだ。
「個人的にアドバイスをさせてもらえば、この件に首を突っ込むのはおすすめしないぜ。井上が傷ついて終わるだけだ」
俺、女子には珍しく相手の顔色を窺わずに自分の信念を貫いて行動する井上の事を尊敬しているから、無駄に傷ついて欲しくないんだ。
顔色を変えずにそう言う男子にほんの少し照れてしまう。
「でも、それならそう言われたとしても私が突っ走ってしまうことなんてお見通しでしょう」
「まあな。ま、俺は臆病だからそんな風に行動できない。応援だけはしている」
「私だって臆病だけどね。それに、偽善者かもしれないよ」
「それでも、嫌なことをする奴よりかは良いやつだろ」
「そうかもね」
大学の講義が終わり、スマートフォンを取り出せばメッセージアプリにたくさんのメッセージが来ていた。
『久し振り。こうやって連絡をするのは中学入学以来かな。奥原です。覚えている?』
奥原、という名字を見て私は短く息を吐きだした。
急いでトイレに向かい、便器に喉を伝ってきた液体を吐き出す。
奥原。
嗚呼、忘れたいのに忘れられない名前だ。
小学五年のあの頃、私をクラスから孤立させようと様々な事件を起こしたクラスの中心的人物であり、担任のお気に入りの生徒だった女子だ。
何故、今更。
今になって連絡を取ってきたのだろうか。
メッセージには続きがあった。
『岩村君、覚えている?彼、ゆーなと付き合い始めたんだって。凄いよね。小学校の時の同級生同士が付き合うなんて。うちら女子の憧れじゃん?』
私の手からスマートフォンが滑り落ち、冬でもないのに身体が震え始めた。
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